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祝福の夜

 日が暮れた。

 店じまいの頃になると、村の中央から賑やかな音楽が風に乗って届いてくる。笛の軽やかな音と、太鼓の弾むようなリズム。笑い声も混じって、遠くのはずなのに、すぐそこにあるように感じられた。

 アイリスは最後の花を水桶に戻し、ふうっと大きく息を吐く。

「……終わったあ」

 腕を伸ばして、ぐっと背を反らす。肩や指先に残る疲れが、じんわりとほどけていく。

「よく働いたな」

 父が店の戸を閉めながら言った。

「今日は特に多かったね」

「祭りの日だからな。……ああ、それと」

 父はふと思い出したように、裏口の方を顎で示す。

「お前に客だ」

「え?」

 こんな時間に、と首を傾げながら、アイリスは裏口へ向かった。

 扉を開けると、夜気がひんやりと頬を撫でる。

 そして——そこに、サイラスがいた。

 いつもは土や埃で汚れている服ではなく、今日はきちんとした、まだ新しそうな上着を着ている。少しだけ落ち着かない様子で立っている姿に、アイリスは目を瞬かせた。

「サイラス……?」

「ああ」

 穏やかに頷き、少しだけ微笑む。

「……まだ、いたんだね」

「うん、店が忙しくて」

「そっか」

 短いやり取りのあと、サイラスは少し言いにくそうに視線を落とした。

「……もう、誰かに誘われて行ってるかもしれないと思ってた」

「え?」

「その……祭り」

 その言い方がどこか遠慮がちで、アイリスは思わず笑う。

「行ってないよ。今年も手伝いって言ったでしょ」

 それを聞いたサイラスは、ほっとしたように肩の力を抜いた。

「よかった」

 小さくこぼれたその一言に、アイリスの胸が少しだけ揺れる。

「なに、その顔」

「……いや」

 少し照れたように視線を逸らす彼に、アイリスは冗談っぽく言った。

「もしかして、私を祭りに誘いに来たの?」

 軽く言ったつもりだった。

 でも、ほんの少しだけ期待していた。

 サイラスは一瞬ためらい、それから申し訳なさそうに首を振る。

「ごめん……俺は、その……仕事のこともあるし、祭りには行けないんだ」

「……うん」

 わかっていた答えだった。

 けれど彼は続ける。

「でも」

 ゆっくりと顔を上げて、まっすぐにアイリスを見る。

「祭りには行けないけど……君を、連れて行きたい場所があるんだ」

「……どこ?」

「来てくれたら、わかるよ」

 少し不器用で、でも優しい言い方だった。

 アイリスは自然と笑う。

「いいよ。行く」

 その返事に、サイラスは安心したように頷いた。

 それから店の方へ顔を向ける。

「……おじさん」

「聞こえてる」

 いつの間にか扉の陰にいた父が、腕を組んで立っていた。

「遅くならないうちに、必ず送ります」

「頼んだぞ」

 短いが、十分な許しだった。

 サイラスはほっと息をつき、そっとアイリスの手を取る。

 大きくて、少しひんやりした手。

 裏手に回ると、一頭の馬が繋がれていた。

「乗れる?」

「うん、大丈夫」

 手を添えられながら、アイリスは馬に乗る。サイラスも後ろに跨がり、静かに手綱を引いた。

「少し揺れるけど……大丈夫?」

「平気だよ」

「じゃあ、行こう」

 やわらかな合図とともに、馬が走り出した。

 向かうのは、村の中心とは逆——丘の方だ。

 風が頬を撫で、髪を揺らす。遠ざかる音楽が、次第に小さくなる。

 やがて十分ほど走った頃、木々がふっと開けた。

「……わあ」

 思わず声が漏れる。

 そこからは、村全体が見渡せた。広場の灯りがあたたかく瞬き、人々の動きが小さな影となって揺れている。

 まるで、星が地上に降りたみたいだった。

 二人は馬を降りる。

 静かな夜だった。風と、遠くの音楽だけがある。

 サイラスは少し緊張した様子で、鞄に手を入れる。

「……これを」

 差し出されたのは、花の腕輪だった。

「受け取ってほしい」

 アイリスは目を丸くする。

「……これ、うちのじゃないよね?」

「うん」

