縁談
縁談
「よし」
今日の授業で使う資料と問題集を手に持ち、アイリスは屋敷内の廊下を歩いた。
あの日、セレクトショップ内でレイチェルは他の客の話など気にも留めていなかったようで、自宅に戻るまで特に気にした様子はなかった。
その点だけが、アイリスの救いだった。
もし、兄のスチュアートまで悪評の的にされていると知ったら、レイチェルはきっと怒りを顕わにしただろう。
ここにいることが原因なのだから、自宅に戻るべきなのはわかっているが、あれ以来外を出歩くのがこわくなってしまった。幸い侯爵家に直接あの噂は届いていないらしく、この屋敷の中ではおだやかな日向にいるように、落ち着いている。
それが苦しくもあり、有り難くもあった。
結局図々しいと思いつつも、この屋敷の中で過ごす心地よさに甘えてしまっている。
迷いつつ、今日もレイチェルの授業をするべく、彼女の部屋に向かっている。今日は彼女の苦手な数学だ。
関数だから彼女は嫌がるだろう。「先生、これって覚えたところでなんの役に立つの?」なんてむずがる様子が目に浮かぶ。
想像すると、少し頬が緩んだ。
どうやって、やる気を出してもらおうか、そんなことを考えていたとき、屋敷の使用人たちが、どこか浮足立っているのを感じた。
モンタギュー家の使用人たちは、皆真面目で勤勉だ。それぞれの役目を懸命にこなしている。アイリスが突然モンタギュー家で暮らすことになったときも、侯爵夫妻と同様にアイリスを温かく歓迎してくれていた。
そんな彼らが、掃除をしながら、物品を運びながら、どこか上の空でソワソワしている。特にメイドたちは女性ばかりだからか、私語を挟みながら仕事しているようだ。
珍しい様相に、アイリスは首を傾げた。
なんだろう。別にクリスマスやイースターなどのイベントごとではない。
誰かの誕生日などでもなさそうだ。
だとしたら、この浮き足立った空気はなんだろう。
不思議に思いながら廊下を進むと、ワゴンを運んでいるメイドが見えた。アイリスの馬車に同乗してくれたメイドだ。彼女はあれ以来、他の使用人たちよりも距離近く接する関係になっていた。レイチェルの好きなアクセサリーやお菓子の好みを教えてくれたのも、彼女だ。
アイリスが声をかけると、彼女は一瞬逡巡した素振りを見せ、迷いながら答えた。
「……スチュアートさまに縁談が持ち上がっているのです」
スチュアートに縁談。
聞いた瞬間、アイリスの目の前は暗くなった。
続くメイドの声が遠く聞こえる。
何を驚くことがあるだろう。
スチュアートは侯爵家の嫡男で、次期宰相は約束されたようなもの。そんな彼がいつまでも独身でいるはずがない。
貴族は妻帯して初めて一人前として認められる。これから本格的に王宮で働くとなれば、そのために身を固めておくのは当然だ。
むしろ今まで婚約者がいなかったことが不思議なくらい。妻帯して、地位を盤石なものにするべきだ。
だが、その事実がアイリスに重くのしかかった。
もしかしたら、スチュアートも少なからず自分に気持ちがあるのではないか、なんて淡い期待を持っていた自分が恥ずかしい。
婚約破棄されて社交界で噂になるような女、スチュアートと釣りあうわけがない。最初から可能性などなかったのに。
優しくされて、自身の存在を受け入れられて、舞い上がっていた。
その後、どうやってレイチェルの部屋に辿り着いたのか、まるで覚えていない。
いつも通り教科書を開き、問題を彼女に解いてもらうが、その進捗具合も全然頭に入ってこない。
授業中なんどもレイチェルから声をかけられるが、アイリスはそのたびに上の空になっていた。
「先生、ここなんだけど……。アイリス先生?」
「あ、ああ。ごめんなさい。面積の公式は……」
「今日は関数でしょう? どうしたの、先生」
「あ、そうだたわね。ごめんなさい、ぼうっとしてたわ」
胡乱気な瞳を向けられ、アイリスは慌てて謝罪した。
雇われている身でありながら、とんでもないことだ。授業中に教師が注意力散漫になるなんて。
その後もアイリスは何度も授業中に空を見つめ、ぼんやりとすることを繰りかえした。
これでは授業にならない。
体調が悪いのでは、と誤解してくれるレイチェルに申し訳ないと思いつつ、アイリスは今日は休ませてもらうことにした。
自室に戻ると、鉛の様な空気が全身にのしかかる。立っていることもつらくなり、アイリスは倒れこむようにベッドに横になった。
朝にスチュアートの縁談の話を聞いて以来、アイリスは心ここにあらず、が続いている。スチュアートが誰と結婚しようと、アイリスに関係があることではないのに。
関係……ない?
ああ……わたくしはなんと愚かだったの。
こんな状況になってようやく気づくなんて。
苦手だった彼の思い寄らない一面を見ながら、ギャップに驚いているだけだと思いこんでいた。
突然彼の膝に乗せられて、嫌じゃなかったのも。
キスをされるのかと期待してしまったのも。
揶揄われてがっかりしたのも。
みんなみんな、彼に心寄せてしまったからだ。
彼への想いに、気づいたと同時に失恋だなんて、滑稽だ。
彼はこれからその令嬢との縁談が進み、結婚するのだろう。
ここで家庭教師を続けるということは、それを目の当たりにする、ということなんだわ。
顔合わせで、お相手の令嬢はモンタギュー家を訪れるだろう。
それどころか、その令嬢がスチュアートの横に並ぶのを見ながら、同じ家の中で過ごすことになる。
彼の妻を「若奥様」と呼ぶの?
エリオットとイザベラのように、仲睦まじく寄り添う姿を見続けるの?
そんなこと耐えられるわけがない。
それに、昨夜自分にどんな悪評がついてまわっているか、思い知った。しかもそれはスチュアートにまで及んでいる。
『モンタギュー家に居座っている』
『妻の座を狙っているんじゃない? 浅ましいわ』
『あんな女を受け入れるだなんて、スチュアートさまもどうかしている』
昨日耳にしたアイリスへの評価は、関わったスチュアートも同時に貶めていた。
これから国政に深く関わっていく、国の要人である彼に、そんなケチがついてはならない。
それが自分が好きになった男性なら、なおさら。
アイリスは決断した。
自分の気持ちを自覚したなら、自分がどうするべきなのかも決まっている。
スチュアートを困らせたくない。邪魔になりたくない。
アイリスは起き上がり、ペンを取って便箋に向かった。




