1. その“誰にでも”を、お貸しします
「妻の仕事など、誰にでもできる」
わたしはエルズベート・ドーラン、三十三歳。十二年、朝四時に起き、使用人四十人と、台所と、来客の席次と、冬の薪を一人で回してきた女だ。
子はいない。離縁には同意し、持参金と実家の道具と自分の控えを持って出る。店にする建物は、実家から受け継いだものだ。
ベルトラム・ハイムラート子爵が、離縁状の書添えから顔を上げる。家令の差し出す返還金と書面を受け、わたしも頷く。
「承知しました。では、その“誰にでも”をお貸しします」
「……何の話だ」
「日割りで。お代は前金で頂戴します」
引き留めかけた口を見届け、ニコッと笑うと道具と控えを運び出した。
昼、馴染みの老女中に声を掛けると、他所の口の合間に出られる三人を空き店舗へ連れてきてくれた。
「空いた日に日給銀貨三枚で、こちらで働いて頂けますか?」
三人は顔を見合わせ、それぞれ頷く。老女中は菓子を置くなり、札にする板をわたしの前へ寄せる。
「まだ働けますから、あたしの分も書きなさいよ!」
本人の頷きも確かめ、四人の名を書く。売るのは奥向きの人と時間だ。
看板には『奥向きの人貸し。日割り・前金』と書いた。
表へ掛けると、通りの人が足を止める。わたしは帳場へ貸出札を掛け、その傾きを直した。
日割りで計算し、前金で頂く。人の時間を貸す商いなので、できなかった日も代金は返らない。
◇
街で看板を出した翌日、最初の客は元夫の家令だった。
「奥様……いえ、ドーラン殿。三日でいい、誰か寄越してくれ」
ヴィトゲンの差し出した手が、呼び名を改めるのに合わせて上を向く。
「お代は日割りで頂戴します」
わたしは請求書の下書きにペンを走らせる。
「今日の朝の支度から、と仰るのでしょうか?」
「今日からです! せめて、そちらの方だけでもすぐにお願いできませんか?」
家令が、菓子へ伸びる老女中の手を指す。
「本日の派遣は三人。お代は前金で頂戴します」
老女中は自分の鼻を指し、慌てて空いた手で菓子を隠す。
「出た三人は、看板を出す前にこちらの方が取り次いだ口です。朝四時を過ぎた今日の朝は売れませんし、三人とも明朝は先約があるため、出せるのはこちらの方だけです」
「……それでも、朝を動かす者が要るのでございます!」
「でしたら、今日は下見と引継ぎにして、明日と明後日の二日ぶんを押さえます」
前屈みの背がさらに低くなり、八の字の眉まで近づいてくる。
「三日欲しいのに……まずはその二日を、定価はいくらでございますか?」
「その“誰にでも”は、一日銀貨五枚でございます」
栗色の編み髪を留め直し、日付を記す。十二年、同じ形で同じ帳面に日付を書いてきた指は、紙が変わっても迷わない。この手が覚えたものまで、あの家に置いてくる必要はない。
「二日ぶんで銀貨十、半日は午前か午後で銀貨二枚半。一日ぶんは日暮れまでで、朝四時はお迎えに参る刻限です。今日の下見は頂かず、お売りするのは一日の長さでございます」
「その二日で、朝は元へ戻りますか?」
「朝そのものは戻せませんが、動く順なら、人に付いて参ります」
「屋敷で払いますから、どうか、入口だけでも開けてください!」
店から徒歩十五分。冬の風に耳を刺されながら歩き、家令に門を開けてもらって、老女中と玄関へ入る。十二年、毎朝この扉を内側から開けていた。外套と届いた荷が椅子を埋め、使用人が返事を待っている。つい声を掛けそうになり、冷えた唇を結ぶ。
「私の外套を出せ」
ベルトラムは長身を反らし、尖った顎で椅子を示す。深い青の目は、そこを埋める荷を見ない。使用人が荷を持ち上げるたび、別の外套が床へ滑る。後妻候補の男爵令嬢は、顎までの巻き毛を払い、菫色の目で元夫を見上げる。
「だって、座っているだけって言ったでしょう?」
「そうだ、お前は座っていればよい」
空いた椅子は見当たらない。令嬢の指が腰掛けの縁で止まり、外套の裾をつまんでは離す。
