2. 朝は、待ってくれません
朝四時の仕事へ出る刻限になっても、奥の間の戸は開かない。わたしは緩んだ栗色の編み髪を巻き直し、冷たい戸板を叩く。
「ハトヴィヒ様。お迎えの支度ができています!」
「分かってますよ。あたしは王都の使用人の間で四十年働いてきたんですから」
なんとも頼もしい返事である。戸を開けると、六十一歳の古株は、枕へ向かって腕を振っている。
「家令さん、皆を起こしてくださいよ」
「その家令様は、屋敷でお待ちです!」
返ってきたのは寝息だ。わたしは店の椅子へ外套を掛け、水を汲みに行く。井戸の水が指の芯までしみる。手桶を提げて戻るころには、戸口の向こうが白み始めていた。
「ハトヴィヒ様。お水ですよ」
「……その琥珀の目で見られちゃ、寝ていられませんよ」
枕から顔を上げた古株が、片目だけを開けて言う。もう片目は、まだ朝を認めていない。
ようやく本人を連れて店を出るころには、日が高い。家令に門を開けてもらい、玄関へ入ると、ベルトラムはまだ朝の上着も着られずにいる。
「人は来た。さっさと朝の支度を進めろ」
「お迎えが遅れております。本日ぶんは、お代を頂いたまま空いているお日にちへ振り替えられます。今日お使いになるなら、お代は一日ぶんのままで、遅れた分は引けません」
「引かんのか?」
「引きません。お売りしたのは一日で、朝の長さではございませんので。空いた日へ回されるなら、その一日はそっくり残ります」
「……今さら要らん。連れて来たのだろう。今日使う」
ベルトラムの手が、着られないままの上着の襟で止まる。わたしはその襟へ伸びかけた指を、外套の内に収める。
尖った顎の先では、朝食の盆を持つ者と着替えを運ぶ者が、互いに道を譲れずにいる。男爵令嬢が顎までの巻き毛を揺らし、家令を呼び止めた。
「だって、座っているだけでしょう?」
彼女の前にあるのは茶だけだ。菫色の目は家令を通り越し、その後ろの廊下を見ている。台所には、配る先の決まらない盆が残る。使用人は自分たちの食事を済ませ、持ち場を待っているのだ。湯気の消えた料理の匂いが、廊下まで重くこもっている。
「私めが旦那様へ順を伺う間に、皆が次の返事を待つのでございます。以前は奥様が、その間をつないでおいででした」
「今日は女中頭様と、この方で順を決めてください。ご予約の担当はこちらです」
女中頭へハトヴィヒを引き合わせ、わたしはいったん店へ戻る。背中で食器の触れる音がする。わたしの手に、代わりに持った盆はない。
昼の鐘が鳴るころ、跳ねた白髪の下で涙を拭きつつ、担当が帰ってくる。泣く前に大きな欠伸が出るのを、わたしは見逃さなかった。
「無理です」
ハトヴィヒは椅子を引き寄せ、どんと腰を下ろす。床板が短く鳴る。
「ちゃんと起きたんですから、遅刻みたいに書かないでくださいよ!」
「起きたのは、いつでしょうか?」
「ほら、鐘ですよ、起きてるから聞こえるでしょうよ!」
「お約束は朝四時です。昼の鐘は、朝が終わった知らせです」
彼女は窓へ顔を向ける。鐘の音が消えてからも、その方角をじっと睨んでいる。
「寝たまま働く気はなかったのに、仕事まで怠けた扱いは心外です!」
「日給銀貨三枚は払います。その代わり、止まっている仕事を聞かせてください」
「あたしを起こす者まで、あたしだったんですよ! 四十年、人様の朝を開けてきて、自分の朝だけ閉まってるんです!」
茶を置くわたしの手へ目を落とし、彼女は口を尖らせる。その指には、朝の井戸水の冷たさがまだ残っている気がした。
「ふふっ、店でも同じく、枕へご指示を出していましたよ」
「あっはっは! 道理で家令さん、返事をしなかったわけですよ!」
「では明日は、水をもう一杯お持ちします」
