ばらまかれた悪評
結局、アイリスは朝までろくに眠れなかった。
ベッドの中で右を向いたり左を向いたり。ひたすらに寝返りを打つばかりで、悶々と過ごしたのだ。
なのに、諸悪の根源であるスチュアートは、涼しい顔をして食堂にやってきた。
それどころか、「眠れたか?」なんてわざわざ耳元で囁いてきたのだ。
飛び上がりそうになっているアイリスを見て、スチュアートは肩を震わせていた。
その瞬間、昨夜のあれは揶揄われたのだと、思い知った。
レイチェルの言っていた通りだ。
彼はきっと幼少期から変わっていないに違いない。悪戯をしかけては、相手の反応を見て楽しんでいるのだ。
なんって意地悪なの。性格悪いわ。
つい先日まで苦手で避けていた相手に、こんな感情を抱くことになるとは。
アイリスは眉根を寄せて、ふくれた。
何が面白いのか、スチュアートはますます吹き出している。
その反応にますます腹立たしくなるものの、同時に胸の奥がちくりと痛んだ。
アイリスを眠れなくさせた、あの距離感。互いの息がかかりそうなほど男性と近づくなんて、アイリスにとっては初めてだったのに。
スチュアートにとっては取るに足らない出来事。遊びで揶揄ったにすぎない。
なんの意味も含まれていない、ということだ。
一瞬でも、スチュアートが自分に好意を抱いているのでは、なんて都合のいい想像をした自分を殴りたい。
キスなんて、されるはずがなかった。
今度は違う恥ずかしさが、津波のように押し寄せ、アイリスは消えたくなった。
「――先生。アイリス先生!」
「は、はいっ」
名前を呼ばれ、アイリスは顔を上げた。
胡乱気なレイチェルが、アイリスを仰ぎ見ている。
「もう、先生ったら何回も呼んでるのに」
「ご、ごめんなさい。ぼうっとしてました」
レイチェルは何度も話しかけていたらしい。彼女は商品ケースの前で小首を傾げている。
今日、アイリスはレイチェルと一緒にショッピングに来ている。
レイチェルが科学のミニテストで満点を取ったご褒美に、息抜きに外出しているのだ。
本当は午後は数学をもう少し先分野まで進めてしまおうと思っていたのだけれど、レイチェルにご褒美が欲しいと強請られた。
次にもっと頑張るモチベーションになるから、と懇願されアイリスが折れた形になる。
なんというか、おねだり上手なのよね。さすが末っ子甘え慣れているというか。
これはご両親が甘やかしてしまう、と言っていたのもわかる。
結果的にアイリスも彼女のおねだりを聞いて、こうしてセレクトショップを訪れているのだから。
有力貴族はドレスは自宅にサロンが来ることが多いので、自宅で見繕うことがほとんどだ。しかし、たまには気の向くままにさまざまな店を見てまわりたいのが女心。普段はひとりで出歩くことを許されていないレイチェルは、足取り軽くはしゃいでいる。
そうして訪れたセレクトショップは令嬢たちの話題に上がっていた店だった。オーナーの女性が諸外国を訪れた際に買い付けたアクセサリーや雑貨を売っている店だ。ひとと被らないデザインは、おしゃれに余念ない令嬢たちを夢中にさせている。
「もしかしてこのイヤリング、カップケーキ!? かわいい!」
ショーケースに並んでいるイヤリングやネックレスは、デザートや果実をモチーフにしたもので、普段使いによさそうだとレイチェルは目を輝かせている。
普段はシンプルな石をワンポイントにしたアクセサリーが多い。もちろんフォーマルな夜会ではそれが必須だが、気心の知れた女性だけの茶会では、遊び心を取り入れたおしゃれを楽しみたいものだ。
昨夜の出来事ですっかり混乱していたアイリスは、ようやく現実に戻った。
やめよう。あのかたのことを考えるのは。
そもそも悩むような関係にはなりえない。生徒の兄、と雇われた家庭教師、それだけの関係なのだから。
気を取り直し、アイリスはレイチェルとともにショーケースを眺める。
「ねえ、先生。おそろいのアクセサリーを買いません?」
「いいですね、どれにしましょうか」
気安いレイチェルの雰囲気に、ついアイリスも心を許してしまう。人懐こい彼女の笑顔に癒されながら商品を見ていると、背後で別の客たちが入店した気配がした。人気の店だ。さまざまな客が訪れるのだろう。若い女性たちの気配に、驚くことではなかった。
耳に飛び込んできた、その声を聞く前は。
「みなさんにお勧めしたくって。ここ素敵な品揃えでしょう?」
「まあ、本当に聞いていたとおり斬新でおしゃれなお店ですわね」
「さすが、イザベラさまですわ」
名前を聞いただけで、アイリスの指先が冷たくなった。
聞き間違うはずもない。振り返らずともわかる。店内に入ってきたのはイザベラとその友人の令嬢たちのようだ。偶然彼女たちもこのセレクトショップに足を運んだらしい。
なんてタイミングの悪い。
人気の店だから、彼女が来てもおかしくないけれど、よりにもよって店で鉢合わせるなんて。
いや、向こうはこっちに気づいていないだろう。
気づかれないうちに、退店してしまえば、イザベラに顔を見られずに済む。
アイリスは息を潜め、気配を小さくした。
そんなアイリスから、少し離れた棚に並べられたヘアアクセサリーに、彼女たちは夢中だ。
「イザベラさまが今、つけていらっしゃる髪飾り、エリオットさまからの贈りものなのでしょう?」
「ええ。私につけて欲しいって。贈ってくださったの」
「仲睦まじくってうらやましいですわ」
「愛されていますのね」
商品を見ながら、盛り上がるガールズトーク。エリオットの名前が出てきて、彼の顔を思い浮かべた。自分に笑いかけてくれた顔はもう遠い昔だ。
今瞼を閉じて浮かぶのは、あの別れ話の夜。
イザベラと並んでいる姿が目に浮かぶ。
二人はうまくいっているのね。
どっちにせよ、もうアイリスには関係ないことだ。
二人がどう生きていこうと構わない。
願わくは、これから接触を持たずに生きていけますように。それだけだ。
早く立ち去ってほしいと願もむなしく、彼女たちのおしゃべりはまだまだ続いた。
「仲がよくてうらやましいわ」
「本当。私の婚約者にも見習ってほしいくらい」
「そんな、恥ずかしいわ」
「いつごろご結婚なの? もうそろそろなのでしょう?」
ひとりの質問に、イザベラは言葉に詰まっていた。
「……それは、まだ……もう少し先になるかもしれないの」
「え? どうして?」
嫌でもアイリスの耳にも入ってくる。
二人の結婚話は進んでいないのだろうか。てっきりすぐにでも式を挙げるのかと思っていたのに。親に反対されているとか?
