第7話 李恩 律鬼
07
降ってきた――。これだ―――。
律鬼はいきなり立ち上がると、教師に振り向きもせずに部屋を飛び出した。
背後で先生の怒号が響くが、気にする暇はない。今しかない。
この閃きを、この迸る衝動を、今この瞬間に形にしなければならないのだ。
今しか、これを形にできない。
音楽がかかっている練習スタジオをいくつか横目に走りすぎ、ようやく音が聞こえなくなる静かな廊下に辿り着く。目的のスタジオの前で足を止め、荒くなった息を整えた。
ドアに手をかけて開けると、埃っぽい、乾いた匂いが鼻先をくすぐった。スタジオの電気をつけることも忘れ、律鬼は中央へ進み、踊り出した。
邪魔―――。
動きの邪魔になる厚手の上着を脱ぎ捨て、その辺に放り投げる。
頭の中には、すでに完璧な音楽が流れている。
その旋律とリズムに合わせて、律鬼の手足はまるで数式をなぞるように、迷いなく連なっていく。
情景が浮かび上がる。
寒さの中、暗闇の中。二人の人間が、ただ舞台に立つ。
「…っ」
突如、律鬼の動きが止まった。
その場に立ち尽くし、顎先から垂れてきた汗を拭う。
――これだ。これだ、――!
「律鬼ッ!」
突然、背後から激しくドアの開く音と、自分の名前を呼ぶ声に、律鬼はびくりと肩を震わせた。
振り返ると、そこには同じく汗をかき、顎先を拭う向葵の姿があった。
授業中だったにも関わらず、教室を出て行った律鬼を走って追いかけてきたのだろう。その顔は何とも言えない表情と浮かべている。
怒り? 諦め? それとも、――。
「俺の顔を分析するのはいいから、今すぐ教室に戻れ!」
向葵は乱暴にその辺に落ちていた律鬼の上着を掴むと、先にスタジオから出て行った。
「あっ!」
そして、ようやく律鬼は気が付く。
そうだった。
今、解剖学の授業中だったんだ、――と。
結局、律鬼は先生にこっぴどく怒られた。
授業中に無言で抜け出すのは何事ですか、と。
律鬼は素直に謝罪の言葉を口にした。すみませんでした、と。
その律鬼の正直さに、先生は驚き、それ以上叱ることはしなかった。律鬼に悪気があったわけではない。
この――国立バレエ学校の解剖学はとても興味深いし、踊りの向上にもつながる。怪我のリスクを減るし、自分の人体について学ぶことができる。律鬼も、この授業が好きだった。
しかし、抜け出した。
仕方がない。降ってきてしまったのだから。
頭の中に先生の授業の内容がするすると入ってきていた時、律鬼は鉛筆を左手にくるくる回していた。
ふと顔を上げて、窓の方を見る。温かな日差しが世界を照らしている中に、一本の光の筋が浮いていた。
――あっ。
光の筋を追っているうちに、それが降ってきた。
曲はあの有名な曲。冬を代表すると言っても良い、静謐な旋律。
――薄曇りの空気が、冬の朝のように澄み切っている。
一音目は、ためらいがちに置かれた足跡だ。冷たい地面に触れた指先が、息を吸う。鍵盤は少なく、言葉も少ない。ただ、同じ高さをゆっくり往復しながら、胸の奥にある記憶を叩く。
その旋律は、勝ち負けを語らない。語りと悔恨の境目で、まっすぐ前を見つめている。
――舞台に、人が現れる。ただそれだけ。
やがて、低い影が寄り添う。弦が遠くでうなり、鼓動のように一定の歩調を刻む。主旋律は凛として、しかし孤独だ。まるで、雪の上に一本だけ残る足跡の列。消えそうで、消えない。
――そいつは肩を優しく抱き抱える。指先がぎこちなく動く。
音は高く跳ねない。代わりに、同じ場所を何度も撫でる。撫でるたびに、傷があることを思い出させる。
中盤、微かな光が差す。和音が広がり、冷えた世界に薄い布をかける。救いではない、ただの理解。旋律は少しだけ上を向く。
――踊りがリンクして、でもやっぱり届かない世界との狭間。葛藤。ここで、テンポを上げる。
押さえ込んでいた感情が、スピードを増す。
それでも届かない。
飛び立てない。枷が外れることはない。
でも、諦めない。
最後に、最初の足跡へ戻る。円環のように。何かを終えたのではなく、受け入れただけと告げるように。音は減り、息は白く、余韻だけが残る。
「なあ、聞いてる? 人の話」
「あ、ごめん。なんだっけ?」
律鬼はハッとしたように、胡座をかいたまま向葵の方を見る。向葵はやれやれと言ったように、爽やかに流れる髪をふるふると揺らしながら首を横に振った。律鬼のいる方向まで、かすかに良い香りが届く気がした。