「明朝はこちらの方ですが、受入れは家令様、台所への指示は女中頭様からでよいでしょうか?」
「はい、ただ、その前に皆を起こして頂かねば」
「四十年、人様の朝を開けてきましたからね、起こすのは得意ですよ!」
「どうか、うちの朝も開けてくださいまし!」
老女中が作業順を聞く間、わたしは外套の持主を確かめる。今日の差配まで引き受ける話ではない。
昼前、店へ戻ると、先に帰った老女中が奥の間で茶を待っている。椅子へ深く腰を掛け、わたしを見るなり口を開く。
「無理です」
老女中は茶の場所だけ、さっと空ける。
「あたしまで起こし役だなんて、明朝も済んだことにしてくださいよ」
跳ねた白髪を撫でつける手へ、持参金から下見の半日給、銀貨一枚半を払う。茶の器より先に、銀貨が卓へ軽い音を立てる。
「これは今日の準備のお代で、明日のご担当はまだ残っています」
「おほぉ! 菓子を選ぶより早く、仕事が戻ってきますねえ!」
「ええ、ただし、明朝は四時にお迎えが参ります」
「四時! 鶏より早いじゃありませんか!」
湯気の立つ茶を押しやる。老女中は器へ手を出さず、指を折って何かを数え始める。
「鶏より早い方に、日給銀貨三枚をお払いします」
「えっ!? 銀貨三枚なら、あたし、寝てても起きますよ!」
「朝を動かすのは、ちゃんと起きている方のお手です」
老女中は胸を張る。跳ねた白髪の下で、苔緑の目が菓子の皿と札を忙しく往復した。
そこへ男が一人入ってくる。戸口で背の高い痩せた体を屈め、角張った輪郭を看板へ向けてから、商人組合の帳簿検め役だと名乗り、帳面を求める手を差し出す。わたしが渡すと、彼は予約の頁を開く。黒い目が、行の端から端へ一度に走る。
「短い口をつなぐ商いは約束ばかりが増えますが、この行にある子爵家の銀貨十は、もう売上に入れたのですか?」
「まだ頂いていませんので、受取待ちです」
空欄の入金日を辿ったきり、言葉がない。帳場に置いた自分の指が、紙の端を押さえすぎている。
老女中だけが菓子を背へ隠す。彼はそちらへ目を向けず、帳面も取り上げずに出ていった。戸が閉まると、茶の匂いがふっと戻る。
「叱られるなら、食べる前に言ってほしいですよ」
「ふふっ、そこは検められませんわ」
わたしは帳面を閉じ、請求書を仕上げる。空いた入金日の欄を、今日のうちに埋めよう。
午後、家令の開けた門から玄関へ戻り、一刻だけ外套と荷を分ける。冷えた風の中、重なる羊毛から湿った匂いが立つ。外套は持主ごとに掛け、届け物は行先を聞いて、自分で運ぶ。腕に重さが戻ると、指の節が勝手に順を数え始めた。体はまだ、この家の支度を覚えている。だからこそ、手を止める場所はわたしが決める。元夫の指す椅子から、ようやく彼の外套が現れる。
「おお、入口が通れます!」
「続きは家令様から、掛ける場所を決めて皆にお伝えください」
「お前がやれば早い」
元夫の目が、掛け直したばかりの外套の列を一度だけ辿る。十二年、その列を作っていた者の名は出てこない。冷えた指先を擦り合わせてから、顔を上げる。
「見本はここまでですので、明日からは、お借りになる方へご指示を」
「金を出すのはこちらだ――やり方まで指図されるいわれはない!」
「指図ではございません――お代に含まれるのは、そこまでですわ」
「……相変わらず、口の減らん女だ」
「減ってまいりますのは、わたしの口ではなく、お宅様の前金のほうです」
元夫が口を結ぶ前に、家令へ請求書を渡す。
「ご予約は明日と明後日で銀貨十、下見のお代は含んでいません」
家の財布から出された代金を受ける。冷えた銀貨が掌に重い。家令は、わたしへ深く頭を下げた。
「ドーラン殿、明朝をお願いいたします」
「……ドーラン、と。その名で呼んで頂くのは、十二年ぶりでございます」
入口を確かめに来た老女中が、手袋で大きな欠伸を隠す。家令の口の端が上がったまま止まり、その目が彼女とわたしを行き来する。わたしは銀貨を握り直す。
「明日は朝四時から。一日ぶん、きっちりお貸しします」




