とんだ誤解
「せーんせ! ちょっとお時間いかがかしら?」
ノックのあと顔を出したのは、レイチェルだ。夕食も湯あみも終わり、読書でもして過ごそうかと思っていたところだった。アイリスは快く彼女を受け入れる。
モンタギュー家に滞在するようになって数日。夜になるとこうしてときおりレイチェルがアイリスの部屋を訪ねてくるようになった。
住み込みだなんて、一体どうなるのかと思ったが、モンタギュー家の人々は温かくアイリスを迎え入れてくれた。それは侯爵夫妻だけでなく使用人たちもだ。
誰もがアイリスがここに滞在するのを、穏やかに受け入れてくれている。おかげで初めは恐縮していたアイリスも穏やかに毎日を過ごすことができている。
モンタギュー家はみな仲がいい。仲睦まじい侯爵夫妻と、無邪気なレイチェル。そして想像以上に妹想いなスチュアート。兄妹のざっくばらんな会話は、はたから見ているアイリスを慰めた。
そして夜にこっそりレイチェルと楽しむガールズトーク。
オシャレや観劇、話題の恋愛小説。女二人の話題はつきない。話題を次々変えて展開する夜長のおしゃべりは、女にとってビタミン剤だ。
こっそりレイチェルが持ち寄るお菓子とミルクティ。それさえあればいくらでも話ができた。
自宅で引き籠りため息ばかりついていたことを考えると、今が嘘のようだった。
スチュアートの提案はいつも突然で強引に思えたが、その結果アイリスの心が救われているのも事実だった。
「お兄様は私に淑女らしくっていうけれど、自分だって子どもの頃はよく叱られていたのよ?」
「え? スチュアートさまが?」
今の真面目冷徹な様子からは想像できない。子どもの頃からそつなく課題をこなし、真面目一辺倒なイメージしか持てなかった。
しかしレイチェルが言うには、彼は幼少期に悪戯をよくしては怒られていたらしい。
「ほら、うちのお兄さま、王太子殿下とミハイルさまと仲がいいじゃない? 三人で王宮の庭に穴を掘って大臣が何人落ちるか賭けたり、家庭教師にわざと外国語オンリーで話しかけてどう反応するか三人で楽しんでいたみたい」
「……わ、……」
悪ガキ、と言いそうになり、アイリスは無理やり呑み込んだ。
意外だ。あんな真面目な学生だったのに。幼少期はそんな、問題児だったのか。
三人集まると文殊の知恵というが、三人集まると悪知恵働くというのか。
「そうやってしょっちゅう国王陛下やお父様に三人まとめて叱られていたんですって。それなのに私にはちゃんとしなさいっておかしくない?」
「ふふ、そうね」
確かに過去の行いを聞くと、言えた義理ではない、というレイチェルの言い分はわかる。バツが悪そうに「それとこれとは別問題だ」と仏頂面になっているスチュアートを想像して、アイリスは思わず吹き出した。「レイチェルを淑女らしくしてくれ。私の言うことは聞かないから」というスチュアートの言葉は、過去の自分の行いが原因だったようだ。
「だからね、将来お兄さまの子どもには、過去のお兄様の悪行を話してやるつもりよ」
スチュアートの子ども。
その言葉に胸の奥がすっと冷える気がした。
いつか誰かを妻に迎え、家庭を持つ。それは当たり前のことだというのに。こうして改めて聞くとモヤモヤするのはどうしてだろう。
黙りこんだアイリスを眺めながら、レイチェルは切り出した。
「……ねえ、アイリス先生は本当にお兄さまの恋人ではないの?」
「まさか!」
「だって、二人お似合いだって思うのよ」
「それはないわ。次期宰相とも言われてるスチュアートさまとは、釣りあいが取れないわよ」
「そうかしら。アイリス先生って伯爵家でしょ? 問題ないんじゃないかしら」
問題大ありだ。
レイチェルは知らないのだ。アイリスがこうして家庭教師になった経緯を。
結婚直前に婚約破棄された女だ。
それにそもそもスチュアートのような優秀な男性のお眼鏡にかなうとは思えない。
彼が思っていたよりも優しいということは、もうわかっている。
ここに呼び寄せたのは、捨てられて引き籠ろうとしていたアイリスへの配慮。
レイチェルとうまくやれそうだという点もあったろう。
だが、それだけだ。そこに異性の特別な感情などありはしない。
「たまたま……声をかけてくださっただけよ」
そう、たまたま。あの夜に婚約破棄の現場に立ち会ってしまっただけだ。
それだけの……縁。
「お兄さま、そんなお人好しじゃないと思うけど。アイリス先生って、お兄さまの好みだと思うのよね」
「え?」
思わず顔をあげてしまった。その瞬間ニヤニヤと口角を上げているレイチェルと視線が合う。
しまった。
反応を試されたのだ。
「よかった。アイリス先生もまんざらじゃないんだ」
「ち、違います!」
「え~? そういう顔してたもん」
「してません!」
「私としてはアイリス先生がお兄さまと結婚して、お姉さまになってくれたら嬉しいのにな」
それだけはありえませんから。
勘違いをしたまま、ニヤニヤとしているレイチェルに、きっぱりと告げるが彼女の耳には入らないようだ。
私に懐いてくれてるのは嬉しいけれど、それだけはないのよ。
「そういえば、そのお兄さまだけど。ついさっき、やっと帰ってきたのよ」
レイチェルの言葉に、アイリスは時計に目をやった。もうすぐ日付が変わる頃だ。こんな時間になるまで帰れなかったのか。
スチュアートは夜遅くまで父であるモンタギュー侯爵の仕事のサポートや、王太子レオポルドの公務のサポートをしているのだという。王宮と自宅の屋敷を行ったり来たりする毎日は、文字通り多忙だ。
夕食を一緒にできる日もあるが、朝から寝るまで彼の姿を見ない日も珍しくない。
寝食を削っているのではないか、と心配になる。いくら若くて体力があるとはいえ、無尽蔵ではない。ちゃんと食事は取れているのか、休息は取れているのか。
弱音を吐く方ではないから、無理されているのではないだろうか。
アイリスは真剣なスチュアートの顔を思い浮かべた。
ふと顔を上げると、目の前のレイチェルはにんまりと口元に弧を描いている。
「せっかくだから、差し入れ持って行きましょうよ。お兄さま、まだ起きてると思うの」
「わ、私が持っていくより、レイチェルさまの方が!」
「うんうん、私も一緒に行くから~。お兄さま、きっと喜ぶわぁ」
ああ、やはり誤解されている!
慌ててアイリスが取り繕うが、レイチェルは聞く耳を持たない。
かくして、アイリスは夜半遅く、スチュアートに軽食と紅茶の差し入れを持ち込むことにした。




