第8話 同窓会【一 七日】
08
「やだぁー! まじで久しぶりーー!」
空港のロビーにその声が響いたのと、ピンク色の塊が視界に飛び込んできたのは同時だった。
勢いよく抱きついてきたさくらを、七日は両腕で必死に受け止める。だが、予想以上の衝撃に「ぐへ」とカエルの潰れたような声が漏れた。
「会いたかったよぉ、七日ぁ!」
「わ、私も……っ。ちょ、さくら、く、くるし…」
全体重を預けてくるさくらの体温と、甘い香水の匂いが鼻を突く。もがく七日の様子を見かねて、横から呆れたような声が差し込まれた。
「さくら、離してやれよ。七日、顔が真っ青だぞ」
「……なんですって? 誰が、デブだって」
「いや、一言も言ってないだろう」
さくらはようやく七日の体から離れると、言葉の主――律鬼を「ムッ」と効果音がつきそうな顔で睨みつけた。律鬼の方は慣れたもので、どこ吹く風といった様子でヒラヒラと手を振って笑っている。
賑やかな二人の後ろから、それまで影に隠れていた向葵がゆっくりと歩み出た。
「――おかえり、七日」
その穏やかな声を聞いて、七日はようやく自分が戻ってきたことを実感する。強張っていた肩の力がふっと抜け、自然と口角が上がった。
「ただいま。みんな」
東京都内、大通りから一本入った場所にある落ち着いたカフェ。
穏やかなクラシックが流れる店内で、一七日、新井さくら、堺向葵、李恩律鬼の四人は、積もる話に花を咲かせていた。
かつてバレエ学校の教室で、同じ汗を流した同期であり、良きライバルたちだ。
目の前に座るさくらは、ハーフアップにした髪がよく似合っている。可憐な雰囲気はそのままに、どこか凛とした風格が備わっていた。
向葵は相変わらずその美貌に磨きがかかり、以前よりもずっと大人びて見える。
律鬼は、……相変わらずな調子ではあるけれど、また少し背が伸びて、座っていても体格の良さが伝わってきた。
数年ぶりに顔を合わせたはずなのに、彼らと話していると、まるで時計の針が巻き戻ったような、タイムスリップしたような不思議な感覚に陥る。
「で、どうだった? 海の向こうでは元気にしてた?」
さくらが身を乗り出し、瞳を輝かせて聞いてくる。
彼女は昔から、誰もが憧れるお姫様の役が誰よりも似合った。
けれど、国内屈指のバレエ団でプリンシパルへと昇り詰めた今、その表現力は変幻自在だ。舞台のたびに全く違う顔を見せる彼女の進化には、驚かされてばかりいる。
……もっとも、私はそれを海の向こうから、画面越しに眺めることしかできなかったのだけれど。
バレエ学校を卒業後、私は一人、海を渡った。
在学中の留学プログラムには参加しなかった私にとって、それは大きな決断だった。ちなみに、さくらはその制度を利用して早くから海外の空気に触れていたらしい。
私は卒業を控えた時期に、片っ端から海外の入団試験を受けた。その中で唯一、私を拾ってくれたのがヨーロッパにある小さなバレエ団だったのだ。
そこで数年間、がむしゃらに踊り続けて実績を積み、現在のバレエ団へと移籍した。今は以前よりも規模の大きなその場所で、ようやく腰を据えて活動している。
役職は、ファースト・ソリスト。
主役も任される責任あるポジションを頂けたのは、本当にありがたいことだと思っている。
一方、さくらの歩みは、私とは対照的に波乱に満ちていた。
留学から帰国した後、彼女は一時的に体調を崩したのか、それとも何か思うところがあったのか、しばらく学校を休学していた時期がある。結局、私たちより一年遅れて卒業することになったのだが、その後の躍進は凄まじかった。
国内最高峰の「国立YOUTH JAPANバレエ団」に入団するや否や、目まぐるしいスピードで階段を駆け上がり、今やバレエ団の顔であるプリンシパルの一人として君臨している。
向葵もまた、同じ国立バレエ団の頂点に立つ一人だ。
彼はストレートで卒業してすぐに入団し、着実にキャリアを積み上げてきた。
巷の噂では、一度は海外のバレエ団にも挑戦しようとした……なんて囁かれているけれど、その真偽は本人の口から語られたことはない。
ただ、今の彼の揺るぎない実力を見れば、どんな道を通ってきたにせよ、そこにあるのは血の滲むような努力の結果なのだと納得させられる。
そして、律鬼。