「WPPの抽選。結果出るの明日だよねって話」
「そうだね。そっか。もうそんな時期か」
「俺たちが盛大に喧嘩して、寮長に怒られてからもう三ヶ月も経つんだよ。早いよなぁ」
向葵はそう言って頭の後ろに腕を組み、何もない天井を見上げた。律鬼はベッドの上で静かに向葵を見つめる。
堺向葵と李恩律鬼は国立バレエ学校に入学して四年目、前期一年生になった頃からずっと同室だ。準備生の期間――三年間は、それなりに仲が良かったが、同室になってからさらには、その関係はさらに深まった。
もともと注目を浴びるタイプの向葵は友達が多かったが、どこか不思議な空気を纏う律鬼には、進んで寄ってくる友人は少なかった。
しかし、口を開いて話せば、律鬼は至って普通だ。
むしろ、愛嬌がある方で、廊下で友人とすれ違えば、一言二言しか言葉を交わしたことがない相手にでも、必ず笑顔で挨拶を返す。
律鬼の関心は、常に周囲の人間、そして世界に向けられていた。
「で、振り入れはいつから始まるんだ?」
今年のWPPはもう一ヶ月後に迫っている。
律鬼は胡座を組み直し、遠い宙を見つめた。その視線の先には、先ほどスタジオでつかんだばかりの振り付けが見えているのだろう。
「まあ、明日かな。抽選の結果出てから、二人に連絡するつもり」
「嫌味かよ」
「そんなつもりないけど」
「そう聞こえるんだって」
「話を振ってきたのは、向葵の方じゃん」
「そうだけど」
向葵は勢いよく立ち上がった。もうそろそろ百八十センチを迎える向葵の近整の取れた体が、律鬼の前で影を作る。
――相変わらず、羨ましいぐらいに綺麗なプロポーション。
律鬼はその向葵の身体に惚れ惚れとしながら、キョトンとした顔で次の言葉を待った。
「俺はまだ諦めてないよ。今年が最後のWPPなんだから」
最後のWPP。
国立バレエ学校では、準備生三年間、前期生三年間、後期生二年間のプログラムが組まれている。WPPに参加できるのは前期生までだ。
後期生になったら、冬はバレエ団のツアーや公演についていくことになる。
前期三年生である律鬼と向葵にとって、今年が参加できる最後の機会だった。
「諦めてないって言われても、困るなぁ」
「キャスト三人っていうのはどう?」
「だからもう振り、できちゃったんだって」
そう伝えると、向葵は「ちえっ」と小さく拗ねたように唇を尖らせた。
この人間味あふれた素直な向葵だからこそ、舞台では輝くんだろうなと律鬼は感心する。だからこそ、自分の舞台には立たせられないのだ。
だが、その理由を伝えたとて、この男は決して納得しないだろう。
「七日。ちょっと」
WPPの抽選の結果、律鬼は前年と同じく、舞台で自身の振り付けを踊る機会を得た。発表まで残すところ一ヶ月を切っている。
律鬼は去年タッグを組んだ内の一人、一七日に声をかけ、さらに従兄弟の片瀬夕にも、今年は踊ってもらうことにした。
決して順調ではないが、振り入れは着実に進んでいる。
七日は去年共に踊っているため、彼女がどの程度のリズム感と身体能力を持っているかは律鬼も把握していた。
一方、夕は幼い頃から同じスタジオで育ってきたため、不思議な感覚だが、まるで自分自身の動きを見ているかのようだった。
「ここさ、この振りに変えたいんだけど、できる?」
そう言って律鬼は、その場で動きを変えてみせた。既存の腕の軌道ではなく、少し音のとり方を変えた、よりシンプルで抽象的な動きに。
七日は嫌な顔ひとつせず、その場で即座に律鬼の動きをなぞった。その再現性の高さは、律鬼の想像をわずかに超えてくる。
――そう。それだ。それの方がいい。
律鬼の中で、複雑なパズルの最後のピースが、カチリと完璧にハマった音がした。
いつの間にか満足げな笑みを浮かべていた律鬼の表情を見た七日が、「できた?」と尋ねるように、ふふっと穏やかな笑みをこぼす。
律鬼と七日の、最初の接点は、何気ない日常の一コマだった。
その日、律鬼たち学生は、海外から遠征に来ているバレエ団の公演鑑賞会があった。日中はいつも通りレッスンと勉強に励み、夕方頃から準備をして、劇場へ向かう。学校から直接バスが出ているため、律鬼達は寮の部屋で着替えを済ませ、ロビーに集合していた。
