今日からひとつ屋根の下
「え? 住み込み?」
アイリスは思わず聞き返した。
目の前に座るスチュアートとレイチェルはにこやかに頷いている。レイチェルにいたっては全身から喜びがだだ漏れだ。
アイリスだけが、状況を把握できずに目を丸くしている。
家庭教師として再びモンタギュー家を訪れた際、スチュアートから提案されたのは、モンタギュー家に住みこみで家庭教師をすることだった。
「で、ですが」
「うちには部屋もあるし、その方が食事のマナーなども妹に教えてもらえるのではないかと思ってね」
「アイリス先生が一緒に住むなんてワクワクするわ!」
毎日がお泊り会みたい、とレイチェルははしゃいでいる。
スチュアートが言うには、ほぼ毎日のように往復するのは、手間だろうというのだ。住みこんでしまえば、移動時間を有意義に使えると。
コスパ重視のスチュアートらしい考えだが、アイリスは正直困惑していた。
確かにモンタギュー家に住みこめば、朝も今よりはゆっくり過ごせるだろう。路が混雑して帰りが遅くなることもない。スチュアートの言う通り、時間の有効活用という点では、これ以上ない方法だ。何より御者や馬の負担がなくなる。
ありがたい申し出ではあるが、そんなこと考えたこともなかった。
通常住み込みは、未亡人か行き遅れた年齢の女性が住む場所の確保も兼ねてするものだからだ。
アイリスは自身も王都に住まいがあり、通いでしか考えていなかった。
答えあぐねて黙っていると、焦れたようにレイチェルが急かす。
「ねえ、先生いいでしょう? 先生のお部屋、もう用意しているの」
「この通り立ち居振る舞いも淑女にはほど遠くてね。日常的なところも見てやってくれると、こちらとしては助かる」
「お兄さまったら!」
呆れたように肩をすくめるスチュアート。その横でレイチェルは口を尖らせた。
兄妹のやり取りを見ながら、アイリスはいまだ迷っていた。
レイチェルとは気も合うし、彼女と接する時間が増えるのは歓迎だ。
しかし、ここに住むということは、スチュアートと一つ屋根の下で暮らすということだ。
ようやく挨拶程度の言葉を交わすことに慣れてきたところなのに、落ち着かない。彼への苦手意識が完全に払拭されたわけではないからだ。
スチュアートは忙しい身の上だから、四六時中顔を合わせるわけではないだろうが、それでも今よりは顔を合わせることが増えるのは間違いない。
それに歳の若い男性の住む屋敷に年若い女だなんて、世間からの目も気になる。
住み込みの若い家庭教師がほとんどいないのは、そこが大きい。男と女がひとつ屋根の下で過ごせば、男女の仲ではないかと勘ぐられるのだ。若い男性でなくても、女が若ければ愛人だと噂されることも多いくらいだ。未婚の若い男女、となればすぐに噂が立つだろう。
それはモンタギュー侯爵夫妻も承諾しないのではないか?
スチュアートには婚約者はいないが、きっとこれから縁談があるだろう。その前に余計な女と噂になるのは避けたいはず。
そう思って確認したが、これまた想定外の言葉が返ってきた。
「両親も妹を甘やかした自覚はあってね。レイチェルが懐いている先生なら、と歓迎していたよ」
嘘でしょう? 誰も反対してないってこと?
モンタギュー家のような有力高位貴族なら、そんなもの障壁ならないとでも言うのかしら。
目の前には強く勧めてくるスチュアートと、もう決まりだと満面の笑みで抱きついてくるレイチェル。
もうアイリスには反対意見のカードは残っていない。
兄妹の圧に負け、アイリスはとうとう頷いた。
♢♢♢♢♢♢♢
アイリスに用意されたのは、ゲストルームだ。
こじんまりとしているが、なんて紹介されたが、正直自宅でアイリスが自室にしている部屋の面積と変わらない。
白を基調にした清潔感溢れる部屋。一か所葵小花柄の壁紙になのがワンポイントになっており、アイリスの好みだった。日当たりもよくバルコニーからはモンタギュー家の中庭が望む。コンソールに飾られた花の香りがアイリスを歓迎してくれた。
こんなゲストルームがいくつもあるなんて、やはり侯爵家は別格なのね。
モンタギュー家は代々王家に仕えている名家。筆頭侯爵としての家格を感じさせる。
アイリスは感嘆しつつ、案内されるままに部屋の中に足を踏み入れた。
今日からここで暮らすのね。あの夜会で声をかけられたときは、こんなことになるなんて想像もつかなかったわ。
豪奢なクレマチス柄の絨毯の上に、鞄を置き一息つく。
いつの間に近くにいたのか、不意にスチュアートが身をかがめて覗きこんだ。
「アイリス」
「……っ!」
その瞬間、彼の顔が至近距離に映り、アイリスは声をあげそうになった。寸でで堪えるも、心臓は大きく跳ねあがっている。
彼は不意にこういうふうに距離を縮めてくるから、どぎまぎしてしまう。
しかもいつの間にか名前を呼ばれるようになっていて、その度に耳が落ち着かない。
そんなアイリスに構うことなく、スチュアートはいつも通り涼しい顔だ。
「わたしの部屋は、階段を上がったすぐ上にある。困ったら、おいで」
そう、低い声がアイリスの耳朶を震わせた。
おいでって、この方の私室に?
そんなの、行けるはずがない!
そんなアイリスを気にも留めず、スチュアートはしれっと続ける。
「眠れないとき、妹はよく部屋に来ていたものだよ」
「わ、わたくしは幼子ではありません!」
つい声をあげると、スチュアートは声をあげて笑った。侯爵令息らしからぬ、豪快な笑い声だ。
そこで、揶揄われたのだとようやく理解した。羞恥で顔から火が出そうだ。
スチュアートはまだ肩を震わせたまま、眦を拭っている。まだ可笑しいといった様子で「とりあえず部屋で休んでくれ」ととぎれとぎれに笑いながら、部屋を後にした。
部屋にひとり残されたアイリスは、自身の頬がすっかり熱くなっていることに気づき、手で仰いだ。
揶揄われて、ひとり勝手に動揺して顔を赤くしているなんて。
恥ずかしいったらないわ。
自身を落ち着かせようと、アイリスはソファになだれ込む。
思い浮かぶのは、スチュアートの豪快な笑顔とあの低い声。
あの声を聞くたび、背筋が伸びて震え上がっていたのに。気づけばあの声に翻弄されている。
部屋においで、なんて。タチの悪い冗談だわ。
冷淡で女性に興味のないひとかと思っていたのに、あんな冗談言うこともあるのね。
……あんな顔して笑うんだわ。
また、スチュアートの知らない顔を見た。
アイリスは未だ熱を持つ頬を、自身の掌で包んだ。
スチュアートは後ろ手にゲストルームの扉を閉めた。
レイチェルを追い払い、廊下に一人になっても、未だ笑いが治まらず、肩が震える。
ちょっとした揶揄いのつもりだったが、あんなに動揺して顔を真っ赤にするとは。
少しは、わたしのことを男として意識してくれている、ということか。
それに揶揄われたことがわかったときの、アイリスの顔。
陶器の人形のような顔が崩れて、感情がむき出しになった。
彼女はあんな表情も見せるのか。
取り澄ました顔も美しいが、思い切りむくれた顔も可愛い。
「……たまらないな」
スチュアートは口元が歪むのを抑えきれず、手で覆い隠した。
柄にもなく浮かれている自身に苦笑しながら。




