裏と表
案内された部屋は簡素だった。
寝台と机、それだけ。
「ここを使って」
ルーファスが短く言う。
「トイレに行く以外は勝手に出ないで。観察対象だから」
当然のことのように告げられ、アイリスは小さく頷いた。
「……はい」
扉が閉まる。
静まり返った室内に、わずかに薬品の匂いが残っていた。
寝台に荷物を置き、息をついたその瞬間——
「座って」
間を置かず声が飛ぶ。
顔を上げると、ルーファスはすでに器具を並べ終えていた。
こちらの都合など、最初から考えていないようだった。
研究はすぐに始まった。
「腕を出して」
器具を並べながら言うが、視線すら寄越さない。
言われるまま袖をまくると、見慣れない細い器具が目に入る。
次の瞬間——
「動かないで」
針が刺さり、わずかな痛みに息が詰まった。
「……それくらいで顔に出さないで」
淡々とした声。
「もっとひどい状態の人、見てきてるでしょ」
その言葉が、胸に静かに刺さる。
針が抜かれると、間を置かずガラス管が当てられる。
細い管の中へ、血が静かに吸い上げられていく。
やがて布が当てられ、軽く押さえられたあと、手早く巻かれた。
「次」
体温、脈、呼吸——次々に測定が進む。
「質問するから、答えて」
ルーファスは紙に目を落としたまま続けた。
発症から回復までの日数。食事内容。家族構成。過去の病歴。
矢継ぎ早の問いに、ただ答えていく。
数時間後、ようやくすべてが終わった。
「……今日はここまで」
そう言うと、手元の紙に素早く書き込んでいく。
聞き取りの内容を、わずかな違和感も逃さないように記録していた。
「それ、全部レオンさんに報告するの?」
アイリスが小さく尋ねる。
「当然でしょ」
顔も上げずに答えた。
「ここで取ったデータは全部あの人が見る。それで方針が決まる」
ペンの音だけが部屋に響く。
「……じゃあ、レオンさんは」
少し迷ってから続ける。
「ここには、あんまり来ないの?」
ルーファスの手が、ほんの一瞬だけ止まった。
「忙しいから」
短く言う。
「王都全体の症例を見てる。ここのだけじゃない」
わずかな間。
「……あの人は」
ぽつりと続ける。
「一度見たら、全部覚えるから」
「……え?」
思わず声が漏れる。
「全部って……一回見ただけで?」
「そう。記録も、症状も、数値も全部」
アイリスは言葉を失った。
そんなことが本当にできるのか、想像もつかない。
「……すごいね」
ようやくそれだけ言う。
ルーファスの手が、わずかに止まる。
「……そうだね」
短い返事。
「だから、こっちは——」
言葉を切り、再びペンを走らせる。
「……正確に記録するしかない」
それ以上は何も言わなかった。
その夜、アイリスは眠れなかった。
目を閉じても、昼間の光景が浮かんでは消える。
苦しそうな顔。冷たい声。淡々と並ぶ数値。
静かに起き上がり、足音を忍ばせて廊下へ出た。
用を済ませて戻る途中、ふと足が止まる。
研究室の扉の隙間から、光が漏れていた。
こんな時間に、誰かいる。
そっと近づき、音を立てないように中を覗く。
——ルーファスだった。
机の上には紙がいくつも広がり、書き込みで埋め尽くされている。
同じ箇所に何度も線が引かれ、数字の横には小さな注釈。
書き直した跡も残っていた。
ページをめくり、戻り、まためくる。
何度も確かめるように。
昼間とは違い、その手つきには迷いがあった。
書いて、止まり、消して、また書く。
静かな部屋に、紙を擦る音だけが響く。
やがて手が止まり、顔を覆うようにして深く息を吐いた。
一瞬だけ、年相応の表情がのぞく。
だがすぐに顔を上げ、何もなかったかのように書き始める。
その横顔を見ながら、アイリスは思う。
——あの人は、一度で覚える。
さっき聞いた言葉がよみがえる。
だから彼は、何度も繰り返す。何度も確かめる。
胸の奥が、わずかにざわついた。
昼間の冷たい言葉が浮かぶ。
けれど今、目の前にいる姿はそれとは少し違う。
何度も書き直された跡。
迷いながらも止まらない指先。
——あの人も、必死なんだ。
そう思った瞬間、胸のざわめきが少しだけ形を変えた。
アイリスは静かに扉から離れ、気づかれないよう部屋へ戻った。




