残されたもの
翌朝。
ほとんど眠れないまま、アイリスは目を覚ました。
窓の外には、いつもと変わらない朝が広がっている。
柔らかな光。揺れる木々。遠くで鳴く鳥の声。
それなのに、世界だけが少し違って見えた。
枕元には、あのペンダントが置かれている。
赤い石をはめ込んだ、小さなそれ。
指先で触れると、昨夜の涙が胸の奥に蘇った。
「……ミーシャ」
呼んでも、返事はない。
当たり前のことなのに、その沈黙が重い。
そのとき、扉の外から父の声がした。
「起きているか」
「……うん」
「今日も店は開けない。水だけでも飲んでおけ」
「……わかった」
足音が遠ざかる。
しばらく動けないまま座り込んでいたが、
やがて、視線がペンダントへと戻る。
ゆっくりと手に取り、首にかけた。
冷たい鎖が、胸元に落ちる。
服越しに伝わる重みが、確かにそこにあった。
まるで、あの子がそこにいるみたいに。
胸の奥の空洞が、ほんの少しだけやわらぐ。
ひとつ息を吐いて、立ち上がる。
手に取ったのは、花束。
ペンダントに触れ、確かめるように握る。
気づけば、もう体は動いていた。
外へ出ると、空気はひんやりとしていた。
人影はまばらで、すれ違う者たちはどこか怯えた顔をしている。
閉ざされた家々のあいだを、アイリスは歩いた。
向かう先は——墓地。
近づくにつれ、土の匂いが強くなる。
静かな場所。
けれど、以前とは違っていた。
新しい土が、あちこちにある。
まだ整っていない墓。粗く盛られた土。
その中に——見覚えのある名前。
足が止まる。
胸が詰まる。
それでも、視線を逸らすことはできなかった。
「……アイリス?」
振り返ると、サイラスがいた。
手にはスコップ。服は土で汚れ、額には汗がにじんでいる。
一瞬驚いたように目を見開き、それからすぐに表情をやわらげた。
「来てたんだね」
優しい声。けれど、その奥に疲れが滲んでいる。
「……うん」
うまく言葉が出ないまま頷くと、サイラスはスコップを立て、ゆっくり近づいてきた。
「……無理して来たんじゃない?」
「……大丈夫」
少しの間のあと、アイリスは言う。
「ミーシャのこと、聞いた」
サイラスは静かに頷いた。
「……今朝、埋葬したよ」
その言葉が、深く胸に刺さる。
「……そっか」
それ以上、言葉は出なかった。
風が草を揺らす音だけが、静かに響く。
やがてサイラスが、迷うように口を開いた。
「……来てくれて、よかった」
アイリスは顔を上げる。
「ひとりで抱えるより……誰かといるほうが、少しは楽になるから」
それは、自分にも言い聞かせるような声だった。
アイリスはゆっくり歩き出す。
ミーシャの墓の前で膝をつき、花束を置いた。
「……あなたの好きな百合の花よ」
声がかすれる。
「ちゃんと、持ってきたよ」
胸元に手を当てる。
ペンダントに触れ、それをそっと握る。
あの日、二人で選んだ記憶が蘇る。
彼女の、あの嬉しそうな笑顔。
——それが、ここに残っている。
「……大切にするね」
指先に、わずかに力がこもる。
涙がひとつ、落ちた。
土に、静かに染み込んでいく。
背後に、サイラスの気配。
何も言わず、ただそこにいる。
それが、救いだった。
やがて、アイリスは立ち上がる。
振り返ると、サイラスが静かに見ていた。
言わなければならないことがある。
ずっと胸に抱えていた言葉。
「……サイラス」
「うん」
そのやさしい返事に、少しだけ勇気が湧く。
「この前の……返事」
サイラスは目を瞬かせた。
「……今じゃなくてもいいよ。こんな時だし」
けれど、アイリスは首を振る。
「ううん。今だから、言いたい」
胸はまだ痛い。
悲しみも、消えてはいない。
それでも。
「……私」
一度、息を吸う。
「うまく言葉にはできないけど」
視線を揺らしながらも、逸らさずに。
「サイラスと……一緒にいたいって、思った」
痛みを抱えたまま、それでも続ける。
「怖いことも、悲しいこともあるけど」
「……それでも」
小さく息を吐く。
「ひとりでいるより、いいって思ったの」
サイラスは、しばらく何も言えなかった。
ただ、まっすぐに見つめている。
やがて、ゆっくりと頷いた。
「……ありがとう」
その声は、わずかに震えていた。




