第9話 堺 向葵
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堺向葵。
東京都某地区生まれ、誕生日は七月三十日。血液型はB型。
好きなことは踊ること。
そして、同じくらい嫌いなことも、踊ることだ。
俺は二人兄妹の末っ子。姉が一人。
それから、親戚という枠を超えて仲の良いおじさんが一人。
俺とは違い、バレエとは無縁の人生を送ってきた姉だが、仕事は舞台の衣装やメイクに携わる裏方を選んだ。
そのせいで、今でも劇場の楽屋や通路で鉢合わせることがある。
忘れもしない、俺の初めての大舞台。
――前期二年生の時、演目は『ドン・キホーテ』だった。
あの時、俺に初めて本格的な舞台メイクを施したのは姉だった。楽屋の鏡に映った「自分じゃない自分」に戸惑っていると、観に来ていた内田が目を丸くして驚いていたっけ。
今となっては、それも懐かしい思い出の一つに過ぎない。
実を言えば、俺は最初から踊り手を目指していたわけではなかった。
幼い頃の俺を夢中にさせていたのは、身体を動かすことではなく、耳を澄ませること。
――つまりヴァイオリンだった。
両親がともに音楽の経験者だったこともあり、俺も自然と、自分はいつか音楽の道へ進むのだと信じて疑わなかった。
音大出身のおじさんが弾く繊細な旋律は、いつだって俺の憧れだった。
それから、もう一つ。
同じヴァイオリン教室に通っていた、数歳年上の「お姉さん」の存在も大きかった。
俺が通っていた個人レッスン主体の教室では、他の生徒と顔を合わせる機会なんて、年に一度の発表会くらいのものだ。それでも俺は、彼女の演奏を少しでも近くで聴きたくて、わざと彼女の直後の時間帯にレッスンを予約していた。
防音室の重い扉から漏れてくる、凛とした弦の響き。
俺は廊下の硬い椅子に座り、まるで宝物でも待つような心地で、彼女の音が止むまでの時間を慈しんでいた。
あの頃、俺の真っ白な未来予想図には、バレエダンサーの影なんて一分もなかったはずだった。
――あの、鼓膜を震わせる痺れるような音は、今でも忘れることができない。
防音室の重いドア越しですら漏れ聞こえてくる、一音の重み。全身の血が逆流するような、強烈な引き込みの力。俺は廊下の椅子に座り、その音の持ち主がどんな人物なのかを想像することに没頭していた。
よく「音楽に身を委ねる」なんて言うけれど、俺にはそれができなかった。その音は、心地よい微睡に誘ってくれるような優しいものではなかったからだ。
むしろ、意識の奥底を力ずくで叩き起こされるような、荒々しいまでの覚醒。
それが、彼女の音だった。
いつも早めに来て廊下で待機している俺を見かねてか、ある時から先生が「中で待っていてもいいわよ」と言ってくれるようになった。
願ってもない特等席だ。
それからの俺は、自分の練習のためというより、大好きな「お姉さん」の演奏を至近距離で浴びるために、毎週のレッスンに通い詰めるようになった。
そして、年に一度の演奏発表会。
そこで俺は、さらなる衝撃に打ちのめされることになる。
当時まだ小学生だった俺は、緊張で指先が冷たくなる感覚や、不慣れな舞台の窮屈さに辟易していた。正直、自分の出番がどうだったかなんて、記憶の霧に隠れてほとんど覚えていない。
そして俺の演奏が終わり、プログラムが後半に差し掛かった頃だった。
「彼女」が、舞台に現れた。
それまで続いていた、お世辞にも上手とは言えない——俺も含めた、子供たちのたどたどしい演奏の連続に、会場にはどこか弛緩した空気が漂っていた。俺自身、あまりの退屈さに少し欠伸を噛み殺していたくらいだ。
だが、彼女が姿を見せた瞬間、ホールの空気が一変した。
漆黒のドレスに身を包み、髪は一筋の乱れもなく綺麗にまとめられている。 凛とした空気を身に纏い、彼女が舞台の中央に立つだけで、そこには目に見えない境界線が引かれたようだった。