彼との間には、苦い記憶がある。
卒業を控えたあの頃、律鬼は私に「パートナーになろう」と声をかけてくれたのだ。
けれど、私が海外のバレエ団へ行く決めたことを伝えると、彼は「じゃあいいや」とだけ、ひどく素っ気なく言って背を向けた。
彼はその後、向葵と同じ年に国立YOUTH JAPANバレエ団へと入団した。現在は私と同じファースト・ソリストの階級にいるが、彼の場合は少し事情が違う。
実力だけで言えば、とっくにプリンシパルになっていてもおかしくない男なのだ。ただ、彼は踊る傍らで振付家としても活動しており、あまりに多くの作品を世に送り出しすぎている。その多才さが、皮肉にもダンサーとしての昇進を停滞させているらしい。
さくら、向葵、そして律鬼。
海を越えて離れていた数年のうちに、私以外の三人は、名実ともに日本バレエ界を支える屋台骨となっていた。
眩しすぎる三人の姿を前に、七日は手元のカップに視線を落とした。少し苦めのコーヒーを一口飲み、その熱で胸のざわつきを誤魔化す。
「そこそこね。ちょうど今度、新作の上演が決まったところで。今は配役の発表待ちって感じかな。毎日、寝る前になると心臓の音がうるさくて」
七日がそう答えると、さくらが身を乗り出した。
「新作! どんな作品なの?」
感情を一切隠さず、興味津々に瞳を輝かせる。そんな素直な彼女と会話していると、昔に戻ったような心地よさに、七日の口元が自然と緩んだ。
「マシューの作品だってこと以外は、まだ何も知らされていないの。情報は完全にシャットアウトされてる」
お手上げだという風に七日が肩をすくめると、それまで黙って聞いていた律鬼が、眉を跳ねさせて割り込んできた。
「マシューって……あのマシュー・グラントか? まだ現役で振付なんてしてるのか?」
「うん。今もバリバリの現役」
「待てよ、あの人幾つだ。確か、もう七十を超えてただろ?」
「今年で七十五歳。それでも一週間に一度は、直接スタジオに顔を出しに来るよ」
「マジか、化け物だな」
律鬼が呆れたように、けれどどこか敬意の混じった溜息をつく。
「本人が現れるたびに、スタジオの空気が一気に張り詰めるから大変なんだけどね」
七日が冗談めかして笑うと、友人たちからも小さく笑みが漏れた。
ふと気がつくと、店内に流れていた穏やかなクラシックが、ドラマチックなチャイコフスキーの旋律へと切り替わっていた。
「そんな忙しい時期に呼び立てて。悪かったな」
律鬼が少しだけ申し訳なさそうな顔をして言った。けれど、七日は首を振ってカップを置く。
「全然。むしろ、嬉しいよ。さくらと同じ役で『ドン・キホーテ』を踊れるなんて……なんだか、あの頃に戻ったみたい」
七日の言葉に、隣に座るさくらが弾けるような笑みを浮かべた。笑うと深く刻まれる頬のえくぼは、学生時代から変わらない彼女のトレードマークだ。
そんな二人を前に、向かい側の律鬼は「こほん」とわざとらしい咳をひとつ吐き出し、向葵はそれを見て困ったような苦笑いを漏らした。
今回、七日が一時帰国を決めたのは、他でもないこの三人に誘われたからだった。
母校であるバレエ学校の附属バレエ団が、創立二十五周年を迎える。その節目を祝う記念公演として、大規模な『ドン・キホーテ』全幕ツアーが企画されたのだ。
北海道を皮切りに、東京、名古屋、大阪を巡る国内ツアー。そのハイライトとも言える東京公演のゲストダンサーとして、海外で活躍する七日に白羽の矢が立った。
数日間にわたる東京公演のうち、一日を七日が。そして別の日を、日本バレエ界の至宝となったさくらや、実力派の団員たちが日替わりで「キトリ」を演じる。
全日程から見れば、七日の出演はたった一日に過ぎない。
けれど、舞台を生きる者にとって、その一日は何ものにも代えがたい重みを持つ。
「向葵から連絡が来たときは、正直びっくりしたよ」
それは、厳しいレッスンを終えた後のことだった。
所属しているバレエ団がちょうど夏休みに入る直前で、私生活でも仕事面でも、溜まったタスクを整理しようと慌ただしく過ごしていた時期だ。
ふと手に取ったスマートフォンに届いていた一通のメール。それが、向葵からの熱烈な、けれど丁寧すぎる出演依頼だった。
七日がそう明かすと、さくらが「あー!」と声を上げ、不満げに唇を尖らせた。