皆、いつものジャージやレッスン着ではなく、めかし込んでいる。男子はきっちりスーツ姿だ。個性はネクタイやリボン、あるいは靴の色に垣間見える。
律鬼は首元をさすり、少し息苦しそうにしていた。
一方、女子達も煌びやかでありながら落ち着きのある、華やかなドレスやシックなパンツスタイルの服に身を包んでいる。誰一人として服が被っていないのは、ある種の才能だと思った。
しかし彼らも毎回こんな格好をしているわけではなく、カジュアルに観に行くこともある。今回はバレエ学校の一員としての鑑賞のため、厳格なドレスコードがあったのだ。
人がごった返すロビー。
集団は、男女にきれいに分かれている。
この時期はまだ、男女間の交流はそこまで親密ではない。
そんな中、律鬼の視線はある一人の女子生徒に止まった。
背は周りとあまり変わらない。少し大きいぐらいだろうか。
長いポニーテール。前髪はレッスンの時のようにスッとまとめられ、着ているのは深い紺色のパンツスタイルのセットアップ。足元は、高いピンヒールだ。
――誰だろう、あの子。
それが、律鬼からみた七日の鮮烈な第一印象だった。
それからすぐに、男女混合のクラス――パドドゥクラスを受講するようになり、その子が「一七日」だと知る。
周りの人は皆、口を揃えて言う。
律鬼は才能の塊だと。
一を言われて百できる。
生まれ持ったその独特な雰囲気。舞台の上での存在感。
そして、見事なプロポーション。
努力で手に入らない先天的な要素。
それは、凡人と天才の間にある、超えられない壁だと。
もちろん、律鬼の耳にもその噂は入っていた。だからこそ、ちょっとした課題や踊りを披露する場があるたびに、皆が彼の振り付けをされたがりに来る。向葵もそのうちの一人だ。
以前には、同じ前期三年生の新井さくらに、面と向かって詰め寄られたことさえある。「どうして自分には声をかけてくれないのかと」
天才に声をかけられたダンサーは、すなわち天才に認められたダンサーだ。
そんな当たり前の相互評価の構造がある中で、律鬼はそんなことを全く気にせず、極めて率直に答えた。
「さくらは、もう出来上がってるから」と。
「出来上がってる? どう言う意味?」
「うーん」と律鬼は首を捻った。
さくらの踊りは何度か観たことがある。パドドゥクラスでも一緒に踊った。そのたびに感じていたのが、彼女の踊りは「完成された彫刻」のようだということだった。
「さくらはさ、俺がわざわざ振り付けとかしなくても、もう十分にダンサーとしてのステータスができてるんだよ。俺からみたら、もう手の出しようがないってこと」
「もっとわかりやすく言ってほしいんだけど……。それ、褒めてるの? 貶してるの?」
困惑し、眉を顰めたさくらを前に、律鬼はスッと無駄のない動きで腕を動かす。腕を横に広げたアラセゴンと呼ばれる形だ。
「これが一」
次に律鬼は微妙に角度を変えて、緊張感を僅かに緩めて、同じくアラセゴンポジションに保つ。
「これが二。さくらはどっちが正しい形だと思う?」
「え……、まあ、一かな」
「どうして?」
「二は肩から腕先にかけたラインが微妙だったし、美しくなかったから。脇にも力が入ってない感じがした」
「そっか。――でも、俺にはどっちも正解だと思うんだ」
どっちも正しくて、どっちも正しくないかもしれない。
「こっちが正解とか、正解じゃないとか。そういう絶対的な基準が俺の中にはないんだよ。もっとわかりやすくいうならバスケのシュートの形。見本となるフォームがあるかもしれないけど、でもそれが本当に正しいのかなんて誰もわからない。もしかしたらもっと違う形があるかもしれない。――もちろん、競技上、その形が正しいんだけどね」
「ご、ごめん。もっとややこしくなった。……つまり、どういうこと?」
「うーん」
また律鬼は首を捻った。
「さくらは、踊っててその先のビジョンが見えるんだよ。ああ、この人は将来この舞台でこの役で踊るんだろうなっていうビジョン。俺は、そこに口出ししたくないだけ。そのままの君を見守ってみたいんだ」
さくらは、不満そうに俯いた。
「……じゃあ、七日は? どうして彼女には声をかけるの」
ああ、と律鬼は悟った。
さくらは感情を隠しているようだけれど、その口元に嫉妬に似た、あるいは焦燥のような感情がわずかに浮かんでいる。