けれど、その美しい佇まいだけで、あの凄まじい音が生まれる理由を説明できているわけじゃなかった。
俺は膝の上で拳を握り、彼女が弓を構えるのを見つめていた。
彼女は深々と一礼をし、ヴァイオリンを左肩に添えた。
ピアノの伴奏を務める先生と視線を交わし、短くチューニングを済ませると、弦の上にそっと弓を置く。
その瞬間、ホールの空気が一変した。
まるで会場中の酸素が一点に凝縮され、ピンと張り詰めた透明な糸が空間を埋め尽くしたかのような、峻烈な静寂。俺は唾を飲み込むことさえ忘れ、舞台上の彼女の一挙手一投足を凝視した。
彼女が、スッと深く息を吸う。刹那、音が放たれた。
跳ねるようなスタッカートが火花を散らし、急停止したかと思えば、震えるようなビブラートが空気を揺らす。急き立てるような激しい旋律が胸を叩き、速度を落とした旋律は、まるで弦から直接感情が滴り落ちるように叙情的に響いた。
俺はその感覚を、今でも細胞の一つ一つが覚えている。
今にして思えば、俺はあの時からすでに『舞台』というものの虜だったのかもしれない。
日常の延長線上にあるはずの板の上が、音一つ、動き一つで、全く別の世界へと塗り替えられていく。
何者でもなかった人間が、光を浴びて、誰でもない「何者か」へと変貌を遂げる。
そんな残酷なまでに美しい魔法の空間に、俺の魂は密かに、けれど決定的に引き寄せられていたのだ。
バレエを始めたのは、小学生の頃だった。
実を言えば、ヴァイオリンにのめり込んでいた時期には、すでにタイツを履いてバーに触れていたことになる。
もっとも、最初から情熱があったわけではない。きっかけは「健康のため」という、至極現実的な理由だった
俺は昔から、いくら食べても太れない体質で、そのうえ酷い喘息持ちだった。そんなひ弱な息子を案じた両親が、体力作りの一環として見つけてきたのがバレエ教室だったのだ。
なぜ水泳やサッカーといった普通のスポーツじゃなかったのかと問われると困るのだが、おそらく、ちょうどその頃におじさんがクラシック音楽関係の仕事を本格的に始めたことが影響していたのだろう。
俺とバレエの繋がりを語るには、両親が語る「バレエとの出会い」のエピソードがある。
ある年のクリスマス、遊びに来たおじさんがチャイコフスキーの『くるみ割り人形』を流した。
すると、まだ幼かった俺がその旋律に合わせて、夢中で、独りでに踊りだしたのだという。
つまり、きっかけを作ったのは俺自身ということになるのだが、あいにく当の本人の記憶には一欠片も残っていない。
それから、俺は身体を動かすことと同じくらい、俺は静かに読書に耽ることも好きだった。
父の仕事の関係で、家の書斎には膨大な数の小説や哲学書が壁を埋め尽くしていた。
俺はそこを自分の隠れ家のようにして、よく入り浸っていた。
中でも、シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』を初めて手に取った時のことは鮮明に覚えている。
小学校三年生の、凍えるような冬の日だった。
活字を追うごとに、物語の情景が色彩を持って頭の中に溢れ出し、ページをめくる指が止まらなかった。
最初に読み終えた時の感想は、「なんて残酷な話なんだろう」という拒絶に近いものだった。 まだ小学生だった俺は、勧善懲悪やハッピーエンドの物語を好んでいた。だから、愛し合う主人公の二人が最後には死んでしまうという結末が、どうしても許せなかったのだ。
けれど、果たしてこれは本当に「バッドエンド」なのだろうか。
そんな問いが、胸の奥に澱のように溜まって離れない。もしこれが不幸なだけの結末なら、どうしてこれほど多くの人に語り継がれているんだろう。
俺は一人、答えの出ない問いを抱えて悶々と考えていた。
ひんやりとした冬の書斎で、難しい顔をして考え込む俺。そこへ、ふらりと父親が姿を現した。
「どうしたんだい? そんなところで」
