消えるもの
レオンは自室の扉を閉めると、静かに鍵をかけた。
外の音が遠ざかる。
机の上には、いくつもの記録が広げられていた。
ルーファスの報告。症例の一覧。
そして——アイリスの検体。
髪、血液、皮膚片。
小さなガラス容器の中に収められている。
レオンは椅子に腰を下ろした。
指先で紙をめくる。
視線は速く、必要な情報だけを拾い上げていく。
「……発症はしている」
低く呟く。
「だが、死なない」
その一点だけが、明確に異質だった。
思考が、過去へと遡る。
花屋の奥に並べられていた、見慣れない花。
白く、小さく、蔓を伸ばすもの。
この国のものではない形と香り、そして構造。
だから、種を買った。
何度も、繰り返し。
「……あれが、原型」
机の上の紙に指を置く。
異国の血。花屋という職業。
そして——長期接触。
ぽつりと、言葉が落ちる。
幼少期からの接触。
低濃度での継続的な曝露。
「……適応したのか」
完全な耐性ではない。
だが、致死に至らない形で乗り越えている。
レオンの視線が、ゆっくりと容器へ向く。
「……皮肉だな」
小さく呟く。
この国に拒まれた血が、この国の病を越えている。
ほんの一瞬だけ、沈黙が落ちた。
思い出す。
母のことを。
閉ざされた扉。向けられた視線。
押し付けられた言葉。
——“異物”。
その一言で、すべてが終わった。
レオンは目を伏せる。
次に顔を上げたとき、その表情にはもう何も残っていなかった。
レオンは立ち上がる。
器具を整え、ガラス器具に液体を移す。
混ぜ、温度を調整する。
その手は迷いなく動いていた。
「男性への適用は……問題ない」
別の記録に目を落とす。
反応は弱いが、確実に出ている。
「時間の問題だ」
静かな確信。
次にアイリスの血液を、別の液体へ落とす。
反応を観察する。
わずかな変化。
だが、確かに異なる。
「……ここだ」
低く呟く。
この違いを取り出し、再現し、制御する。
それができれば——
自分は生き残る。
そして、この国は壊れる。
レオンの口元が、わずかに歪む。
それは笑みにも見えたが、温度はなかった。
机の上には、二つの研究が並んでいる。病を広げるものと、それを越えるためのものだ
どちらも同じ手で進められていた。
レオンは手を止めない。
ただ淡々と研究を続けていた。
数刻後。
レオンは研究棟の一角にある事務室へ足を運んだ。
扉を開けると、紙の擦れる音と控えめな話し声が止まる。
「……レオン様」
書記官がすぐに立ち上がり、軽く会釈した。
「届いた書簡を確認したい」
穏やかな声だった。
命令ではないが、拒否できる響きでもない。
「は、はい。こちらに」
机の上に積まれた封書が差し出される。
王都内からの報告。各地の症例。物資の記録。
レオンは一つずつ手に取り、目を通していく。
視線は速いが、粗雑さはない。
必要なものだけを正確に拾い上げていく。
その中で、ひとつだけ手が止まった。
粗い紙質。簡素な封。
王都のものではない。
封蝋に刻まれた印は見慣れない。
だが、差出に書かれた村の名には見覚えがあった。
レオンは何も言わずに封を切る。
中の紙に目を走らせる。
花。匂い。違和感。改良されたもの。
内容は短い。
だが、それで十分だった。
レオンの目が、わずかに細められる。
「……気づいたか」
ほとんど音にならない声で呟く。
紙を折り直す。
何事もなかったかのように、他の書簡と同じように扱う。
そして、自然な動作で分類する。
残すもの。回すもの。
そして——止めるもの。
迷いはなかった。
「これは、こちらで処理する」
静かに告げる。
書記官は一瞬だけ戸惑ったが、すぐに頷いた。
「承知しました」
それ以上は何も問わない。
問える立場ではなかった。
レオンは紙を手にしたまま事務室を出る。
廊下は静まり返っていた。
しばらく歩き、人の気配が途切れた場所で足を止める。
紙を開き、もう一度内容を確かめる。
「……遅い」
短く呟く。
今さら止められる段階ではない。
だが、知られる必要もない。
レオンは紙を折り、近くの燭台の火へとかざした。
端からゆっくりと燃え始める。
文字が歪み、やがて消えていく。
灰が静かに落ちた。
最後まで燃え尽きるのを見届けてから、手を離す。
そこには、何も残らなかった。
まるで最初から存在しなかったかのように。
「……彼にも消えてもらいましょう」
レオンは背を向ける。
その表情は、いつもと変わらない。
穏やかで、理知的なままだった。