「いや、本当はね、私が一番に連絡するはずだったんだよ? なのに向葵がフライングしたの。もう、格好つけちゃってさ。何が『一緒に、舞台で踊ってくれませんか?』よ!」
「ぶっ……!」
律鬼が飲んでいたレモネードを盛大に吹き出した。
隣に座る向葵はといえば、大きく目を見開いたまま石のように固まっている。
「な、……なんで、知ってんだよ。メールの中身……」
耳まで真っ赤にした向葵が、消え入るような声で絞り出した。どうやら、親友にすら秘めておきたかった「渾身の一通」だったらしい。
「なんでって、あまりに驚いた七日から連絡があったからに決まってるじゃん。『向葵からすごいメールが来たんだけど、どうしよう!』って相談されたんだから」
「七日ぁ……」
向葵はこの上なく力の抜けた声で、恨めしそうに七日の名を呼んだ。笑いを堪えきれずに震えている律鬼は、テーブルにこぼしたレモネードを慌てて拭いている。
「いや、だって。本当にびっくりしたんだよ? 日本で踊るのはすっごく久しぶりだし、私でいいのかなって……。簡単には返事できないな、って考えちゃって」
実際、七日が海を渡ってから、日本の舞台に立つ機会は一度もなかった。最後に国内で拍手を浴びたのは、バレエ学校の後期二年生の時が最後だ。プロとして日本で踊ることの重圧が、彼女に「相談」というワンクッションを置かせたのだった。
続いて、勢いに乗ったさくらの矛先は、ニヤニヤと笑っている律鬼へと向けられる。
積もる話は山ほどあったが、いつの間にか四人の会話は、プロとしての肩書きを脱ぎ捨て、あの頃のように青臭い学生時代の空気へと戻っていた。
「律鬼も薄情よね。あんなに熱烈にパートナー宣言しておきながら、七日が海外に行くと知った途端、あっけなく手放しちゃうんだもん。そんなことしてたら、一生七日は帰ってきませんよーだ」
「しょうがないだろ。俺は最初から海外で活動するなんて人生プランになかったし。俺は、日本で、この国のバレエに貢献したいんだよ」
「その割には、私にはいまだに一つも作品を作ってくれないじゃない」
さくらがジト目で追い詰めると、律鬼は視線を逸らして口を噤んだ。
二人が口論を始める気配を察したのか、向葵は「また始まったか」と言わんばかりに肩をすくめてみせる。この二人の折り合いの悪さは、学生時代からのお約束のようなものだ。
学生の頃、律鬼は何度も七日のために振付をしていた。
けれど、彼女が海を渡った後は、目に見えて創作活動のペースを落としていた。入団したての多忙さもあっただろうが、環境のせいではないはずだ。所属するバレエ団の藤波芸術監督は、個人の創作に理解があり、決して自由を奪うような人ではない。
ただ、彼にとっての「踊り手」がいなかったのだ。
律鬼の中にある振付の基準点は、恐ろしく高く、そして繊細だ。彼が求める表現を具現化できるのは、彼にとって唯一無二のミューズだけだったのかもしれない。
「七日が日本に帰ってくるって言うなら、いくらでもつくるよ。……でも、そのつもりは、ないんだろ?」
軽口を叩いていたさっきまでの空気はどこへやら、律鬼の眼差しが鋭く七日を射抜く。
あまりに唐突に核心を突かれ、七日は返す言葉を失い、静かに唇を結んだ。
三人は、その答えを急かすことなく、じっと待った。
「……今のところは、まだ、ないかな」
「やっぱり、海外とは環境が違いすぎる?」
律鬼の静かな問いに、七日は「違うね」ときっぱり答えた。だが、すぐに視線を泳がせ、「でも、わかんない。近い将来、かわらないかも……」と、最後は言葉を濁した。
バレエという芸術。
そのものが持つ価値が、今や世界各国で揺らいでいるのは、否定しようのない事実だった。
配信サイトを開けばドラマや映画が溢れ、劇場では数えきれないほどのミュージカルや演劇が上演されている。ダンス文化そのものは、K-POPやジャズダンスの浸透によって、かつてないほど身近なものになった。
――なのに、どうしてバレエだけが、時代の流れに取り残されていくような感覚に陥るのか。
これほどまでにストイックで、美しく、魅力に溢れた芸術が、なぜこれほどまでに遠い存在になってしまったのか。
その問いは、常にバレエダンサーたちの胸の奥に澱のように溜まっている。
