届かない答え
記録を閉じると同時に、ルーファスは立ち上がった。
そのまま、レオンのもとへ向かう。
「報告があります」
声は落ち着いているが、わずかに速い。
「花と香油で症状が悪化します。接触部位から広がる傾向があります」
一瞬だけ間を置く。
「王妃の周囲にある装飾や香りのものは、撤去すべきです」
レオンは頷いた。
「王に進言しよう」
その一言で、ルーファスは小さく息を吐く。
その日のうちに、王妃の居室は調べられた。
花はない。
香油も、見つからない。
——該当するものは、何一つ。
報告は、それだけだった。
ルーファスの足がわずかに止まる。
「……おかしい」
低く呟く。
仮説は、間違っていないはずだった。
だが、一致しない。
そのまま研究室へ戻る。
扉を開けると、アイリスがいた。
何も言わず、静かに座っている。
視線は落ちたまま。
その手は、わずかに強く握られていた。
「……私のせいで」
小さな声だった。
「私の、母の花で……」
指先に力が入り、白くなる。
それ以上は続かなかった。
ルーファスは、何も言わない。
言えなかった。
何をいっても、彼女を軽くする言葉にはならない。
採血の準備をしながら、ルーファスはわずかに手を止めていた。
視線は器具に落ちているが、意識は別のところにある。
昼間の検証の光景が、頭に残っていた。
花のこと。原因。そして——アイリスの表情。
あのとき、ほんの一瞬だけ沈んだ目。
言葉にしなかった何か。
それが、妙に引っかかっていた。
必要なことではない。
研究には関係ない。
そう分かっているのに、消えない。
ルーファスは小さく息を吐く。
そして、不意に口を開いた。
「……好きな食べ物は」
アイリスは目を瞬かせる。
「……え?」
「食事内容の確認だ」
わずかに言葉が遅れる。
「……川魚のパイ」
その言葉を口にした瞬間、アイリスの胸の奥がわずかに揺れた。
懐かしい匂いが、ふと蘇る。
温かい台所の空気と、焼き上がる生地の香り。
ミーシャの家の台所。
窓から差し込む光。
粉だらけの手。
笑い声。
「こうやってね、包むの」
ミーシャの母が手本を見せる。
器用な指で、パイ生地に模様をつけていく。
小さな魚の形。
きれいに並んでいくそれを、二人で見て笑った。
「やってみなよ」
ミーシャに背中を押される。
同じようにやろうとして、うまくいかない。
生地が歪み、模様が崩れる。
「……変になった」
思わず言うと、ミーシャが吹き出した。
「いいじゃん、それも可愛いよ」
後日、ひとりでこっそり作った。
サイラスの誕生日のために。
同じようにやろうとして、やっぱりうまくいかない。
少し焦げて、見せられるものじゃないと思った。
渡せない——そう思っていたのに。
ミーシャが勝手に話していた。
気づいたときには、サイラスが来ていた。
「ちょっと、待って——」
止めるより早く、彼はそれを手に取る。
そして、何のためらいもなく口にした。
「美味しいよ」
笑って、そう言った。
その顔が、今も残っている。
「……それが、好き」
思い出を噛み締めるように、アイリスが小さく言う。
ルーファスは眉をひそめる。
「魚とパイ?合わないだろ」
さらに嫌そうな顔で続ける。
「生臭そうだ」
「合うよ」
思ったより強い声が出る。
「絶対に」
「……信じられない。味覚おかしいんじゃないか」
「そんなことない」
少しだけ感情が乗る。
そのまま会話は途切れた。
夜。
扉がノックされる。
開くと、そこに立っていたのはルーファスだった。
手には盆がある。
皿の上にあったのは、川魚のパイ。
「……たまたま材料があった」
視線を逸らしたまま言う。
「近い地方の料理人がいたから」
それだけだった。
「……ありがとう」
アイリスは笑う。
「さっきは、ごめんなさい」
「一口だけ、食べてみて」
ルーファスは露骨に嫌そうな顔をする。
それでも渋々フォークを取る。
一口。
咀嚼する。
ほんのわずかに、眉が動く。
「……思ったより悪くない」
それだけ言うと、すぐに背を向けた。
扉の外に出る。
足がわずかに止まる。
何かを言いかけて、やめたように。
だがすぐに、歩き出した。
アイリスは少しだけ笑う。
パイを口に運ぶ。
懐かしい味だった。
胸の奥の重さは消えない。
それでも、ほんの少しだけ和らいでいた。




