成人祭の朝
朝露の残る石畳に、淡い花びらがひとひら落ちた。
それを拾い上げたアイリスは、小さく息を吐く。春の匂いが、指先にまとわりつくようだった。
店の軒先には、色とりどりの花が並んでいる。白いリリー、紫のアイリス、野に咲く小さな花々を束ねた素朴な花束。どれも、彼女と父が丹精込めて育てたものだ。
「アイリス、次の注文はどうだ?」
店の奥から父の声が飛ぶ。
「あと少しで終わるよ!」
そう答えながら、彼女は花を編み込んでいく。細い蔓に、丁寧に花を絡め、丸く形を整える。花の腕輪——この季節、最も売れる品だ。
年に一度の成人祭。
十六になった若者が、想いを寄せる相手に花の腕輪を贈り、広場で共に踊る。そうすれば、その二人は末長く幸せになる——そんな言い伝えが、この村にはある。
だから今、店は朝から晩まで客足が絶えない。
アイリスは編みかけの腕輪に視線を落とし、ふと手を止めた。
並べていた花の束が、思ったより早く減っている。
「……お父さん、花、もうあんまりないよ」
奥に向かって声をかける。
「もうか?」
父の声が返ってくる。
「ちょっと待ってろ」
足音が遠ざかり、しばらくして裏口の方から戻ってくる気配がした。
父は腕いっぱいに花を抱えて現れる。
「ほら、これを使え」
「倉庫に回してあった分だ。今年は注文が多いからな、足りない分は商人から仕入れてある」
「ありがとう」
受け取りながら、アイリスはすぐに手を動かし始める。
「ねえアイリス、今年はどうするの?」
昼過ぎ、店先に顔を出したミーシャが、からかうように笑った。
彼女は髪結いの娘で、栗色の髪をきれいに編み上げている。仕事の合間を縫って来たのだろう、頬が少し赤い。
「どうするって?」
「決まってるでしょ。祭りよ。サイラスと行くの?」
その名前が出た瞬間、アイリスの手がわずかに止まった。
サイラス。墓守の息子。大柄で、無口で、けれど誰よりも優しい青年。今年で十八歳になる。
幼い頃に母を亡くし、そして一年前、父も亡くしている。今はひとりで墓守を継いでいた。
彼と初めて会ったのは、七歳の頃だった。
母の墓の前で泣きじゃくる自分に、ただ静かに隣に座って、話を聞いてくれた。慰めの言葉は少なかったけれど、その沈黙は不思議と温かかった。
それ以来、彼はずっと——
「……サイラスは、来ないよ」
アイリスは小さく言った。
「彼が成人した年も、来なかったでしょ」
「でも今年は違うかもじゃない」
「違わないよ」
少しだけ強く言い過ぎた気がして、彼女は視線を落とす。
サイラスは、村の人々から距離を置かれている。
墓守の家系というだけで、縁起が悪いと囁かれる。子どもたちは近づくなと教えられ、大人たちは必要以上に関わろうとしない。
だから祭りのような場所に、彼は来ない。
来られない。
「それに……」
アイリスは言葉を濁す。
ここ最近、村では不穏な出来事が続いていた。
鍛冶屋の女将と、食堂の女将が、立て続けに亡くなったのだ。
どちらも急な死で、原因ははっきりしない。
そしてその度にサイラスは忙しそうにしていた。
墓を掘り、遺体を運び、夜遅くまで働いている姿を、何度も見かけた。 父の代わりを務めるようになってから、その背中は以前よりも静かになった気がする。
「忙しそうだし」
そう付け加えると、ミーシャは少しだけ眉を下げた。
「……そっか」
だが次の瞬間、ぱっと表情を明るくする。
「まあいいや!私は行くけどね!」
「エリックと?」
「そう!」
誇らしげに胸を張るミーシャに、アイリスは思わず笑った。
「さっきもね、“俺が一番目立つ場所で踊ってやる!”って大騒ぎしてて。ほんと、あの人調子いいんだから」
「ふふ、想像つく」
パン屋の息子エリックは、明るくて人懐っこく、いつも軽口を叩いては周りを笑わせている。少し騒がしいくらいだが、その分、場の空気をぱっと明るくするようなところがあった。
「夕方から行っていいって言われたの。だからそれまで死ぬほど働く!」
「もう十分働いてるでしょ」
「恋のためならいくらでも!」
ミーシャは拳を握りしめる。
その姿を見ていると、胸の奥が少しだけざわついた。
——もし、自分も誰かと踊るなら。
考えるまでもなく、ひとりの顔が浮かぶ。
無口で、大きくて、少し不器用なあの人。
けれど——
「私はいいよ。今年も手伝い」
アイリスは軽く肩をすくめた。
「忙しいしね」
「ほんとにそれでいいの?」
ミーシャの問いに、彼女は一瞬だけ言葉に詰まる。
いいのかと聞かれれば——
わからない。
でも。
「……いいの」
そう言って、花の腕輪をひとつ完成させる。
淡い青の花を編み込んだそれは、どこか静かで、寂しげだった。
店の外では、祭りの準備が少しずつ進んでいる。
広場には飾り付けが施され、子どもたちは浮き足立ち、大人たちはどこかそわそわしている。
季節は、確かに動いていた。
けれど——
アイリスの心だけが、まだどこかに置き去りのままだった。




