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失われた日常

 それから数日で、村の空気は一変した。

 最初は「熱を出した娘がいるらしい」という噂だった。

 けれどそれは、あっという間に広がっていった。

 発熱。全身に浮かぶ赤い発疹。

 そして衰弱し、そのまま命を落とす。

 発症した者で、回復した者はいなかった。

 家々の扉は固く閉ざされ、人々は互いに距離を取り始める。

 笑い声の絶えなかった通りは静まり返り、代わりに祈る声とすすり泣きが聞こえるようになった。

 村は、目に見えない恐怖に包まれていた。


 アイリスは店の奥で花の手入れをしていた。

 本来ならこの時期はもっと忙しいはずなのに、客はほとんど来ない。

「今日はもう店は開けない」

 父が静かに言った。

「しばらくは外に出るな。人に会わない方がいい。わかったな」

「……うん」

 頷きながらも、胸の奥がざわつく。


 サイラスのことが頭をよぎった。

 あの日の夜、丘の上で踊って言葉を交わして——それ以来、顔を合わせていない。

 村の状況を考えれば当然だった。

 そんな中、扉が叩かれた。

 父が警戒した様子で開けると、そこに立っていたのはエリックだった。

 いつも陽気に笑っている彼の面影は、ほとんどなかった。

 目は赤く腫れ、声もかすれている。

「……アイリス、いるか」

 その声に、胸が嫌な音を立てた。

「いるよ」

 前に出ると、エリックはしばらく何も言わなかった。

 唇を噛みしめ、俯いている。

 いつもなら軽口のひとつでも叩くはずなのに、その沈黙が何よりも重かった。

「……あのさ」

 ようやく絞り出す。

「俺……何て言えばいいか、わかんなくて」

 言葉が途切れる。それでも無理に続ける。

「……ミーシャが」

 一瞬、空気が止まった気がした。

「……死んだ」

 意味が、すぐには理解できなかった。

「昨日の夜……最後まで意識はあってさ」

 声が震える。

「アイリスに……これを渡してほしいって」

差し出されたのは、小さなペンダントだった。

 赤い石がはめ込まれた、簡素な飾り。

 見覚えがあった。


 ミーシャと一緒に買い物に行った日のことが、はっきり蘇る。

 店先に並べられた中から、彼女はどれにするか迷っていた。

「ねえ、どっちがいいと思う?」

 そう言って差し出されたのは、赤と青の二つ。

 少し考えて、アイリスは赤を指さした。

「こっち、ミーシャに似合うと思う」

「ほんと?じゃあこれにする!」

 嬉しそうに笑っていた顔が、鮮明に浮かぶ。

 あれからずっと、ミーシャはそれを大事にしていた。

 祭りの日にも身につけて、元気に笑っていたのに。


「……なんで」

 かすれた声が、自分のものだと気づくのに少し時間がかかった。

 エリックは答えられなかった。ただ目を伏せる。

「……ごめん」

 何に対しての言葉かもわからないまま。

「……体、気をつけろよ」

 それだけ言って、エリックは去っていった。

 その背中は、あまりにも小さく見えた。


 その後のことは、よく覚えていない。

 父が何かを言っていた気がする。水を渡され、食事を促される。

 けれど何も味がしなかった。

 時間だけが、曖昧に過ぎていく。


 夜、自室でひとりになったとき。

 アイリスはようやくペンダントを手に取った。

 冷たい。

 小さなそれを、ぎゅっと握る。

「……ミーシャ……」

 堰を切ったように涙があふれた。

 止めようとしても止まらない。嗚咽が部屋に響く。

 どうして。どうしてあの子が。

 あんなに元気だったのに。

 この前まで、すぐそこにいたのに。

 ——もう、いない。

 その事実が、ゆっくりと胸に沈んでいく。


 どれくらい泣いたのか、わからなかった。

 涙は収まっていったが、胸の奥の空洞は埋まらないままだった。

 ミーシャが死んだ。その事実が、どうしようもなく苦しい。

 もう笑わない。もう話さない。もう触れることもできない。

 そこまで考えた瞬間、別の想像が頭をよぎった。

 ——今ごろ、サイラスは。

 息が詰まる。

 ミーシャの家から墓地までの道。白い布に包まれた身体。

 それを運ぶ列。その先で土を掘る大きな背中。

「……やだ」

 頭を振っても消えない。

 サイラスがミーシャを埋めている。あの優しい手で土をかけている。

 ひとつ、またひとつと。

 まるで大切なものを遠ざけるように。

「……そんなの……」

 胸が締めつけられる。

 自分はここで泣いているだけなのに、あの人はきっと泣く暇もなく手を動かしている。


 ミーシャはサイラスを避けなかった。

 村の人たちが距離を取る中でも、いつも通り話しかけて笑っていた。

「サイラスって優しいよね」

 そう言って、何でもない顔で隣に立っていた。

 あの子にとっては墓守の息子なんて関係なかった。

 ただの同じ村の人だった。

 だからこそ、サイラスにとってもミーシャは数少ない「普通に接してくれる人」だったのだ。


 それなのに今、そのミーシャをサイラスは土に還している。

 いつもと同じように、同じ手つきで、同じ静けさで。

「……そんなの……」

 もう一度、言葉がこぼれる。

 それをただのひとつの墓として扱えるはずがない。

 それでも、そうするしかないのだ。

 あの人は、そうやって生きてきたのだから。

 胸の奥が強く痛んだ。悲しみとは違う、もうひとつの痛みだった。

 ——あの人は、ひとりで抱えているのだろうか。

 弱音も吐かず、誰にも頼らず、ただ黙って。

「……サイラス」

 かすれた声で名前を呼ぶ。

 会いたいと思った。

 慰めてほしいわけじゃない。言葉がほしいわけでもない。

 ただ、あの人がひとりでいないといいと、そう思った。


 アイリスは髪飾りを胸に抱いたまま目を閉じる。

 ミーシャを失った現実と、その先にいるサイラスの姿が重なって離れなかった。

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