「どこで——」

「……俺が編んだんだ」

 少し照れたように言う。

 一瞬、意味がわからなかった。けれどすぐに、幼い日の記憶がよみがえる。

 一緒に花を摘んで、笑いながら編んだ日々。

 確かに彼は、できる。

 でも——

 今の彼の大きな手で、真剣な顔をして、ちまちまと花を編んでいる姿を想像してしまって。

「……ふふっ」

 思わず、笑いがこぼれた。

「え、そんなにおかしい?」

「ごめん……でも、ちょっと想像しちゃって」

 サイラスは少し拗ねたように眉を寄せる。

「……頑張って作ったのに」

「ごめん、ごめん。でも……嬉しくて」

 笑いをこらえながら、アイリスは言う。

 「ありがとう。すごく嬉しい」

 そう言って、腕輪を受け取る。

 サイラスはほっとしたように微笑んだ。

「……広場じゃなくて、ごめん」

「ううん」

「もしよかったら……ここで、一緒に踊らない?」

 その言い方はとても静かで、けれど真剣だった。

「喜んで」

 遠くの音楽に合わせて、二人はゆっくりと踊り始める。

 ぎこちないステップ。

 何度か足を踏んでしまって、

「痛っ」

「ご、ごめん!」

「……わざと?」

「違うってば!」

 そんなやり取りをしながら、それでも笑いが絶えない。

 やがて息が上がり、アイリスはそのまま芝生に倒れ込んだ。

「はあ……疲れた……」

 大の字になって空を見上げる。

 星が、驚くほど近かった。

 サイラスも隣に腰を下ろす。

 しばらく沈黙が続いたあと——

「……アイリス」

 彼が、静かに呼ぶ。

「俺は」

 言葉を選ぶように、一度息を吸って。

「ずっと、君のことが好きだった」

 風が止まったように感じた。

「……でも」

 サイラスは続ける。

「返事は、すぐじゃなくていいから」

 少しだけ視線を逸らして、

「ちゃんと考えてくれれば、それで嬉しい」

 アイリスはゆっくりと体を起こす。

 胸の奥が、静かに揺れている。

「……うん」

 小さく頷いた。

「ちゃんと、考える」

 それが今の精一杯だった。

 サイラスは、それで十分だというように頷いた。


 その後、アイリスは馬で家まで送られた。

 別れ際、何か言おうとして、結局何も言えずに手を振る。

 家に入ってからも、胸の鼓動はなかなか収まらなかった。

 幼馴染だったサイラス。

 その関係が、少しずつ変わろうとしている。

 それが少し怖くて、でも——

 嫌ではなかった。

「……いい夜だったな」

 小さく呟いて、ベッドに潜り込む。

 祭りに行けなくても。

 広場で踊らなくても。

 今日は、確かに特別な一日だった。

 そう思いながら、アイリスは静かに眠りについた。


 翌朝。

 アイリスはミーシャの家を訪ねた。

 昨夜のことを話したくて仕方がなかったのだ。

 けれど、扉を開けたミーシャの母親は困った顔をした。

「ごめんなさいね、ミーシャ、熱を出して寝込んでるの」

「えっ……大丈夫ですか?」

「今は落ち着いてるけど……少し休ませてあげて」

「……はい」

 心配を胸に抱えたまま、アイリスは家を後にした。

 帰り道、父に頼まれていた買い物のため、八百屋に立ち寄る。

「おや、アイリスちゃん」

 店主が顔を上げた。

「ミーシャのところ行ってきたのかい」

「はい……熱があるみたいで」

「ああ、やっぱりか」

 店主は少し顔を曇らせる。

「最近な、若い娘が何人か、体調崩してるらしい」

「……え?」

「大したことないといいんだがな。お前も気をつけな」

「……はい」

 野菜を受け取りながら、アイリスは胸の奥に小さな不安を覚えた。

 ミーシャだけじゃない。

 他にも。

 それは、ただの偶然なのか——


 村では、ひとつの噂が流れていた。

 王都から来た行商人が、酒場で語ったという。

 ——王都では、女だけがかかる病が流行っているらしい。

 静かな村に、目に見えない影が、少しずつ近づいていた。

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