逃亡の先に
一方、村では。
手紙を出してから、数日が過ぎていた。
サイラスは畑の端に立ち、風に揺れる花を見つめている。
東から持ち込まれた花。
見慣れているはずなのに、どこか違って見えた。
村では発症が止まらない。
むしろ、増えている。
同じ症状、同じ経過。
それが次々に現れていた。
手紙に書いた内容と、すべて一致している。
それなのに——何も変わらない。
誰も来ない。
何の動きもない。
「……届いていないのか」
小さく呟くが、声は風に消えた。
違和感は、そのあとから続いた。
誰かの視線を感じる。
最初は気のせいだと思った。
だが、違う。
振り返っても誰もいない。
それでも、気配だけが残る。
ある日、家の扉がわずかに開いていた。
閉めたはずなのに。
花畑の一部も荒らされていた。
踏み荒らされた跡があり、必要な部分だけが抜かれている。
調べていた遺品の位置も、わずかに変わっていた。
サイラスの指先に力が入る。
「……知られてる」
低く呟く。
手紙の内容も。
調べていたことも。
すべて、誰かに知られている。
その事実が、静かに重くのしかかった。
その夜だった。
物音で目が覚める。
外からだ。
息を潜め、耳を澄ます。
足音がする。
しかも、一人ではない。
ゆっくりと、こちらへ近づいてくる。
サイラスは音を立てないよう体を起こした。
窓の隙間から外をうかがう。
影が、いくつも見えた。
言葉は交わしていない。
だが、動きに迷いがない。
何かを探している。
——それが、自分だと分かる。
ここにいれば、見つかる。
そう確信した瞬間、体が先に動いた。
裏口へ向かい、音を殺して戸を開ける。
冷たい夜気が流れ込む。
振り返らない。
そのまま外へ出て、走り出した。
背後で、何かが動く音がする。
気づかれた。
それでも止まらない。
村を抜け、畑を越え、暗闇の中を走り続ける。
息が荒くなる。
それでも足は止めない。
止まれば終わると、分かっている。
頭の中には、ひとつの考えだけがあった。
——王都へ向かうしかない。
夜が明けても、サイラスは歩き続けていた。
どれだけ走ったのか、自分でも分からない。
足は重く、呼吸は浅い。
それでも歩みは止まらない。
振り返るたびに、誰かがいる気がする。
姿は見えない。
それでも、気配だけが消えない。
距離があるのか。
それとも、わざと離れているのか。
考えるたびに、背筋が冷えた。
街道には出ない。
人目に紛れられるが、それ以上に見つかる危険がある。
森の中を進む。
枝が服に触れる。
それでも足取りは崩れない。
速度も落とさない。
止まれば終わると、分かっている。
昼になるころ、喉の渇きが強くなる。
細い流れを見つけ、膝をつく。
水をすくい、口に運ぶ。
冷たさで、わずかに意識が冴えた。
顔を上げた瞬間、背後の茂みが揺れる。
サイラスはすぐに立ち上がった。
視線を巡らせる。
だが、誰もいない。
それでも、確かに気配はあった。
次の瞬間には、もう走り出していた。
判断に迷いはない。
休むことは考えない。
距離を詰められている——そう感じていた。
日が傾き始めるころ、遠くに石壁が見えた。
王都だった。
その輪郭を見た瞬間、わずかに息を吐く。
だが、足は止めない。
むしろ、ここからが危険だと分かっている。
今のままでは目立つ。
服には土と草がついている。
このまま門を通れば、不審に思われる可能性がある。
サイラスは人の流れに近づきながら、家を出るときに掴んだ財布を取り出した。
中身を確認し、必要な分だけ指で挟む。
行商の男に声をかける。
「それをくれ」
差し出された服は粗い作りだったが、十分だった。
その場で羽織り、汚れた外衣を外す。
印象が変わる。
それだけで、人の中に溶け込める。
何事もなかったかのように歩き出す。
荷を背負った商人や旅人の中へ、自然に紛れ込む。
誰もサイラスに注意を向けない。
門が近づく。
検問が見える。
一瞬だけ状況を見極め、列に並ぶ。
前の人間が、順に通されていく。
やがて順番が来る。
門番の視線が向けられる。
「どこから来た」
「東の村から」
声は低く、安定していた。
門番は短くうなずき、手を振る。
「通れ」
そのまま王都の中へ入る。
人の多さと音に包まれる。
その中で、ふと足が止まった。
通りの向こうから、風に乗って匂いが流れてくる。
花の匂いだった。
サイラスの表情が変わる。
「……なんで」
思わず声が漏れる。
視線を向ける。
店先に、小さな袋が並んでいた。
見覚えのある形。
村で見たものと、同じだった。
喉が、わずかに鳴る。
遅かったのだと理解する。
その瞬間、背筋に冷たいものが走った。
ここも、安全ではない。