いや、バレエに人生を捧げている人間すべてが、口に出せないまま抱え続けている「祈り」に近い問いだと言っても過言ではなかった。
「でもまあ、一つは広報のやり方にも原因はあるとは思うけどね」
律鬼が投げ出すように言った。その言葉に、七日は心の底から同意する。
「同感。日本はどうしても保守的というか、高尚なイメージを守ろうとしすぎている気がする。もっと外に向かってオープンにしていってもいいはずなのに」
海外に目を向ければ、スターダンサーが有名俳優を凌駕するほどのフォロワー数を持ち、SNSで日常を発信するのは当たり前だ。中には、その生き様が映画化される者だっている。
バレエを「選ばれた人だけの芸術」から「大衆を熱狂させるエンターテインメント」へと昇華させるマーケティングの力。それが、日本と海外の決定的な差だった。
「あ、そういえばさ、三人のSNSもチェックしたよ。フォロワー欄に『ファンアカウント』みたいな人たちがいたでしょ? あれ、すごくいい傾向なんじゃない?」
七日が切り出すと、さくらが「そうなの!」と身を乗り出して、興奮気味に声を弾ませた。
「そこで日本の『推し活文化』が猛烈に牙を剥いてきたんだよ!」
「……牙を剥くって、表現が物騒だろ」
律鬼のツッコミをスルーして、さくらは続ける。
「実はね、その界隈でも有名なフォロワーさんがいて。アカウントを三つも使い分けてるんだけど、中身は同じ人みたいなの。私たちのバレエ団を、それはもう熱心に応援してくれてるんだから」
「へえ、三つも? それはすごいね」
七日は驚き、思わず感心した。熱狂的な個人ファンがSNSを通じて魅力を拡散していく。そんな現代的な応援の形が、この島国のバレエ界にも少しずつ、けれど確実に浸透し始めているようだった。
「そうなの。元々は記者をやっていた人らしくてね。最初はバレエに全く興味がなかったのに、今じゃすっかり虜なんですって。あ、そうだ。明後日、その人の取材を受けることになってるんだよ」
「取材?」
七日が微笑むと、律鬼は目に見えて嫌そうな顔をした。
「俺、ああいう場で喋るの、あんまり得意じゃないんだけどなぁ……」
「絶対、向葵の隣で『次の新作はいつですか?』って詰め寄られるよ」
「勘弁してくれよ。寿命が縮む……」
律鬼が深々と溜息をつき、三人が顔を見合わせて笑う。
穏やかなクラシックに包まれていた時間も、気づけばあっという間に過ぎ去り、店を出る時間が近づいていた。
「七日、今はどこに泊まってるの?」
この後、夕方からは稽古場へ移動してリハーサルが控えている。
だが、七日は一度荷物を整理するため、滞在先のホテルへ戻ることにした。
「劇場のすぐ近くにあるホテルだよ。バレエ団の運営の方が用意してくれてて」
「あ、じゃあ、いつでも遊びに行っていい?」
「え?」
さくらが無邪気に顔を覗き込んできた。
その後ろで、律鬼と向葵の二人はきょとんとした顔で二人を見守っている。
「あれやこれや、いろいろ聞かせてもらいますからね、お姉さん。今度は、女子二人っきりで!」
さくらの茶目っ気たっぷりな「尋問予告」に、七日は「ちょっと、さくら!」とたじろぎながらも、心地よい再会の余韻に浸っていた。
藤波芸術監督が、日本初となる国立バレエ学校を創設してから、二十五年。
長いようでいて、歴史の瞬きからすれば、時はあまりにもあっという間に流れていく。
この国に、確固たるバレエ文化と教育の土壌を根付かせること。そのためにまずは学校を設立し、種をまき、こうしてプロの舞台を支える人材を輩出してきた。
だが、それが真の意味で大輪の花を咲かせ、社会に広く浸透するまでには、まだしばらくの時間が必要なのだろう。
その頃には、自分たちはもう、舞台に立てないほどヨボヨボになっているかもしれない。
――それでも、と。
彼女たちは、彼らは、今日もまた自らの肉体を極限まで追い込み、踊り続ける。
この輝かしくも、残酷なバレエという迷宮。その底知れぬ魅力を。
一人でも多くの人に届け、誰かの人生を彩る大切なピースの一つとなれるように。
かつて同じ汗を流し、青い春を共に駆け抜けた若者たちは、プロとしての誇りを胸に、今日も光り輝く舞台の上で呼吸を合わせるのだ。
***【Dosokai ~fin~】
ご感想等お待ちしております☺︎




