仮説
翌朝。
研究室に入ると、すでにルーファスはいた。
机の上は整えられ、紙も器具も昨日と同じ配置で並んでいる。
「遅い」
短くそれだけを言う。
昨日の夜のことなど、欠片も感じさせない。
やがて扉が開いた。
入ってきたのはレオンだった。
空気がわずかに張り詰める。
「報告を」
簡潔な一言に、ルーファスがすぐ書類を差し出す。
レオンはそれに目を落とし、ページをめくる。
一度止まり、まためくる。
その時間は短かい。
だが——すべてを見ているようだった。
「……悪くない」
それだけを告げる。
「ルーファス。原因の特定を」
「私は、回復薬を開発する」
短い指示に、ルーファスの背筋がわずかに伸びる。
レオンは顔を上げ、今度はアイリスに視線を向けた。
「体調はどうですか」
声音は穏やかだった。
「……問題、ないです」
「それは良かった」
わずかに微笑む。
次の瞬間、レオンの手が伸びた。
アイリスの髪に触れる。
黒い髪を、指先で軽くすくう。
触れられた瞬間、肩がわずかに強張る。
冷たい指先が、確かめるように動いた。
「少し、貰っても?」
返事を待たずに、レオンは髪を一房手に取る。
懐から取り出した小さな鋏が、かすかに光った。
ためらいなく刃を当て、静かに切る。
わずかな音とともに、髪が切り分けられた。
レオンはそれを整え、そのまま手の中に収める。
「……引き続き、観察を」
それだけ言い残し、部屋を出ていった。
静けさが戻る。
ルーファスは、しばらく動かなかった。
やがて、ゆっくりと視線を上げる。
まっすぐに、アイリスを見る。
「……髪」
ぽつりと、言う。
「その色。この国じゃ、ほとんど見ない」
アイリスは何も言えなかった。
「昨日、家族構成聞いたよね」
淡々と続ける。だが、その声にはわずかな圧があった。
「父親と二人暮らしで、母親は幼少時に死亡」
一度、言葉を区切る。
「どこの人?」
その問いに、息が詰まる。
逃げ場はない。視線も逸らせなかった。
「父はこの国の人。母は……東の方の人」
ルーファスの目が、わずかに揺れる。
「……やっぱり」
小さく、呟く。
それは納得であり、同時に——何かが繋がった音でもあった。
「……だからか」
その言葉の意味を、アイリスはすぐには理解できなかった。
ただ、その視線が昨日とは違うことだけははっきり分かる。
測るようで、探るようで、さらに奥を覗き込もうとする目。
「……東の方、ね」
ぽつりと呟き、ゆっくり息を吐いく。
「この病気は、王都でも、村でも例外なく広がってる」
机の紙に視線を落としたまま続ける。
「年齢も体格も生活も関係ない。共通してるのは——“女性”ってことだけ」
指先で紙を軽く叩く。
「でも、あんたは生き残った」
一度、視線を落とす。
紙の端をなぞるよう、押さえながら言う。
「外から来た血」
その言葉は静かだった。
「この国は、ほとんど同じ系統の人間しかいない」
「違う系統の血を持ってるあんたは——」
一度、言葉を切る。
「影響を受けにくい可能性がある」
少し間を置き、続ける。
「あるいは、乗り越えられる条件を持ってるかもしれない」
静けさが落ちる。
「……それって」
アイリスがかすかに声を出す。
「私が生き残ったのは、母さんの血のおかげってこと?」
ルーファスは眉をわずかに寄せた。
「それだけじゃない」
すぐに否定する。
「血が混ざってる人間は少ないけど、ゼロではない」
机の上の紙をめくり、別の記録に目を走らせる。
「発症してる。でも、全滅してる」
小さく舌打ちをした。
「……足りない」
「何かが、もうひとつ」
その声には、わずかな苛立ちが滲んでいた。
アイリスに視線を向ける。
「……少なくとも。無関係じゃない」
しばらくの沈黙。
そして、ほんの一瞬。
ルーファスの目が変わった。
“対象”ではなく、“意味を持つ存在”を見る目へ。
視線はアイリスに向けられたまま、何かを計算するように細められている。
やがて、小さく息を吐いた。
「まだただの憶測だから、いくつか、追加で調べる必要がある」
視線はそのまま。低く言う。
「……協力してもらうよ」
ルーファスは机の上の紙を引き寄せ、新しい頁を開くと、迷いなく書き始めた。
発症時の詳細な経過。回復直前の状態。発疹の変化や色、範囲。
「それと——」
一瞬、手が止まる。
「……血液」
机の脇には、ルーファスが追加で持ち込んだ筒状の容器がいくつも並べられていた。
それを見て、アイリスは思わず息を呑む。
「……こんなに?」
「一度に少量しか取れないから、その分刺す回数は多くなる」
淡々とした答える。
「……あの」
アイリスが、少しためらいながら言う。
「私、本当に……役に立つの?」
ルーファスの手が止まる。
ゆっくりと顔を上げた。
「さっきも言ったでしょ。無関係じゃない」
まっすぐな目だった。
「理由がある。それが分かれば——他の人も助かるかもしれない」
一瞬だけ視線が逸れる。
「だから、調べる」
命令ではない、ただの事実のような言い方だった。
アイリスは小さく頷く。
「……わかった」
血を抜かれ、測られ、問われる。
アイリスは何も言わず、ただ応じた。
痛みも、顔に出さない。
ルーファスはそれを横目で見ていた。
文句も言わない。拒まない。
ただ、受け入れるだけだ。
——よく耐えている。
そう思いながらも、手は止めない。
記録を取り、器具を動かし、次の手順へ進む。
やがて一通り終わり、ルーファスは机に向かった。
紙に視線を落とし、ペンを走らせる。
ふと手が止まり、眉間を指で押さえる。
短く息を吐き、すぐに書き始める。
思考を逃さないように、ひたすら書き続ける。
「……あの」
不意に、声がした。
顔を上げると、アイリスがこちらを見ている。
「目、疲れてない?」
あまりにも自然な調子だった。
ルーファスは一瞬だけ言葉に詰まる。
「……別に」
短く返す。
「そう」
アイリスはそれ以上は何も言わない。
再び、記録に戻る。
——人よりも、自分の心配をした方がいいだろう。
とんだお人よしだ。
そう思う。
しかし、その言葉はなぜか頭に残った。