父親は少し寒そうに手のひらをこすり合わせながら、俺の隣に腰を下ろした。
「……うーん」
俺は言葉にならない唸り声を漏らす。父親は俺の目の前に広げられた本をそっと覗き込んだ。
「『ロミオとジュリエット』か。また随分と難しい本を選んだんだね」
「うーん……」
俺はますます首を捻った。
こういう時、父さんは決して答えを急かさなかった。
俺が自分の内側にある形のない感情を、言葉という形に紡ぎ出すまで、静かに待ってくれる。その沈黙は重苦しいものではなく、どこか包み込むような優しさがあった。
ようやく絡まっていた思考が解け、俺は組んでいた腕をほどいて父さんの方を見た。
窓から差し込む冬の光に、父さんの混じり始めた白髪が透けて見える。
――もしロレンス神父が実在したら、こんな風貌だったのかもしれない。
二人の密かな結婚式を見守り、その後も二人を支え続けた神父。けれど彼の慈悲深き計らいは、皮肉な運命によって最悪の幕切れを招いてしまう。 俺は本を指先でなぞりながら、ポツリと口を開いた。
「俺さ……」
ロミオとジュリエットはシェークスピアによる物語だ。
ヴェローナの街には、代々憎しみ合う二つの名家、――モンタギュー家とキャピュレット家があった。その争いの影は若者たちの心にも重く落ち、ある夜、仮面武道会で出会ったロミオとジュリエットは、互いの名を知った瞬間から禁じられた恋に身を投じる。
二人は夜の庭で愛を誓い、神父ロレンスの助けを借りて密かに結婚するが、街の争いは止まらない。
ロミオの友マキューシオがキャピュレット家のティボルトに殺され、怒りに駆られたロミオはティボルトを討ってしまう。その罰としてロミオは街を追放され、引き裂かれた信仰の二人は別れを余儀なくされる。
一方、ジュリエットには別の結婚話が進められ、彼女は神父から歌詞状態になる薬を受け取り、死んだように眠る計画にかける。
だが計画はすれ違う。ジュリエットの死の知らせだけを聞いたロミオは絶望し、墓場で毒をあおって命を絶つ。目覚めたジュリエットはその亡骸を前に短剣で後を追う。若き恋人たちの死を前に、二つの家はようやく憎しみを捨て、和解する。
――愛は命と引き換えに、争いを終わらせたのだった。
「俺さ……ベンヴォーリオが、一番悲しい立場なんじゃないかなって思うんだ」
――ベンヴォーリオ。
ここでまた新しい名前を出してしまったが、彼の立ち位置は至ってシンプルだ。
彼はロミオの親友であり、そしてこの血塗られた物語の主要な登場人物の中で、ただ一人「生き残ってしまう」人間だ。
ロミオも、ジュリエットも。 血気盛んだったティボルトも、奔放だったマキューシオも、誠実だったパリスも。 嵐のような悲劇が過ぎ去ったあと、舞台の上には骸ばかりが転がっている。
読み返せば読み返すほど、いくらなんでも死にすぎじゃないかと思えるほどに。
「みんな、ロミオとジュリエットの愛がどうとか、そっちにばかり注目するけど……親友を二人も一気に失くしたベンヴォーリオは、このあとどうなるの? 想像したら、なんだか胸のあたりがすごく痛いんだ」
一人取り残された者の、その後の、語られない人生。
小学生の俺が抱いたそんな切実な訴えに、父さんは少し驚いたような顔をして、それから優しく微笑んだ。
「そうだね。パパはそんな風に考えたことはなかった。彼は、いわゆる『脇役』だし、物語の中でその後の人生が語られることはないからね。……ああ、そうだ。確か、うちにDVDがあったはずだよ」
「DVD? ロミジュリの?」
「そう。日本のバレエ団が数年前に上演した、バレエの『ロミオとジュリエット』だ。……観てみるかい?」
「うん」
正直なところ、あまり乗り気ではなかった。
悲劇の結末を知っているからこそ、それをわざわざ映像で、しかも習っている最中のバレエで観ることに、少しだけ抵抗があったのだ。
けれど俺は、吸い寄せられるように、父さんの提案に頷いていた。