……いや、少なくともエリオットの両親はそんな様子ではなかったが。
理由がわからずにいたアイリスは、続いた言葉に耳を疑った。
「エリオットさまの……以前の婚約者が……許してくださらないの」
思わず「は?」と声を上げてしまうところだった。振り返りそうになるのを必死にこらえる。
密かに心音が大きくなっていくアイリスをよそに、イザベラは続けた。
「いくらうまくいっていなかったとはいえ、私が後から割り込んだようなものでしょう?」
「うまくいっていなかったのなら、二人の仲が壊れたのはイザベラさまのせいではないじゃない」
何……?
何を言っているの?
元々うまくいっていなかった?
わたくしたちの関係は燃えるような恋ではなかったけれど、険悪ではなかった。親の決めた婚約だったけれど、穏やかに会話するくらいの関係ではあったはずだ。
イザベラは何を言っているの? それはエリオットが言っているの?
どういうこと?
「アイリスさまは全然エリオットさまを尊重せず、彼を放ってばかりで。だから私エリオットさまをおひとりにしたくなくて……そのうち私エリオットさまをお慕いしてしまって……私が悪かったの」
「そんな……ふたりが惹かれ合うのは、きっと運命だったのよ」
「そうよ。そのままアイリスさまと結婚してもエリオットさまは幸せになれなかったわ。神様は見ているものよ。本当に結ばれるべきは誰かって」
「アイリスさまもアイリスさまよ。愛もないのに意地を張られて」
令嬢たちの言葉に、イザベラは慌てて否定する。
「アイリスさまは悪くないの。親の決めた婚約者ですもの。興味を持てなくてもしかたないわ。どんなにエリオットさまと心を通わせても、形上略奪したようなもの。それじゃアイリスさまがおもしろくないのは当然なのよ。だから、なかなか許してくださらなくて」
「まあ、ひどいわ」
ひどい?
何の話だ。何がどうなってるの。事実無根だ。
エリオットがアイリスを顧みなくなったのは、イザベラと会うようになってからだ。
今の話とは順番が違う。それに、二人の結婚を反対なんてした覚えもない。
むしろ話し合う間も与えられず婚約破棄を言い渡されたのは、こっちだというのに。
「一度、アイリスさまにちゃんと謝った方がいいのかしら」
「そんな必要ないでしょう。そもそもエリオットさまを大事にしなかったくせに、別れるとなった途端にごねるなんて」
「だって、私たちにあてつけるみたいにモンタギュー侯爵家のスチュアートさまと」
イザベラからスチュアートの名が出てきて、アイリスの耳はざわついた。
それを煽るように、令嬢たちは声を上げる。
「だから、スチュアートさまのエスコートで!?」
「そうなんです。高位貴族のあのかたに泣きついたみたいで」
「なんて浅ましいの」
「スチュアートさまもスチュアートさまよ。そんな女に協力するなんて」
「私聞いたことがあるわ。アイリスさま、今モンタギュー家に押しかけてるって」
「うっそ。それ本当?」
「もしかして、スチュアートさまを味方につけるだけでなく、妻の座につこうなんて企んでるのかしら」
「傲慢ね。そんな女から離れられて、エリオットさまよかったのよ」
彼女たちのおしゃべりは店の中に響いていた。
目の前には様々なデザインのアクセサリーが並べられ、隣のレイチェルが歓喜の感想をあげているけれど、少しも耳に入ってこない。
指先は冷たくじっとり湿っていた。
レイチェルの様子を見れば、彼女たちの会話は耳に入っていないようだ。それでも、スチュアートの名が上がる度、アイリスは心臓が凍り付きそうだった。
ひどい悪評だ。こんな噂になっているなんて。
一度もエリオットたちの婚姻を反対したことなんてないのに。
そのうえ、スチュアートのことも悪し様に言われている。
アイリスは、そこに立っているだけでめまいがしそうだった。
「みなさん、心強いです。ありがとう……」
消え入りそうな声でイザベラは感謝の言葉を口にした。
ハンカチで隠した口元には嘲るような笑みを浮かべて。




