帰る約束
出発前夜。
夜は、ひどく静かだった。
村のあちこちで灯りは消え、人の気配もまばらになっている。病を恐れて、誰もが早く戸を閉ざすようになっていた。
アイリスは家の裏手に立ち、空を見上げる。
あの夜と同じように星が瞬いているが、もうあの頃には戻れない。
「……ここにいたんだね」
やわらかな声に振り返ると、サイラスが立っていた。
少し息を切らしている。仕事の合間に抜けてきたのだろう。
「……うん」
アイリスは小さく笑う。
「来てくれると思ってた」
サイラスは少し照れたように視線を逸らした。
「……行く前に、顔を見ておきたくて」
その言葉に、胸がきゅっと締めつけられる。
「明日、なんだね」
「うん」
短い返事だったが、それだけで十分だった。
しばらく沈黙が続き、風が草を揺らす。
やがてサイラスはゆっくりと近づいた。
「……怖い?」
静かな問いに、アイリスは少し考えてから頷く。
「うん。知らない場所だし、ひとりだし……それに」
言葉が少し詰まる。
「戻ってこれるか、わからないし」
サイラスはすぐには答えず、そっと手を取った。
あの日と同じ、大きくてやさしい手。
「……帰ってきてほしい」
ぽつりと告げる。
「待ってるから」
それは約束のようで、祈りのようでもあった。
アイリスはその手を握り返す。
「……うん。帰ってくる」
それが、自分にできる精一杯の約束だった。
サイラスは少し躊躇うように視線を落とし、懐に手を入れる。
「……これ、覚えてる?」
差し出されたのは、小さな紙片だった。中には色あせた花が挟まれている。
丁寧に押し花にされた、小さな野の花。
アイリスは目を見開いた。
「……これ」
幼い頃の記憶がすぐによみがえる。
一緒に花を摘んで、遊び半分で押し花にして渡したもの。
「……まだ持ってたの?」
思わず笑う。けれどその声は少し震えていた。
サイラスは照れたように頷く。
「捨てられなくて。ずっと持ってた」
静かな言葉だったが、そこには確かな時間が積み重なっていた。
「……これ、持っていってほしい」
「え?」
「お守りってほどじゃないけど」
少し困ったように笑う。
「これを見ると、あの頃のこと思い出せるから。少しは安心できるかもしれない」
アイリスはそっと受け取る。
軽いはずなのに、指先に重みを感じた。
「……ありがとう」
胸の奥が静かに満たされていく。
「……無理はしないで」
サイラスが言う。
「つらかったら、ちゃんとつらいって言っていいから」
「……うん」
「ひとりで抱えなくていい」
その言葉に、アイリスは少しだけ考え、小さく言った。
「それ……貴方にそのまま返したいかも」
サイラスは目を瞬かせる。
「……そうかな」
困ったように笑った。
その表情を、アイリスは目に焼き付けるように見つめた。
やがて別れの時間が来る。
「……また」
「うん」
「必ず」
「うん」
それ以上は言葉にできなかった。
手を離す。
それでも、温もりだけが残っていた。
その夜、アイリスはほとんど眠れなかった。
それでも心は不思議と静かだった。
帰る場所がある。待っている人がいる。
それだけで、少しだけ強くなれる気がした。
旅は数日に及んだ。
村を離れ、進むにつれて人の数は増えていく。
やがて王都が見えた。高い城壁と大きな門。
本来なら、活気に溢れているはずの場所だった。
だが、言葉を失う。
門の前には多くの人がいたが、そのほとんどが男だった。
中に入ると異様さはさらに際立つ。
店は開いている。人もいる。
それでも、どこかおかしい。
女の姿が極端に少ない。
そして時折、布に包まれた人影が運ばれていく。
それが何かは、考えなくてもわかった。
「こちらだ」
使者に促され、アイリスは歩く。
通りの脇では、男が座り込んでいた。
腕の中にはぐったりとした女性。
「……起きてくれ……」
かすれた声。返事はない。
別の場所では、家の前で泣き崩れる人がいる。
扉は閉ざされたままで、中からは誰も出てこない。
空気が違う。重い。
村よりも、はるかに濃い絶望が漂っていた。
「……ここまで、広がってるんだ……」
思わず呟く。
使者は淡々と答える。
「王都の女性の大半が罹患している。」
その言葉が、重くのしかかる。
やがて大きな建物へ案内される。
中には多くの寝台が並び、そこにいるのはすべて女性だった。
苦しそうにうめく者、静かに横たわる者、もう動かない者。
アイリスは足を止めた。胸が締めつけられ、息が浅くなる。
そのとき、ひとりの女性がかすかに目を開けた。
視線が合う。
何かを言おうとして、声にならないまま手を伸ばす。
助けを求めるように。
——自分は、なぜ助かったのか。
それを知らなければ、ここにいる誰も救えない気がした。
ここで止まるわけにはいかない。
アイリスはペンダントに触れる。
もう片方の手はポケットへ。小さな紙の感触。
そのすべてを胸に、顔を上げて一歩踏み出した。




