痛みを伴う決意
研究室の廊下は、静まり返っていた。
夜の気配が、ゆっくりと空気を重くしていく。
アイリスの呼吸は、すでに落ち着いていた。
涙の跡は残っている。
それでも、表情は先ほどとは違っていた。
ルーファスはその様子を一度だけ確かめ、静かに視線を外す。
「……ルーファス」
呼ばれて、わずかに目を向ける。
「レオンさんって……」
言葉が途中で止まる。
それでも、アイリスは続けた。
「もしかして、関係あると思う?」
静かな問いだった。
ルーファスは、答えなかった。
答えられなかった。
思考は、すでにそこに辿り着いている。
すべてが、繋がっている。
だが——
口にすることができない。
わずかに視線を伏せる。
そして、思考は過去へと引き戻される。
王立研究所に入ったばかりの頃。
ルーファスは、自分が最も優秀だと疑っていなかった。
異国の血を引く者は、例外なく劣る。
それが、この国の常識だった。
そしてルーファスもまた、それを疑わなかった。
レオンを上司として紹介されたときも、特に何も思わなかった。
むしろ——
すぐに追い抜けるとさえ思っていた。
与えられた課題に、誰よりも時間をかけた。
寝る時間を削り、何度も検証を繰り返す。
結果は出していた。
評価も、これまでと変わらなかった。
それでも。
届かなかった。
ある日。
自分が何日もかけて組み上げた研究を、レオンは一度資料を見ただけで完成させた。
修正ですらなかった。
ルーファスの仮説は、根本から間違っていた。
レオンは、それを一目で見抜いていた。
何も言えなかった。
積み上げてきたものが、音もなく崩れる。
否定する理由が、どこにもなかった。
そのとき、初めて思った。
——くだらない。
血も、出自も、関係ない。
ただ、届かない。
認めざるを得なかった。
そして同時に、
追いつけないという事実も。
それからも、環境は変わらなかった。
異国の血を引く者への視線は、あからさまだった。
だがレオンは、それを意に介さなかった。
評価でねじ伏せるでもなく、反発するでもない。
ただ、当たり前のように結果を出し続けた。
その背中を、何度も見た。
届かないと分かっていながら、
それでも、目を逸らせなかった。
胸の奥に残るものは、消えない。
劣等感と。
それでもなお、否定できない感情。
——尊敬。
思考が、現在へと戻る。
ルーファスは、ゆっくりと息を吐いた。
「……あの人が、こんなことをするなんて」
かすかな声が漏れる。
「……信じたくない」
押し殺したような声だった。
アイリスは、その様子を見ていた。
「……私も、信じたくない」
静かに言う。
「でも」
言葉を選ぶように続ける。
「信じたいなら、ちゃんと確かめないと」
ルーファスは何も言わない。
「もし、本当に関係してたとしても」
アイリスは視線を落とす。
「どうしてそんなことをしたのか、知りたい」
その声は揺れていた。
それでも、はっきりしていた。
ルーファスは目を閉じる。
迷いは消えない。
それでも。
ゆっくりと目を開く。
「……確かめる」
低く言った。
それが、自分の答えだった。
短い沈黙のあと、
ルーファスはゆっくりと視線を落とす。
考えるべきことは、もう一つある。
もし——
レオンが関わっているのだとすれば。
動き方を誤れば、終わる。
ルーファスの思考は、一気に冷えていく。
感情を切り離す。
必要なのは、判断だけだ。
「……この件は、まだ報告しない」
低く言う。
アイリスが、わずかに目を見開く。
「レオンさんに?」
「ああ」
迷いはなかった。
「手紙のことは伏せる」
短く言い切る。
アイリスは一瞬だけ戸惑い、それでもすぐに頷いた。
「……分かった」
ルーファスはその様子を確認してから、続ける。
「今まで通りにしてくれ」
「気づかれていると思わせるな」
その言葉は静かだったが、重みがあった。
アイリスは小さく息を飲む。
「……うん」
短く答える。
それで十分だった。
ルーファスは手紙へと視線を落とす。
——もう一通、送った。
その一文が、頭に残っていた。
商会経由。
そして——レオン。
思考が、静かに繋がる。
握りつぶすことは容易だ。
この王都で、情報の流れを制御できる立場にある。
それが、あの人間だ。
ルーファスの表情は変わらない。
だが、思考は止まらない。
もし、気づいているのなら。
そして、それが危険だと判断したのなら。
——放置するはずがない。
胸の奥が、わずかに冷えた。




