ただ一人の回復者
その後も、村の空気は重いままだった。
けれど、アイリスの日常には、わずかな変化があった。
サイラスが来てくれる。
忙しい合間を縫い、ほんの短い時間でも顔を見せてくれるのだ。
「無理しなくていいのに」
そう言うと、彼は少し困ったように笑った。
「……顔を見ると、安心するんだ」
それがどちらに向けた言葉なのかは分からない。
けれど、その時間が心を静かに落ち着かせてくれた。
異変に気づいたのは、数日後の朝だった。
体が重い。ただの疲れだと思いたかった。
だが立ち上がろうとした瞬間、ふらりと視界が揺れる。
「……あれ」
嫌な予感が、背中を這い上がった。
その日のうちに熱が出て、夜には赤い斑点が体に浮かび始める。
鏡に映る自分の姿を見て、息が止まった。
何度も見てきた、その症状だった。
怖い。苦しい。死にたくない。
その言葉だけが、頭の中を巡り続ける。
熱にうなされながら、意識は何度も途切れかけた。
時間の感覚も、次第に曖昧になっていく。
ふと目を覚ましたとき、視界はぼやけていた。
それでも、手の感触だけははっきりしている。
誰かが、握っている。
ゆっくり視線を動かすと——
「……サイラス」
彼がそこにいた。
椅子に座ったまま身を乗り出し、アイリスの手を包み込むように握っている。
眠っているのか、目は閉じられていた。
その表情は疲れ切っているのに、手だけは離さない。
その温もりが、かろうじて現実へと引き止める。
——死にたくない。
その思いが、胸の奥で強くなった。
苦しい日々は続いた。
熱は上がっては下がり、また上がる。
意識が遠のくたび、何かに引き戻されるような感覚があった。
父の声。水の音。
そして、サイラスの手。
変化が訪れたのは、ある朝だった。
目を覚ますと、体の重さがわずかに違う。
呼吸も、ほんの少しだけ楽になっている。
震える手で腕を見ると、赤く広がっていた発疹が薄れていた。
「……薄く、なってる……?」
信じられなかった。
その日のうちに熱は下がり始め、翌日にはさらに回復していく。
「……治ってる……」
こぼれた言葉には、安堵だけではない何かが混ざっていた。
父が声を震わせる。
その目から涙があふれ、何度も繰り返した。
「よかった……本当に……」
アイリスは、まだ現実を受け止めきれないまま、その様子を見ていた。
けれど確かに、体は軽くなり、痛みも熱も消えていた。
数日後、アイリスは自分の足で立てるようになっていた。
外の空気を吸い込み、生きているという実感が、ゆっくりと戻ってくる。
だが、その噂はすぐに広がった。
――治った娘がいる。
それは希望であり、同時に焦りと怒りを呼び起こした。
「本当に知らないのか!?」
家の前で、男が声を荒げる。
「何かあるんだろう!?薬か!?祈りか!?」
「……わからないの」
首を振る。
本当に、何もわからない。
「隠すな!」
男が一歩踏み出し、乱暴に腕を伸ばした瞬間——
がしり、とその動きが止まった。
「……やめてください」
静かな声だったが、逆らえない重さがある。
サイラスだった。
男の腕を軽く掴んでいるだけなのに、びくともしない。
「この人は、嘘をついていません」
まっすぐに言う。
「苦しんでいるのは、同じでしょう」
男は言葉を失い、やがて力を抜いた。
そのまま何も言わずに去っていく。
静けさが戻った。
「……大丈夫?」
サイラスが覗き込む。
「うん」
頷きながらも、胸の奥はざわついていた。
助かったことも、彼がそばにいることも、本来なら喜ぶべきことのはずなのに。
亡くなった人たちのことが、どうしても頭から離れない。
「……私だけ、なんで」
ぽつりとこぼれる。
サイラスは少し考え、静かに言った。
「……理由は、これからわかるかもしれない」
そして続ける。
「でも、助かったことは……悪いことじゃない」
優しく、けれど逃げ場を与えない言葉だった。
それでも、胸のざわめきは消えない。
どうして自分だけなのか。その問いが何度も繰り返される。
気づけば、手が胸元へ伸びていた。
触れたのは、小さな赤い石のペンダント。
指でなぞると、わずかに力がこもる。
それでも、自分はここにいる。
息をして、立っている。
その事実だけが、重く胸にのしかかっていた。
数日後、村に見慣れない一団が現れた。
整った装束と無駄のない動き。
明らかに、ただの旅人ではない。
彼らはまっすぐ、アイリスの家を訪れた。
「王都よりの使者である」
低く、はっきりとした声。
「この村に、病から回復した娘がいると聞いた」
父が一歩前に出る。
「……娘です」
使者の視線がアイリスへ向けられる。
値踏みするような、冷静な目だった。
「王都では、同様の病がさらに広がっている。回復例はない」
一瞬、言葉が詰まる。
「……王命により、回復の理由を調べる必要がある」
そして、淡々と告げた。
「王都へ同行してもらう」
静寂が落ちる。
その言葉が意味するものは、誰にでも分かっていた。
——それは、命令であり、拒否できない連行だということ。
「……いつ」
アイリスは静かに問う。
「明朝だ」
父が息を呑む。
アイリスはしばらく何も言えなかった。
言葉にすれば、すべてが決まってしまう気がした。
それでも、ゆっくりと息を吸う。
「……わかりました」
小さく、しかし確かに頷いた。
使者たちは、それだけを確認して去っていった。
残された静けさの中で、現実がゆっくりと形を持つ。
村を離れる。
ひとりで。
サイラスも、父も、ここに残して。
胸の奥が、強く締めつけられる。
それでも——
行かなければならない。
そう思わなければ、立っていられなかった。




