静かな訪問者
その日の午後。
陽はまだ高いのに、どこか柔らかく傾き始めていた。店先に並べた花々の色も、朝より少しだけ深く見える。
ひとつ、またひとつと腕輪を仕上げながら、アイリスは指先の感覚に集中していた。蔓のしなり具合、花の向き、色の重なり。余計なことを考えずに済む、この時間が嫌いではない。
——そのとき。
扉が静かに開き、小さな鈴が鳴った。
「すみません。少し、よろしいですか」
落ち着いた声。
顔を上げたアイリスは、わずかに目を見開く。
「……レオンさん」
そこに立っていたのは、王都の仕立ての服をきちんと着こなした男だった。無駄のない形、落ち着いた色合い。特別目立つわけではないが、どこか整っていると感じさせる装い。
ただひとつ、この村で目を引くとすれば——その肌の色だけ。
褐色の肌。
それだけで距離を置かれることもある。
海に囲まれたこの国は、荒波のせいで他国との行き来が少ない。王都ですら外国人は珍しく、地方ともなればなおさらだ。
そして珍しいだけで済めばいいが——この国では、それはしばしば“よそ者”の印として扱われる。
露骨に避ける者もいれば、関わらないことで距離を保とうとする者もいる。
だからこそ。
こうして自然に店に立つレオンの姿は、どこか不思議でもあった。
「お久しぶりです、アイリスさん」
穏やかな声色は、初めて会ったときから変わらない。
「お忙しいところ申し訳ありません。どうしても今日しか時間が取れなくて」
「いえ、大丈夫です」
アイリスは首を振る。
「種、ですよね?」
「ええ。あの花のものを」
頷く彼に、小さく笑みを返す。
「取ってありますよ」
棚の奥から袋を取り出し、布の上に並べる。
レオンはそれを覗き込み、ゆっくりと目を細めた。
「やはり、良い花ですね」
種を指先で確かめるように転がす。
「この花自体は、今ではどこでも手に入りますが……」
そこで、わずかに視線を上げる。
「ここのものは、質が違う」
静かな断言だった。
アイリスは一瞬だけ目を瞬かせる。
「……そうなんですか?」
「ええ」
迷いなく頷く。
「発芽率も安定している。花の形も崩れにくい」
まるで見慣れているかのような口ぶりだった。
「同じ種でも、育てる人によって変わるものです」
淡々とした説明。
けれど、その視線はほんのわずかに柔らかい。
「だから、わざわざここまで来ているんです」
まるで何度も確かめてきたかのような言い方に、アイリスはほんのわずかに首を傾げた。
——三年前のことを思い出す。
初めて彼が店に現れたときも、同じように自然だった。
王都の服を着た、礼儀正しい客。
ただ、肌の色だけがこの土地では異質で。
それだけで、店の外を通る人々が、ほんの一瞬だけ視線を向けていたのを覚えている。
「この花、きれいですね」
彼が手に取ったのは、母が残した東方の花だった。
細くしなやかな茎に、幾重にも重なる花弁。
「少し珍しい種類なんです」
父がそう答えると、レオンは興味深そうに頷いた。
「香りもいい」
そう言った後、少し間を置いて。
「もしよければ、いくつか分けていただけますか?」
丁寧に礼を述べ、代金を払い、静かに去っていった。
それ以来。
彼は何度かこの花の種を買いに来るようになった。
自宅の庭を、この花で満たしたいのだと、淡々と語っていた。
「これだけあれば、十分ですね」
袋を手に取りながら、レオンが言う。
「ありがとうございます」
「こちらこそ」
代金を受け取り、アイリスは軽く頭を下げた。
そのとき。
「今日も、綺麗ですね」
一瞬、視線を上げる。
レオンは変わらぬ表情で、こちらを見ていた。
「その黒髪」
続けられた言葉に、アイリスはすぐ理解する。
「この国では、あまり見ない。……綺麗だ」
それは、静かだが、はっきりとした賞賛だった。
アイリスは小さく息を吐く。
母譲りの黒髪。
東方から来た母の名残。
だが肌の色、顔立ちは父に似ているせいで、あからさまに避けられることは少ない。
どこか一歩だけ、距離を置かれているような感覚がある。
「……ありがとうございます」
短くそう返す。
レオンは静かに頷いた。
「お上手ですね」
軽く返すと、レオンはわずかに苦笑した。
外では、祭りの準備の音が続いている。
賑やかな気配が、少しずつ近づいてくる。
「今夜は祭りですね」
「ええ」
「人も多いでしょう」
「そうですね」
「……アイリスさんは?」
短い問い。
「店の手伝いです」
それだけ答えると、レオンは深くは聞かなかった。
「そうですか」
ただ受け止めるだけの声音。
「では、今日はこれで」
種の袋を抱え、一歩下がる。
「また、いずれ」
「はい」
扉が開き、春の風が入り込む。
外から一瞬、ざわめきが流れ込んで——すぐに静けさが戻る。
アイリスはしばらくその場に立ち尽くし、やがて息を吐いた。
胸に残るのは、ときめきではない。
ただ、少しだけ安心するような感覚。
同じように、この場所から少しだけ外れたもの。
「……変な人」
小さく呟く。
それでも、どこか嫌ではなかった。
蔓を手に取り、花を編み始める。
指先はいつも通り正確に動く。