バレエなら、舞台の上に常にベンヴォーリオがいるはずだ。 小説ではロミオたちに焦点が当てられている間、地の文から消えてしまう彼も、舞台の上なら「その時」をどう生きているのか、この目で確かめることができる。 そう考えた俺は、重い腰を上げて父さんの後を追った。
俺たちはひんやりとした書斎を抜け、暖炉の火が爆ぜるリビングへ移動した。父さんが手慣れた様子でデッキにDVDをセットする。
「おいで、セルゲイ」
俺はソファーに深く腰掛け、愛犬のセルゲイを呼んだ。ぬいぐるみのようにフワッフワな白い毛に包まれたセルゲイは、短い脚でぴょんと器用にジャンプして俺の隣に収まった。その温もりを指先に感じながら、画面を凝視する。
テレビのスピーカーから、地響きのような音楽が流れ出した。
あの重く、逃れようのない圧迫感。――まるで幕が開いた瞬間から、観客全員に最悪の結末を宣告するような、禍々しくも美しい調べ。
父さんが選んだこのDVDは、ロミオ役はもちろん、ベンヴォーリオ役までもがバレエ団のプリンシパルが務めるという、極めて豪華なキャスティングだった。 俺の視線は、すぐに一人の男を捉えた。背が高く、驚くほどスマートな身のこなしを見せる男。彼こそが、俺の気になっていたベンヴォーリオだ。
画面の中では、ロミオとマキューシオ、そしてベンヴォーリオの三人が、色違いの鮮やかな衣装に身を包んで踊っている。
当時の俺が着ていたのは、教室の発表会で貸し出される、どこか使い古された質素な衣装だけだった。画面の向こうで翻る、重厚な刺繍が施された贅沢な衣裳は、それだけで「ここではないどこか」の説得力に満ちている。
物語は、めまぐるしく加速していく。
陽気なステップ、剣の火花、そして忍び寄る死の影。
俺はセルゲイの柔らかな毛を無意識に握りしめたまま、またしても「舞台」という魔法に飲み込まれていった。
気がつけば、画面の中の彼らに合わせて、心の中で勝手に「台詞」をあてていた。
バレエには、当然ながら言葉が存在しない。
踊りと音楽、そして衣裳。その三つだけで、物語のすべてを語り尽くす芸術だ。
鍛え上げられた肉体の躍動が紡ぎ出す、最上級の物語――当時の俺は、画面に釘付けになりながらそう確信していた。
演技において「台詞がない」ということは、実はとんでもなく贅沢で、凄まじいことなんじゃないか。
うまく言葉にできないけれど、あえて言うなら、それは「嘘」のつき方の違いかもしれない。
誤解を恐れずに言えば、言葉はどうにでもなってしまう。
本心で思っていようがいまいが、「愛している」という記号としての言葉を口にすれば、物語はそこへ誘導されていく。もちろん、その声のトーンや間に、役者の血の滲むような工夫があるのは分かっている。台詞を卑下したいわけでも、演劇とバレエのどちらが優れているかという、野暮な優劣をつけたいわけでもない。
ただ、俺には「言葉」という正解を与えられる表現は、少しだけ窮屈に感じられた。
それよりも、観る者の想像力にすべてを委ねるバレエの美しさに、強く惹かれたのだ。
言葉を奪われているからこそ、観客は踊り手の指先の震えや、背中の強張りに、必死に感情を探そうとする。
そこには決まった正解なんてない。あるのは、観る側と踊る側が想像力で通じ合う、静かで濃密な対話だけだ。
もちろん、バレエには「マイム(身振り手振り)」という独自の文法もあるけれど、それはまだ幼い俺には理解しきれない部分も多かった。俺だって、この魔法のような世界のルールを、まだ何一つ知らない。
けれど、だからこそ。
何も語らない彼らの肉体の方が、俺にはどんな名文よりも雄弁で、どこまでも綺麗に見えたんだ。
言葉がないからこそ、俺たちは舞台を見つめ、果てしない想像を巡らせる。
今、彼は何を考えているんだろう。
あの指先の動きには、どんな意味が込められているんだろう。
どうして、あんなに震えるような瞳で泣いているんだろう。
