切り取られた真実
※本話には、痛みを伴う描写が含まれます。苦手な方はご注意ください。
翌日。
部屋の扉が、静かに叩かれた。
「腕、出して」
ルーファスの指示に従い、アイリスはゆっくりと袖をまくる。
針が刺され、すぐに細いガラス管が当てられた。
赤が、静かに管の中へ満ちていく。
ルーファスはその流れを、じっと見つめていた。
まるで、そこに何かを探しているように。
ほんの一瞬だけ、手が止まる。
「……痛い?」
ぽつりと落ちた言葉に、アイリスは一瞬だけ驚いた。
「……大丈夫」
ルーファスは何も言わない。
すぐに視線を逸らし、記録へと戻る。
けれど——
その一言は、昨日までにはなかったものだった。
その日の夕方。
ルーファスはまとめた記録を抱え、部屋を出ていった。
戻ってきたのは、そう時間を置かずだったが——空気が違う。
「……レオンさんが来る」
やがて扉が開き、レオンが入ってきた。
足音は静かだったが、その場の空気が一瞬で張り詰める。
「報告を」
ルーファスが書類を差し出し、レオンはそれを受け取る。
視線を落とし、ページをめくる。
止まり、戻り、まためくる。
迷いのない手つきで、必要な箇所だけを正確に拾い上げていく。
やがて、手が止まった。
「……興味深い」
小さな呟き。
その一言で、ルーファスの背筋がわずかに強張る。
ゆっくりと顔が上がる。
その視線が、アイリスを捉えた。
値踏みするような目だった。
「仮説は?」
問われたのは、ルーファスだった。
「……外来の血統による耐性の可能性」
間を置かず答える。
「ただし、それ単体では説明が不十分です」
「そうでしょうね」
あっさりと返される。否定ではない。
「ならば次だ」
静かに言う。
「発疹が出ていた箇所を、直接調べましょう」
空気が、わずかに重くなる。
ルーファスの指先が、止まった。
「……皮膚を、切り取るんですか」
それでも問い返す。
レオンは視線を外さないまま答えた。
「ええ。血液だけでは足りない。皮膚組織を調べます」
静かな声だったが、その意味は明確だった。
アイリスの呼吸が、わずかに浅くなる。
「……それは」
ルーファスが口を開く。
「侵襲が大きすぎます」
一歩、踏み出していた。
「被験体の負担も——」
「他に方法は?」
静かに遮られる。
声は変わらない。
だが、それで会話は終わっていた。
ルーファスは言葉を失う。
分かっている。どちらが正しいのか。
救える可能性があるのなら。
ひとりの負担で、多くが助かるのなら。
答えは、決まっている。
「……局所であれば」
絞り出すように言う。
「範囲を限定すれば、負担は抑えられます」
それが、妥協だった。
レオンはわずかに頷く。
「任せる」
それだけで、決定だった。
再び視線がアイリスへ向く。
「痛みは伴いますが、協力してもらえますね」
穏やかな口調。
だが、拒否という選択肢はそこにはない。
アイリスは喉の奥で息を飲み込む。
怖い。
けれど——
あの光景が浮かぶ。
王都で見た、手を伸ばしていた女性。
何も掴めないまま、崩れ落ちた姿。
逃げたくなる。
それでも——
「やります」
小さな声。
それでも、はっきりと。
レオンはそれを聞くと、わずかに微笑んだ。
「協力、ありがとうございます」
続けてルーファスへ視線を向ける。
「準備が整い次第、開始を」
それだけ言い残し、部屋を出ていった。
机の上に、器具が並べられていく。
小さな刃。布。透明な容器。
金属が触れ合う音が、やけに大きく響いた。
準備を終え、ルーファスは手を止める。
「……発疹が出ていたのは、どこ?」
視線は手元のまま。
淡々とした声だった。
アイリスは記憶を辿る。
「……体、全部に」
ゆっくりと言う。
「腕も、背中も……顔にも」
言葉にするたび、あの感覚が蘇る。
「でも——」
一度、言葉を切る。
自分の手を見る。
「手が、一番多かったと思う」
指先から手首の少し上までを、反対の手でなぞる。
そこには、もう何も残っていない。
ルーファスは小さく頷く。
視線が、その位置に落ちる。
「……ここにしよう」
静かに言う。
「ここを、少しだけ切る」
言葉を続ける。
「浅く取るだけだ。大きな血管は避ける」
簡潔な説明だった。
それ以上は、何も言わない。
アイリスは頷く。
逃げないと、決めている。
それでも、指先にわずかに力が入った。
「動かないで」
低い声。
手が軽く添えられる。
その温もりは、思っていたよりもやわらかかった。
布で拭われる。ひやりとした感触。
次の瞬間——
痛みが走る。
思わず息が詰まる。
声は出さない。
唇を噛みしめる。
短いはずの時間が、長く感じられた。
「……終わり」
ルーファスが低く告げる。
すぐに布が押し当てられる。
じわりと熱が広がり、血の匂いがわずかに混ざる。
「……大丈夫?」
小さな声だった。
昨日とは違う、わずかにやわらいだ声音。
「……うん」
少し遅れて答える。
呼吸を整えるように。