暫く、律鬼は七日のことを表す適切な言葉を探して、ようやく口を開いた。
七日はさ――。
ブザーが鳴る。
たかが、WPP。
されど、WPP。
律鬼の心臓の鼓動が高まっては、深く静かに落ち着いていく。呼吸を繰り返すたびに、内側で響く音色が変わるのを感じる。
「律鬼」
舞台袖の暗闇。シンプルな衣装に身を包んだ七日が振り返り、律鬼の手を掴んだ。
その手は、冷たい。
「今更こんなこと言うのも恥ずかしいんだけど、私を選んでくれてありがとう」
「なんのなんの。寧ろ、楽しんで」
律鬼はニコッと笑う。
チラリと反対側の幕袖を見ると、従兄弟の夕が、軽くジャンプしながら細かく歩き回っているのが見えた。律鬼は無意識にその動きに自分を重ねる。
――緊張している時のルーティン。それまで俺とそっくりだなんて。可愛いやつめ。
七日はよそ見している律鬼の頬を両手で挟み、目を逸らさせないようにした。思わぬ行動に、律鬼は軽く動揺する。
「な、七日……?」
「人が話してる時に、よそ見しないの。それ、あんたの悪い癖だから」
「え、ええ……」
面と向かって「悪い癖」と指摘され、律鬼の口から言葉が漏れる。
「律鬼の意識が一点に定まってないのは知ってるし、それが才能に繋がってるのも知ってる。けど、今回は、この踊りを私が踊ってる時は、私をみてて。私だけをみてて」
凛とした強い声。
けれどその奥には、わずかな迷いや切実さが隠れている七日の声色。
律鬼はそっと耳を澄ます。そして、七日の手の上に自分の手を静かに重ねた。俺よりも十センチ小さい七日。俺はその七日の踊りに、自分の創作の全てを捧げた。
揺るぎない覚悟。
バレエに取り憑かれてしまった者の、魂の共鳴。
「もちろん」
君の思うこの踊りを、思う存分踊ってこい。
最後に、七日と律鬼はハグを交わし、舞台の幕が開けた。
「律鬼! こっち!」
――ハッ!
律鬼は名前を呼ばれ、ようやく呼吸を取り戻した。長い間息を止めていたように、鼓動が大きく速く高鳴る。
舞台の上で七日が律鬼の名前を呼んでいる。
客席からはあふれんばかりの、熱狂的な拍手が届く。それに混じって、興奮した自身の鼓動が聞こえてくる。
「李恩さん、呼ばれてます」
スタッフのTシャツを着た後輩にそう促され、律鬼はようやく作品の上演が終わったのだと認識する。もう一度、七日の顔をちゃんとみる。早く来いと、待ちきれないといった様子だ。
ゴクンと唾を飲み込み、律鬼は照明の輝く舞台の上に出た。去年も同じように呼ばれた経験から、今年はきちんとした服を着ている。(去年はジャージ姿で、流石に少し恥ずかしかった)
笑顔で舞台の中央に立ち、客席へ向かって腕を広げ一礼する。
「ブラボー!」
「ヒュー‼︎」
「律鬼さーーん!」
歓声が、心の奥底を震わす。律鬼はもう一度、深々とお辞儀をした。
七日と夕の踊りは最高だった。
律鬼は、その踊りを一秒たりとも見逃さないように、全身の感覚で食らいついてみていた。
俺の想像を遥かに超えた、生きた作品がそこにあったんだ。
「律鬼、ありがとう」
そう言われ、律鬼と七日は舞台の上で終わりのハグをする。続いて夕は、熱を込めたハグを律鬼にぶつけた。夕の頬から落ちた汗が、律鬼のスーツの肩に濃い染みを作った。
三人はまた、客席の方を振り返り、手を繋いでお辞儀をする。
拍手は止む気配がない。
顔を上げ、もう一度後ろへ引き、そしてまた前へ歩み出て、感謝を込めてお辞儀をする。
この瞬間を、三人は心の奥へと深く刻み込んだ。
数年後、李恩律鬼は世界に名を馳せる振付家になるのだが、それはまだ先の話。
――ただ、律鬼はこの時、この先の掠れたビジョンが、確かに少し見えた気がした。
舞台に幕が降り、静けさが一瞬戻った時。
「七日」
律鬼は咄嗟に七日に声をかけた。七日は夕と、興奮冷めやらぬ様子で楽しそうに会話をしている最中だった。
また、人の話を遮ってしまった。
律鬼はそう感じたが、そんなこと今は眼中になかった。
どう伝えようか。どうこの気持ちを表せばいいのか。正解がわからない。否、正解はないのかもしれない。
「なに?」
七日――と、律鬼はもう一度だけ、その名前を強く呼ぶ。
――俺と、パートナーを組まないか?
***【Ritsuki Rion ~fin~】
ご感想等お待ちしております☺︎