「二杯でも三杯でもどうぞ、次はあたしが鐘より先に鳴りますからね!」
わたしは笑って帳面を閉じ、約束の日給を払う。銀貨が彼女の掌で触れ合い、澄んだ音を立てる。彼女は涙の跡を拭くと、今度は手袋を広げて乾かし始めた。
そこへ家令が来る。八の字の眉の下には、朝と同じ疲れた顔。茶色の目の縁が、夜通し起きていたかのように赤い。
「奥様……いえ、ドーラン殿。旦那様からの言い付けでございます」
呼ばれ慣れた言葉に、指が帳面の縁で止まる。言い直した彼が背を伸ばすのを見て、わたしも指を離した。
「旦那様が、もう一日と仰せです」
「初便の今日も既約に含みます。四日目を足して通算三日。追加は銀貨五枚です」
「明日の枠は残したまま、その先を押さえてください。旦那様も、朝だけでは済まぬと」
わたしは請求書に追加する日を記す。ペン先が紙をこする音が、店の中に細く響く。
帰ってくるたびに、請求書が一枚増える。
家令が屋敷へ戻ると、昨日の検め役が帳場へ来る。角張った輪郭をこちらへ向け、今度は名を告げた。
「ヨーアヒムです。三十六歳になっても、未完成の仕事へ日給を払う帳面は珍しく見える」
「未完成どころか、帰ってきたことまで書かれましたよ!」
ハトヴィヒが横から指を伸ばす。わたしはその指の先も隠さず、帳面を彼の側へ向ける。
「その隣の日給銀貨三枚も消えていない。支出と手元の金が一致する」
「失敗の行だけ消すと、明日も同じ方を出してしまいますから」
彼の指が、帰参の記録から支払いの欄まで進む。帳面をわたしの手元へ戻すと、彼は脇へ寄り、出発するための場所を空けてくれた。
午後、請求書を持ち、家令の開ける門を通って玄関へ戻る。台所では、まだ同じ盆へ使用人の手が集まっている。誰も手を引けないまま、茶が冷めていく。
「その盆は旦那様のお茶です。着替えの方は上着を先に。令嬢様の分は、こちらから運んでください」
わたしは一刻だけ、台所の盆を組み替える。湯を足した鍋が鳴り、冷えた廊下へ湯気が流れ出す。伸びる手へそれぞれの盆を渡し、向く先を変えると、ぶつかりかけた肩が離れていく。十二年、毎朝ここに立っていた。頭より先に、手のほうが順を覚えている。もう自分の家ではないのに、盆の重さまで手になじむ。
「こっちへ行ける! もう返事を待たなくていいんですね?」
使用人が笑って踏み出す。空いた台へ女中頭も盆を寄せ、次に渡す相手へ顔を上げた。
「先に動かす者が分かりました!」
「次の盆からは女中頭様が決めてください。分かった順に次の方へお伝えになれば、わたしの顔を見る必要はありません」
女中頭の声が廊下へ通る。あちこちから返事が上がり、使用人四十人の持ち場がつながっていく。盆も着替えも、それぞれの行先へ動き出す。
「家令、茶を先に――」
ベルトラムが命じる先には、もう誰もいない。茶を届けた使用人は、上着を受け取ろうと彼の後ろへ回っている。
「旦那様、お茶はこちらでございます」
家令の指す先には、湯気の立つ茶がある。元夫はそれを見て、浮かせた手をゆっくり下ろした。
玄関で請求書を広げると、家令が財布を開く。わたしは紙の端を押さえ、彼に読める向きへ整える。
「お代は日割りで頂戴します」
彼の目が、追加する日の行で止まる。
「四日目の銀貨五枚を頂きます。既払の銀貨十と合わせ、累計は銀貨十五です」
請求書を家令へ渡し、代金を受け取る。盆の熱が残る掌に、銀貨はひやりと冷たい。元夫の前で追加分を払い終えた彼は、ようやく顔を上げた。
連絡に来たハトヴィヒが、女中頭との話を終えて門へ出る。玄関の返事を待つ使いにも声を掛け、その返答を聞くと、わたしへ向き直る。
「明日のお客様は、公爵夫人ですよ」




