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第二話 私たちは女優

       

 公演が始まってちょうど三ヶ月が経過した日、西條敦子は出演者たちとささやかなお祝いの小パーティーを開いた。そこに彼女の妹も参加した。青森の田舎から姉の舞台を見にわざわざ上京してきたのだ。


「お姉さん。素晴らしかったわ」


 妹の目には涙が滲んでいる。


「年齢なんて関係ない。素晴らしいものは素晴らしいのよ」


 二人はパーティーの後、海岸沿いに建つホテルのバーに行った。妹といっても、二十歳近く年が離れている。敦子は五歳の時に両親が離婚し、母親に引き取られた。父親は故郷の青森に帰り、五十を過ぎてから若い女性と再婚し妹が生まれたのだ。父親が亡くなって困窮する妹の家に仕送りをして支えたのは敦子である。そのお陰で妹は高校を卒業することができた。


「あんた、いつこっちに戻るつもり?」敦子が訊いた。

「しばらく向こうでゆっくりしたい」

「戻ったらすぐ、私のアンダーにつけるわ」

「無理よ。お姉さんみたいにはできない」

「最初は誰だってそうよ。やっていくうちにうまくなるの。あなたならできるわ」


 姉妹は勝利の美酒に酔った。

 妹の水原琴美は、芸能界への夢が破れた後、姉を頼って劇団明星に入団したが、姉妹であることは隠していた。情実に左右されることなく実力で勝負したかったからだ。


 姉は劇団で長年に(わた)ってトップを張り、人気と実力を兼ね備えた真の女優として、眩しいほどに輝いていた。琴美にとって憧れの存在だった。


 そんな姉が、ある日滝沢に捨てられ、失意と絶望から人が変わったようになってしまった。滝沢を奪った片桐あずさを憎み、嫌がらせをしたり、楽屋に盗聴器を仕掛けたりし始めたのだ。


 そんな姉を琴美は見ていられなかった。


「そんなに片桐あずさが憎い?」

「殺してやりたいくらい」

「だったら私が奪ってあげる」

「え?」

「滝沢先生をあずさから奪って、お姉さんと同じ目に遭わせてあげる」


 琴美はそれを有言実行し、あずさは半狂乱となった。それがあの日の楽屋での言い争いである。 

 琴美が去った後、百合亜が楽屋に入ってあずさの頭を殴打したが、彼女は死んでいなかった。


 その後、滝沢が楽屋を訪れ、倒れているあずさを発見して、あわてて介抱した。

 意識を回復したあずさは、滝沢を見るや逆上し、琴美と別れるよう激しく迫った。拒否されるや、自暴自棄となり、ナイフを手に彼に襲い掛かったのだ。

 激しくもみ合ううち、気付くと滝沢はあずさを刺し殺す格好となってしまった。


 その一部始終は、敦子があずさの楽屋に仕掛けた盗聴器が拾っていた。

 近くのバーで飲みながらそれを聞いていた敦子は、あわてて琴美を呼び出し、善後策を協議した。


「これはチャンスかもしれないわ」


 その時、琴美は言った。


「あずさ殺しを百合亜さんのせいにできれば、ミミ役が二人同時にいなくなる。計画が一気に早まるわ」 

 

 琴美は、敦子にミミ役を取らせるための綿密な計画を立てていた。


 まずはあずさを滝沢から奪ってその寵愛を失墜させ、ミミ役を百合亜にとらせる。心に疾患を持つ百合亜に対しては、様々なプレッシャーを断続的に与え続けて精神的に追い込み、舞台に立てない状態にもっていく。


「そんな計画うまくいくはずがないわ。非現実的よ」


 敦子はそう言って反対したが、琴美は大真面目だった。


「演技力さえあれば可能だわ」

「演技はそんなことのために使うものじゃない」

「お姉さんに復活してほしいの。恩返しがしたいのよ」

「でも、実現性があるとは思えない」


 実際、当初の計画はあずさが女優として急成長を見せ、実力でミミ役を奪い取ったことで頓挫した。


 しかし、すぐにあずさの死という願ってもない状況が現出したのだ。


「これで百合亜さんが逮捕されれば、ミミ役はいなくなる」


 だがこれも、百合亜が容疑者から外れることで叶わなかった。  


 そこで百合亜を精神的に揺さぶり狂気に追い込む戦略に戻したのだが、そんな時、貝原が見当違いな脅しを琴美にかけてきた。あずさ殺しの犯人は琴美ではないかというのだ。

 その背景に何があるのか確かめるべく、琴美は盗聴器を手に貝原の家へ向かった。外では敦子が万一に備えてずっと見張っていた。


 そして盗聴器から聞こえてきた驚くべき内容から、二人は計画を完遂したのだ。


「こんなにうまくいくとは思わなかったわ」


 琴美が言った。


「一つ分からないことがあるんだけど」


 敦子は首をかしげ、妹を見た。


「あなた、貝原の家へ行った時、あいつに身体を許したのよねえ」

「ええ。こっちから服を脱いで誘惑してやった」

「なのになぜ、膣内から彼の精子が検出されなかったの?」

「ああ、それはね」


 琴美はくすりと笑った。


「あいつ、出来なかったのよ」

「え?」

()たなかったの。必死に頑張ったんだけど全然ダメ。脂汗を流しながら、『俺は百合亜だけを愛しているから』なんて言い訳してるの。おかしかったわ。挙句に、『百合亜にはできなかったことは黙っててくれ』ですって」