そうして自分勝手に想像を膨らませ、物語の空白を埋めていく時間が、たまらなく愛おしかった。
気がつけば、俺はもう、ただの第三者ではない。
その物語を紡ぎ出す語り手であり、同時に、痛みを分かち合う当事者でもあった。客席と舞台の境界線が消え、物語の血が自分の中に流れ込んでくるような、あの奇妙で濃密な感覚。
このワクワクが全ての人に伝わらないのが、少し悔しいけれど。
この芸術の世界に、俺は飛び込んでみたいと、小学三年生にして、はっきり思った。
こうして、俺の人生設計は少しばかり遅いスタートを切った。もちろん、バレエの世界にしては、だ。
周囲が将来の夢をぼんやりと描き始める頃、俺はすでに、取り返しのつかないほどの熱量でバレエの深淵へと足を踏み入れていた。
両親は当初、手放しで喜んではくれなかった。
喘息持ちの息子が選ぶには、あまりに過酷な道だと知っていたからだろう。けれど、おじさんの粘り強い後押しと、彼が旧知の仲だという藤波さんの存在が、俺の背中を強く押し出した。
藤波さん――のちに日本国立バレエ学校の校長となり、バレエ団の芸術監督にまで上り詰める人。当時はまだ現役のダンサーだった彼女の踊りを、俺は一度だけ生で観たことがある。
それからの日々は、まさにバレエ一色に塗りつぶされた。
レッスンのために生活拠点ごと引っ越しを強行し、バレエ学校へと籍を移した。
中学時代、転校先の学校でわずか半年間だけ机を並べたクラスメイトに、一度だけ聞かれたことがある。というより、そんな「顔」をされた。
――どうして、バレエのためにそこまで全部を捨てるように生きられるの?
俺はただ、「本気だからだ」とだけ答えた。
けれど、それが自分の本心のすべてでないことは、俺自身が一番よくわかっていた。
ただ、その時の俺の語彙では、それ以上に適切な言葉が見つからなかっただけだ。
今なら、あの時の自分をもう少し正確に分析できる。
俺はバレエという、形も実体もない不安定な未来に取り憑かれていただけなんだ。一度でも足を止めれば、一瞬でその光に振り落とされてしまう。その恐怖から逃れるために、しがみつくようにして必死で生きていた。
……言っている意味、よくわからないだろうか。
だろうな、と思う。
自分でも、これが正しい表現なのか、今でも確信は持てない。
けれど、あの頃の俺を支えていた得体の知れない衝動を説明するには、今の俺にはこれが最善なんだ。
バレエ学校への入学は、俺の人生にとって最大の転換点だった。けれどそこで俺は、今まで経験したことのない「正体不明の感情」に直面することになる。
それは、前期二年生の春のこと。
進級を目前に控えた俺たちにとって、春の公演は五年にわたる基礎課程の集大成ともいえる、最も重要な舞台だった。
この学校は、前期五年間を終えたあと、さらに二年間の「後期課程」が用意されている。そこからはプロのダンサーになるための最終準備期間となり、学校行事としての公演で主役を張るような機会は、事実上これが最後になる。
その運命の舞台で選ばれた演目は、『ドン・キホーテ』。
俺は、物語の狂言回しであり、主人公キトリの恋人でもある床屋の青年、バジル役に抜擢された。
そしてキトリ役を射止めたのは、同期の中で常に一、二を争う実力の持ち主――一七日だった。
年明け早々、他の生徒たちより一足早く、俺たちの特別リハーサルが始まった。 彼女とはこれまでにも何度か組んで踊ったことがある。
お互いの癖も、呼吸のタイミングも、ある程度は掴んでいるつもりだった。
――わかっていたつもり、だったのだ。
いざリハーサルが本格化すると、俺はまたしても、「よくわからない感覚」に足元を掬われることになる。
焦点となったのは、第三幕。物語のクライマックスである、キトリとバジルの結婚式の場面だ。
