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二人の距離感


スチュアートは帰るなり、そのまま書斎に籠もっているらしい。まだ仕事を抱えているのだろう。集中しているときに入っていけば、邪魔になるのではないか。そう思うと躊躇してしまう。

 

 怖じ気づいたアイリスが回れ右をしようとすると、レイチェルが遠慮なく扉を開けてしまう。

 

「なんだ、レイチェルか。どうした、まだ起きていたのか」

「アイリス先生と一緒にお兄さまに差し入れ持ってきたのよ」

「アイリスも?」

 

 そう呼ばれてしまえば、引き返すわけにはいかない。

 観念したアイリスは、レイチェルの後ろから、そっとついて入った。

 

 書斎に入ると、スチュアートが書類に目を通していている姿が見えた。

 その姿は学生時代を彷彿とさせる。生徒会室で見かけるスチュアートは、いつも山積みの報告書を睨みながらもくもくと業務をこなしていたっけ。

 あのときは近寄りがたいとしか思っていなかったけれど。

 今は、彼がどれほどの仕事量を抱えているのかわかる。だからこそ、真剣な姿に惚れ惚れとした。

 

 ……え?

 惚れ惚れ?

 この方に?

 

 自分で考えていながら、アイリスは戸惑った。

 

 いやだわ、レイチェルさまにあれこれ言われたから、妙な影響受けちゃったのかしら。

 

 そんな感情抱いたりしていないのに。

 熱い紅茶の乗ったトレイを置くと、レイチェルは眠くなったと言い出した。

 

「いやだ、もうこんな時間。私そろそろ休むわ。お兄さまもほどほどにね」

「えっ」

 

 ぎょっとしたのはアイリスだ。

 なお、アイリスはポットから紅茶を注いでいる真っ最中。途中でやめるわけにはいかない。

 

「それでは、お休みなさい」

「ん。おやすみ」

 

 アイリスがおろおろしている間にレイチェルはさっさと書斎を後にした。

 扉を閉める直前に、兄のスチュアートに向けてレイチェルが親指を上げて見せたのは、アイリスは気づかなかった。

 その姿にスチュアートはこっそり苦笑する。

 

「……ったく、子どものくせに妙な気をまわして」

 

 深夜の書斎に二人きりにされ、アイリスの心臓は落ち着かない。

 とっくに注ぎ終わったカップからは湯気が立ち上っている。それは二人の間の空気を微かに揺らした。

 

 どうしよう。このままここにいるわけにもいかないわよね。

 

 わたくしも失礼します、と言いかけたところでスチュアートが口を開いた。

 

「アイリス、キミも飲んだら? カップもうひとつあるだろう?」

 

 そう勧められては、断りづらい。彼はそもそも今のアイリスの雇い主だ。

 一杯だけ飲んだら、お暇しよう。

 そう決めて、アイリスはカップに紅茶を注ぐ。ポットを持つ手が震えそうになるのを、こっそり堪えた。

 

 互いに黙って紅茶を飲む時間は、しんと静まり返っている。沈黙にゆっくりとのしかかられ、アイリスはほんの少し息苦しさを感じた。

 

 やはり、気軽に会話できるほど彼には慣れていないわ。

 

 手持ち無沙汰なまま、なんとなくカップで手を暖めていると、スチュアートはそっとカップを置いた。

 

「レイチェルに振り回されていないか?」

「え? そ、そんなことは」

「キミはこんな夜更けに男の部屋に来ないだろうからね。きっとレイチェルが無理に誘ったんだろう?」

「そんなこと」

「あの子は、思ったより我が強いだろう?」

「あは……」

 

 それに関しては否定はできない。アイリスは苦笑いをするしかない。

 

「あの子は今でこそ元気だが、幼い頃は病弱でね。誕生日が看病で終わることも珍しくなかった」

「まあ……」

「それでまあ、元気であればいい、と甘やかした結果がこれなんだが……」

 

 スチュアートは自身の鼻を搔いている。

 

 なるほど、末っ子だから甘くなったというだけではなかったのか。それもひとえに家族の愛情だろう。モンタギュー家の温かさは、皆が集まったときの空気で十分すぎるほど伝わっている。

 

 特にスチュアートは、口調は厳しいときはあれど、彼女の頭を撫でる仕草が優しいのを、アイリスは知っていた。

 

「レイチェルさまは接しやすく素直なかたです。スチュアートさまに少しでもお休みいただきたいのは、わたくしも同じです」

「そう言ってもらえると、ありがたいが」

 

 スチュアートは静かに肩をすくめた。ふと、皿に並べられた焼き菓子に気づく。

 

