表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
21/40

サイラスの文字

 研究室に戻ったとき、夜はすでに深くなっていた。

 灯りはひとつだけ残っている。

 アイリスの個室だった。

 扉はわずかに開いている。

 中を覗くと、アイリスはベッドに腰掛けたまま動かず、ただ宙を見つめていた。

 ルーファスは足を止める。

 その背中を、しばらく見つめた。

 声をかけるべきか、一瞬だけ迷う。

 だが、手の中の紙に視線を落とし、そのまま歩み寄った。

「……これを」

 短く言って、手紙を差し出す。

 アイリスが顔を上げる。

「……何?」

「読めば分かる」

 それ以上は言わない。

 ルーファスは一歩引いた。


 アイリスは手紙を受け取り、差出人の名前を見る。

 息を呑む。

 すぐに開いた。

 視線が文字を追う。

 最初は、ただ読んでいるだけだった。

 だが途中で、指が止まる。

 同じ行を、もう一度見返す。

 匂いが違う。

 その一文が、すべてを塗り替えた。

 さらに読み進める。

 似ているが、同じではない。

 改良されている可能性。

 言葉が、ゆっくりと胸の奥に沈んでいく。


 最後まで読み終えたとき、手紙を持つ手がわずかに震えていた。

「……違う」

 かすれた声がこぼれる。

「……お母さんの花じゃ、ない」

 その瞬間、胸の奥に張りつめていたものが、静かにほどけた。

 震える指で、もう一度だけ文字をなぞる。

 サイラスの字だった。

 遠くにいても、変わらない。

 それだけで、十分だった。

 押しつぶしていたものが、ゆっくり崩れていく。

 息が震え、目の奥が熱くなる。

 こらえきれず、涙が落ちた。

 一つ、また一つと静かに零れていく。

 止めようとしても、止まらない。

 アイリスは顔を伏せ、ネックレスと栞を強く握りしめた。

 声にならない息が、何度もこぼれる。

 ルーファスは何も言わなかった。

 ただその場に立ち、少しだけ時間を置く。

「……分かっただろ」

 短く、それだけを言う。

 だがその声は、ほんのわずかにやわらかかった。


 しばらくして、アイリスの呼吸が少しずつ落ち着いてきた。

 涙は止まってはいないが、さっきのような激しさはない。

 ルーファスはその様子を見てから、手にしていた手紙へ一度視線を落とす。

 この内容は、すぐに報告すべきだ。

 そして、顔を上げた。

「……レオンさんは、今どこにいる」

 短く問う。

 アイリスは少しだけ驚いたように瞬く。

「今日はまだ会ってない」

 小さく答える。

「……そうか」

 短く返す。


 そのまま黙りかけて、ふと視線をアイリスへ向ける。

「前から気になってた」

 低く言う。

「レオンさんとは、いつからの知り合いだ」

 アイリスは一瞬だけ目を瞬かせた。

「え?」

「王都に来る前から、知ってるようだった」

「どこで会った」

 少しだけ間があく。

 やがてアイリスは口を開いた。

「……花屋だよ」

 その言葉に、ルーファスの眉がわずかに動く。

「村の店に、よく来てくれてたの」

 思い出すように続ける。

「珍しい花を探してるって言って、特に東の花をよく見てた」

 胸の奥が、わずかにざわつく。

「……買っていったのか」

「うん」

 アイリスはうなずく。

「種とかも、何度か」

 少しだけ迷ってから、続ける。

「家の庭を花でいっぱいにするって言ってた」


 ルーファスの思考が、静かに止まる。

 レオンが、大きな商会を持つ商人の息子であったことを思い出す。


「……いつ頃の話だ」

「三年くらい前」

 アイリスは答える。

「王都に来る前」


 ルーファスは何も言わなかった。

 思考が、深く沈んでいく。

 改良された花。

 流通。

 香油、匂い袋、ポプリ。

 そして——三年前から花に触れていた人間。


 ——あり得る。

 その結論だけが、静かに浮かび上がる。

 だが。

 すぐに、否定する。

 違う。

 そんなはずがない。

 あの人が。

 そんなことをするはずがない。

 ルーファスはゆっくりと息を吐く。

 思考を押し戻すように。

「……そうか」

 それだけを言った。

 だが、その声はわずかに揺れていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