ここで踊られるのは「グラン・パ・ド・ドゥ」。 男女二人で踊るアダージョに始まり、男性のソロ(ヴァリエーション)、女性のソロ、そして最後に再び二人で華やかに締めくくるコーダ。時間にしてわずか十分にも満たないその構成の中に、ダンサーとしての技量と、パートナーとの信頼関係のすべてが凝縮される。
上手――客席から見て舞台の右側から、俺たちは姿を現す。
キトリの纏う衣装は、一、二幕で見せた情熱的な赤ではない。
それは、結婚式という神聖な儀式を象徴する、目の眩むような純白。俺が身に纏うバジルの衣装も、同じく汚れなき白だ。
華やかな旋律に乗り、街の人々の祝福を浴びながら、俺たちは最高潮の幸せを体現する。
その踊りの最中、ふいに七日と目が合った。
――……なんだ、これは。
その瞬間、心臓を直接掴まれたような、得体の知れないざわつきが胸を走った。
そこにいるのは、間違いなくキトリだ。物語の中の幸せな花嫁がそこにいる。彼女はバジルである俺を確かに見つめている。
それなのに、なんなんだ、この胸騒ぎは。
七日の視線は、鋭いほど真っ直ぐに俺を射抜いてくる。かと思えば、翻した扇の影で、試すような、あるいは意地悪くはぐらかすような仕草で視線を逸らし、また誘惑するように引き戻す。
その瞳の奥には、俺の知らない深い淵があるような気がした。
気づけば、いつの間にか音楽が止まっている。
我に返るが、自分がどう踊っていたのか、細かな記憶が抜け落ちている。リハーサルを重ねるたび、俺はいつもそんな「中空に浮いた」ような状態に陥っていた。
――そんな俺の、浮ついた心の隙が、彼女の異変を見逃させたのかもしれない。
リハーサルが終わったあとの、どこか弛緩した稽古場。その片隅で、俺は彼女の決定的な異変に気づいた。
「七日……。なんか歩き方、おかしくないか?」
汗を拭っていた七日の動きが、不自然に止まる。
手にしていたタオルが、重力に逆らわずにポトリと床に落ちた。
「七日……?」
俺はそっと近づき、彼女を覗き込むようにしてその顔を伺った。肩に置いた手から、彼女の身体が小刻みに震えているのが伝わってくる。 俯いた彼女は、唇から血が滲みそうなほど強く、涙を噛み締めていた。
「――七日?」
耐えきれなくなった涙が、一筋、また一筋と冷たいリノリウムの床にこぼれ落ちていく。 俺は慌てて、まだ乾いたままの自分のタオルを彼女に差し出した。
先ほど先生が出て行ったばかりの廊下は、不気味なほど静まり返っている。鏡に囲まれたこの広い教室には、もう俺たち二人しか残っていなかった。
七日は震える手でタオルを受け取ると、縋るように顔を覆い隠した。
やがて、その奥から絞り出すような声が漏れる。
「……痛い」
「痛い……? どこが?」
「死ぬほど痛い。めっちゃ痛い。……もう、無理。踊れない」
堰を切ったように、七日の口から言葉が弾丸となって飛び出してきた。
その激しさと絶望感に、俺は立ち尽くすことしかできない。
「踊れないって……。七日、まさか、怪我したのか?」
俺は彼女の足首に目を落とした。さっきまで庇うように引きずっていたのは、明らかに左の足首だ。トウシューズで立った瞬間に、靭帯が悲鳴を上げたのだろう。
彼女は子供のようにヒック、ヒックと肩を震わせ続けた。
「……やだ。踊りたい。痛い。痛いけど、多分もう踊れないけど……っ、でも、踊りたいの。舞台に立ちたい。どうしよう、どうしたらいいの。……無理、どうしよう」
言葉の体をなさない、パニックに近い拒絶。
けれど、きっと彼女の中では、残酷な結論が既に出ているのだと分かった。誰かに縋りたいのではなく、逃れられない事実を認められず、自分自身に問いかけているだけなのだ。
自分の身体の限界は、他ならぬ自分自身が一番よく知っている。
けれど、血の滲むような日々を捧げて掴み取った「舞台」が、指の間からこぼれ落ちていく。その事実を飲み込むのは、十七の少女にはあまりに過酷なことだった。
俺は、かける言葉すら見つけられなかった。