「それ、もしかしてファントム・アンドメゾンのものか?」

「はい、先日限定品が発売されておりましたので」

「限定品か……。来月も作ってくれと言ったらできるだろうか」

「どうでしょう。お店のかたに問い合わせてみませんと」

「実は来月隣国の第三王子が外遊に来ることが決まっていてね。甘いものがお好きな方だから、そのときにお出しするデザートや菓子を探しているのだが」

「これは我が国で人気ですから、いいかもしれませんね」

「味はどうだ?」

「こちらはほんのりアプリコットジャムが含まれて……。もしよろしければ、試食されてみます?」

 

 口で説明するより、実食する方がいいだろう。

 そう思い、アイリスは焼き菓子の乗った皿をスチュアートの前にそっと寄せた。

 しかし、彼は手に取らない。口を開けて催促するのだ。

 つまり、手ずから食べさせろ、ということらしい。

 

「え!? あ、あの……!?」

 

 戸惑っているアイリスに、なおもスチュアートは急かしてくる。

 どうやら彼に食べさせないと終わらないらしい。

 とはいえ、男性にそんなことをしたことがない。

 婚約者だったエリオットにすら、したことがなかった。

 

 迷った末にアイリスは焼き菓子をつまみ、食べやすい大きさにするべく半分に割る。アプリコットの甘い香りがするが、アイリスにとってそれどころではない。

 恥ずかしいのを堪え、そっと指先をスチュアートに伸ばそうとしとところ、世界が回転した。

 

「え……!?」

 

 何かに座らされたようだが、椅子とは感触が違う。

 その瞬間、腰にスチュアートの手が回されていることに気づいた。背の高いスチュアートの顔がやたらと近い。

 

 う、嘘……。これって。

 

 彼の膝に座らされている。

 さすがに抗議の声をあげた。

 

「ス、スチュアートさま!」

「ん? この方が食べさせやすいだろう?」

 

 悪びれない顔。

 だんだんわかってきた。この方は存外意地悪だ。

 

「戯れが過ぎます! お、おろしてくださいませ!」

 

 膝から降りようと試みるが、がっしりと腰を抱えられて、身動きが取れない。

 暴れるほど抱きかかえられてしまう。

 

「動くと落ちるぞ?」

「だ、誰のせいだと……」

「レイチェルは昔、こうしてやると喜んだものだがな」

「私は幼子ではありません!」

 

 恥ずかしさで顔を真っ赤にしたまま、つい反論をした。このひとにとって年下の女は皆妹扱いなのだろうか。

 いや、絶対わかっていて揶揄っている。

 

 それにしても、男性に免疫のないアイリスには、刺激が強すぎる。

 エリオットとだって、ここまで接近したことはなかったのに。

 肩に触れるスチュアートの胸板、座らされた膝の硬い感触。

 それら全てが、女性とはまるで違う。

 彼は男性なのだと、意識させられてしまう。

 

「揶揄うのはよしてください。わ、わたくしは幼くありません」

 

 声音に非難を含め、もう一度そう告げた。免疫のない女を揶揄うのも大概にしてほしい。

 

 なのに。

 自分を見下ろす琥珀色の瞳は、真剣だった。

 どこか熱を帯びた双眸がアイリスを射抜く。その瞳に囚われて、アイリスは息ができない。

 

「そうだな。立派な大人の女性だ。……私も大人の男だがね」

 

 そう囁くスチュアートの顔が近づいた気がした。

 

 角度をつけて距離が縮まる。息がかかりそうなほど。

 

 唇が……近い。

 嘘、まさか。

 

「こ、こちらをお召し上がりくださいませ!」

「……っぐ」

 

 口に焼き菓子を押しこまれ、スチュアートは呼吸を乱している。

 

 その隙にアイリスはスチュアートの膝から逃げ出した。そのまま振り返ることなく廊下へ避難する。

 

 扉を閉めた途端、膝から力が抜け落ち、そのまま床にへたりこんでしまう。

 触れなくてもわかる。頬が茹で上がったように熱い。

 きっと、みっともないくらい顔が赤らんでいるに違いない。

 心臓も大騒ぎをしていて、アイリスは大混乱していた。

 

 今のは何? 彼は何をしようとしていたの?

 

 一瞬、キスされるのかと期待してしまった。

 

「いやだ……わたくしったら何を考えてるの」

 

 自分の浅ましさに、アイリスは身悶えした。

 そうだ。

 期待だ。

 

 わたくしはあのひとに触れられたいと思ってしまった。

 

 スチュアートにとって、アイリスは妹の家庭教師であり、婚約破棄された気の毒な後輩でしかないというのに。

 それなのに、こんな気持ちを抱くなんて。

 

 その夜、アイリスはなかなか眠りにつくことができなかった

ようやく二人の関係が動き始めました!

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