この足音は誰?
一面が綺麗な朝焼けに染めあげられている窓の外。
途切れ途切れに流れてくる雲は、気まぐれに形を変えながら同じ方角へと向かっている。
早起きしてこんなに綺麗な景色に出会うことが出来ていたら、さぞ幸せだっただろう。
でも今は、とてもじゃないがこの景色の魅力を存分には堪能出来ないな。
「あぁ……。結局気になって眠れなかった」
部屋の窓を開け、窓枠に頬杖をつっかえてあくびを一つ。
近くの木々では鳥が朝を伝え、可愛い声で鳴いている。
「アストピアの鳥と同じような鳥がいるんだなぁ」
アルデラントに連れてこられた時も思っていたが、案外ここはアストピアに近い環境なのかもしれない。
ひょっとしたら、あの鳥はアストピアとアルデラントを自由に行き来しているのかもしれない。
「どうやったらアストピアに帰れるんだろう。大変なんだろうなぁ」
他人事の様な独り言。自分でも驚くくらい危機感が無かった。
込み上げた吞気なあくびを噛み殺すと、ふと昨日の言葉が蘇る。
『二十八番研究棟。屋上。アップルジュース。以上だ』
博士が残していった謎の言葉だ。
これがまたなかなか頭から離れない。……なんなんだよ、あれ。
「はぁ~。意味が分からん」
寝付けずに朝を迎えた原因の一つがこれだ。要するにそこに行けって事だろうか。
……じゃあアップルジュースはなんだ? 持っていけばいいのか?
ゆっくりと顔を出した太陽に視界を細める。アルデラントで迎えた何度目か朝。
こんなに堪能した朝は初めてかもしれないなぁ。眠い事以外は嬉しい限りだった。
◇◇◆◆◇◆◆◇◇◇◆◆
辺りもすっかり明るくなった頃、思い立って所内を散歩してみることにした。
考えてみれば、この研究所に連れて来られてからというもの、実験室とトイレ以外の場所へは行ったことがない。
……いや、さすがに迷子にはならないだろう。できれば謎のアップルジュースも売店か何処かで調達しておきたいし。
どこか冒険に向かうような心持ちで部屋を出る。まだ薄暗い静かすぎる廊下。
いつかと同じように、自分の足音だけが響いている。
――確か、あの時もこんな感じだった。
意識すると、血塗れの少女の顔が浮かんできて、所在の分からない恐怖心に体を重く押さえ付けられた。
「あの子、大丈夫だったのかな」
あの一件以来、彼女のことが頭から離れない。むしろこっちの方が睡眠不足の原因だ。
だいたいにして、初対面の印象が強烈すぎるんだよなぁ。
博士はあの子の事を、アルデラントが戦争の為に準備している兵器を造る協力者のように言っていたけど、どう考えても自ら協力しているようには思えない。
「今もこの研究所のどこかで、あんなに怯えた顔してるのかな……」
膨らむ思考に合わせて気分が暗く沈んでいく。
一歩一歩が重く、湖の深みへ歩いていくようだった。
「……はぁ」
いや、気掛かりではあるけど、今の僕にできる事なんてないだろう。
というか、他でもない僕自身が助けを待っている身という始末。
助けたいなんて言ったら、自分の心配をしろって言われてしまいそうだ。
ああ~。もう良く分からないや。
とりあえず今日一日あの博士の小言を聞かなくて済むことだし、今は心からリフレッシュしなければやってられないな。
考え事から我に帰ると、あの少女とぶつかった廊下の曲がり角が見えて来た。
すると、記憶をなぞるように、耳に入る足音がもう一つ重なった。
「……いや、まさかね」
とは言いつつ、再会するかもしれないという一握りの可能性を手放しきれない。
聞こえる足音は少しずつ大きくなり、僕の心臓も走り出す。
どうやら自分でも気が付かないうちに、余程彼女のことを考えてしまっているらしい。
一歩、また一歩と近づく足音。
そしてついに、それが僕のすぐ後ろで止まった。
恐怖とも期待とも取れない謎の感情の濁流に呑み込まれ、次第に頭がごちゃ混ぜになっていく。
もし、あの子だったらどうしよう。
何て言葉をかければ……。とりあえずお見舞いの言葉か?
硬く締まった喉に無理矢理唾を押し流すと、ゴクリと大げさな音がなった。
ゆっくり、ゆっくりと振り返る。
そこには、彼女が……。
「ちょっとあんた。何ぼさっとしとるんだい! どいておくれ、掃除の邪魔だよ」
「あ、あぁ! ごめんなさいっ!」
……どうやら違ったらしい。まぁ確かに、こんなにたくましい体型ではなかったなぁ。
「あ? まだ何か?」
おっと、心の声が漏れてしまったか? ならばここは紳士的なフォローをして機嫌を……。
「いえいえ。お綺麗だなぁ~と、まさにこの廊下のような美しさ!」
「チッ……」
えぇ、舌打ちされたぁ……。なんでぇ? せっかく丁寧な仕事ぶりと一緒に容姿を褒めるという、考え得る限り最高の褒め言葉を選んだというのに。
床を丁寧に磨いているさっきのおば――もとい女性は、再び僕を一瞥して、派手に溜め息を吐き出した。
「……部屋に帰ろっと」
結局、昨夜からの寝不足も、柄にもない早朝の散歩も、再び彼女に会えるのを期待してのことだったが、どうやら僕にそんな運命は無かったらしい。
「はぁ、出会ったのは超不機嫌なおばさんだけだったなぁ」
結局僕は、何の変哲もない人間。誰にも知られないまま死んでいくんだろうなぁ。下手したら故郷の墓にさえ入れない可能性まである。……まぁ、それはあの博士次第ではあるが。
眠気と無駄な期待のせいか、気付けば、頭の中は後ろ向きな考えばかりになっていた。
◇◆◆◇◇◆◆◇
廊下おばさんとの出会いで気が済んだらしい僕の頭は、部屋に帰るなり睡眠欲求を訴え、いつの間にか夢の世界へ旅立っていたようだ。
意識を支配していたのは、見渡す限り一面が真っ白な世界。
自分の存在さえ不明確な世界に、耳を撫でる静かな声だけが響いていた。
『……だ、……まだ、……むいよ。まだ、眠いんだって』
誰の声だろう。
全く覚えのない、とても透き通る、ガラスのような声だ。
『……お願いだから、うるさく……しない……で』
次第に景色が色彩を取り戻し、ぼけた視界から見慣れた部屋へと帰された。
まるで、まばたきの途中だったかのように、ふわりと目が覚める。
夢の続きみたいな感覚が、まだ頭にまとわりついている。
また、この夢か……。最近、また見るようになったな……。
誰かに声をかけられていたような気がして部屋を見回すと、窓の向こうでは既に陽が傾き始めていた。
そっか、もう夕方か……。
……ん? 今何時だ?
いやいや、なにをバカな、夕方じゃないか。
ここでふと、博士の言葉を思い出す。
『“明日の夕方だからな?” 明日だけだからな? せいぜい楽しませてくれ、健闘を祈る』
そう、今がその夕方だった。
「……やばっ!? しまったぁ!!」