暗くなり始めた稽古場で、ただただ静かに、崩れ落ちて泣き続ける彼女の傍らに立ち尽くすことしかできなかった。
――結局、彼女がバジルの隣で笑うことはなかった。
舞台は、皮肉にも大成功で幕を閉じた。
七日の代役として急遽キトリを踊った新井さくらは、恐ろしいほどのポテンシャルの持ち主だった。彼女の柔軟な対応力は俺の踊りとも見事に噛み合い、俺たちは拍手の渦の中で「完璧な」結婚式のパ・ド・ドゥを踊り切ったのだ。
そして、あの日から数年。
今や俺とさくらは、日本のバレエ界を代表する若きプリンシパルとして、同じ舞台に立っている。
『――ブーー』
重厚な開演ベルが、舞台裏の静寂を切り裂く。開演五分前の合図だ。
『まもなく、国立YOUTH JAPANバレエ団、記念公演「ドン・キホーテ」が開演いたします。お客様にお願い申し上げます。携帯電話、スマートフォンは……』
場内に流れるアナウンスを背に、俺は肺の奥まで冷たい空気を吸い込み、深く吐き出した。
舞台袖は、眩い表舞台とは対照的に、一切の光が遮断された闇の世界だ。これから始まる爆発的な熱狂を前に、高ぶる鼓動を鎮めるには、これ以上ないほどふさわしい場所だった。
ふと、舞台監督用のモニターに目をやる。 そこには客席側から見た視点が映し出されていた。まだ厚い緞帳が降りているが、その向こう側に、満員の観客が放つ熱気が渦巻いているのが手に取るようにわかる。
バレエ団の記念公演。演目は、あの日と同じ『ドン・キホーテ』。
そして、今回俺のパートナーとしてキトリを演じるのは――。
「向葵」
背後から、柔らかく、けれど芯の通った声が俺の名を呼んだ。
振り返ると、そこに彼女がいた。
情熱的な赤の衣装を纏い、誇り高く胸を張るキトリの姿。あの日、リノリウムの床で涙を流していた少女は、もうどこにもいない。
一七日が、そこにいた。
数年越しのリベンジ。
遠回りをして、互いに傷を抱え、それでも諦めなかった俺たちは、ようやく同じ舞台で、同じ物語の、同じ旋律の中に並んで立つことができたのだ。
「楽しもうね、向葵」
「ああ、もちろん」
俺たちは短く言葉を交わし、拳を軽くぶつけ合った。
客席のざわつきが潮が引くように収まり、代わりに一斉の拍手が湧き上がる。
オーケストラピットに指揮者が現れた合図だ。
やがて拍手が止み、劇場が息を呑むような一瞬の静寂に包まれる。
直後、弾けるような音楽が空間を支配した。
俺たちの物語が、今、ふたたび幕を上げる。
俺のこの焦がれるような気持ちは、きっと生涯、報われることはない。
俺たちは――いいや、俺も彼女も、最初からバレエという残酷な神様に恋をしてしまっているのだから。
人生のすべてを賭け、この足先にすべてを捧げてきた。
流した涙も、弾けるような歓喜も、震えるほどの感動も。
胸を焼くような悔しさや、黒く濁った嫉妬も。
それらすべてを注ぎ込み、燃やし尽くした青春のすべて。
俺たちは、バレエの虜になってしまっている。
「なった」のではない。自分の意志ではどうすることもできない抗えない力によって、囚われてしまったのだ。
これほどまでに残酷で、けれどこれほどまでに素晴らしい経験を教えてくれる芸術を、俺は後にも先にも知らない。この先、他の何かで知ることもないだろう。
たとえ、どれだけ踊り続けても、この乾きが癒えることがなく、報われないのだとしても。
それでも、構わない。
俺はこれからも、この板の上に立ち続ける。
立って、立って。ただひたすらに踊って、踊り狂って。
そうして、最後の一息を吐き出す瞬間まで、舞台という魔法の中にいたい。
俺は、そんなバレエを。 救いようがないほどに、どうしようもないくらいに、愛している。
***【Aoi Sakai ~fin~】
これにて【entrée~踊る者と踊らない者:8つの成長物語~】は完結となります。
この作品が、皆様にとって何かのきっかけとなりますように。
ご感想等お待ちしております☺︎