「そうだったの」


 敦子は俯いてカクテルに口をつけた。


「男って何て弱いのかしら。本当に弱い生き物よ。――滝沢先生だって何? 別に死ぬことないじゃない」


 琴美と敦子は、滝沢の犯行を知りながらずっと黙っていた。それは、彼がいなくなればミュージカルの上演が中止になってしまうと考えたからだ。

 開幕するまでは事を起こさなかった。そして初日が無事終了した時、敦子は証拠の録音データを彼に突きつけた。警察に言うつもりはない。彼に貸しを作り、今後言うことを聞かせる腹だった。 


 敦子は自分との結婚を滝沢に迫った。もし結婚してくれるなら、この事実は墓場まで持っていくと泣きながら訴えたのだ。


 しかしその四日後、滝沢は自殺を遂げてしまう。


「私が殺したのも同然よ」


 敦子は懺悔するように、憔悴した顔で呻いた。


「今も毎晩夢に見るわ」

「気にしちゃ駄目よ」


 琴美はやさしく姉の手を握った。


「先生はあくまで、あずさを殺した自責の念に駆られて自死を選んだの。お姉さんのせいじゃない」

「だけど……」

「忘れましょう」


 と琴美は言った。


「だって私たちは何一つ罪を犯していないんだもの。誰も殺していない。誰も肉体的に傷つけていない」


 あくまで、あずさを殺したのは滝沢であり、貝原殺しは百合亜の犯行なのだ。

 琴美と敦子は、刑法上は完全な無罪である。


「そうだけど……」

「お姉さんがやるべきことは、ただひとつ。一流のミュージカル女優として突き進むこと。脇目もふらずに――。だって本当に素晴らしいんだもの。芸術に年齢なんて関係ないってことを証明するの。女を年齢で差別しようとする男どもに、本物とは何かを見せつけてやるのよ」


「……」


 敦子は苦笑してカクテルグラスを口に運ぶ。


「お姉さん、約束して」


 琴美は身を乗り出した。


「これからは、男なんかに振り回されちゃダメ。そんな人生は最低だもの」


 かつて権力を持つ男たちから肉体をさんざん搾取され、若くして純な心を喪失してしまった琴美。

 彼女の言葉には、(たぎ)るような怒りとともに、暗い哀しみが滲んでいた。


「ええ」


 敦子はうつむくように(うなず)くと、


「少しはあなたを見習わなきゃね」


 かすかに微笑した。


「そうよ」


 琴美は大きくうなずいた。


「だって――、私たちは女優なんだもの」


「……そうね」


 姉も同調するように首肯する。


「私たちは――女優」


 自分に言い聞かせるように、ゆっくりと口の中で復唱した。


 敦子はカクテルを一気に飲み干す。

 視線を宙に据え、しばらく沈黙していたが、やがて、ふと思い出したように口を開いた。


「……百合亜は今頃、どうしているかしら」


 殺人犯として服役しているかつてのミミ役に思いを馳せるように目を細める。


 その瞬間、琴美の顔にも憂いが浮かんだ。


「あなた、心は痛まないの?」


「痛まないといえば嘘になるわ。百合亜さんからは本当にたくさんのことを教わったから。……世間では色々言われているけど、私にはいつも優しくて、本当の妹みたいだと言ってくれた。最後のほうは親友のように心から本音で語り合える関係になっていたから、彼女を騙していることに苦痛を覚え始めていたのは事実よ。できることなら、お姉さんがファーストキャストで、百合亜さんがセカンドキャストで、二人とも舞台を踏める方法はないかとも考えたわ。もし、そんな方法があれば……」


 琴美はそこでいったん言葉を区切ると、感傷を振り切るようにつづけた。


「でも、彼女は実際に貝原を殺したのよ。その手にかけたの。刑務所に入るのは当然。そう思うことにしている」


「そうね」


 敦子は頷いた。


「でも彼女の歌は本当に素晴らしかった。痺れるくらいに惚れ惚れしたわ。あれほどの歌い手には今まで出会ったことがないし、これからもきっと出会うことはないでしょう。できることなら、一度でいいから彼女が実際に舞台でミミを演じる姿を見てみたかったわ」


「ええ、私も」


 琴美は深く共感するようにうなずいた。


「あの人は、音楽の女神に選ばれて生まれてきた人だと思う。真の天才と呼べる数少ない歌い手の一人」 

 

 姉妹はしばし沈黙し、人生を転落した同業者のことを思った。


「さぞ苦しいでしょうね。歌うために生まれてきたような人が、この六年間人前で歌うことを許されず、今度は塀の中に閉じ込められて、外界とは一切遮断されてしまった。もう二度と陽のあたる場所には戻ってこれないかもしれない」


 敦子は、百合亜の境涯に自分を重ね合わせるように、


「……正気を保ち続けられるかしら」


 と、心配そうにつぶやいた。

 同じ魂を持つ歌い手だからこそ、その絶望の深さが手に取るように分かるのだろう。


 すると琴美はきっと目線を上げて、まっすぐに姉を見つめ、


「彼女なら大丈夫」


 と、力強く言った。


「そうかしら」


「今頃はきっと……指につばを吐いて、壁に絵を描いているわ」

「え?」


 敦子は意味がわからない様子で、怪訝そうに妹を見つめた。


「指に……つばを……?」

「ええ」

「どういう意味?」


 琴美はそれに答えず、代わりにふっと微笑してかぶりを振った。カクテルを手に取り、心にわだかまった小さな罪悪感を振り払うように一息に飲み干す。空になったグラスをきつく握り締め、そのまましばらく視線を当てていたが、やがてゆっくりと顔を上げた。


「お姉さん」

「なに」


 琴美の顔が紅潮する。思いつめたように口を開く。


「私、お姉さんや百合亜さんみたいな女優になる。本物のアーティストになる!」


「なによ、いきなり」


 敦子は戸惑ったように顎を引いた。


「絶対になる。だって、そうじゃなきゃ……そうじゃなきゃ、私……」


 その目にみるみる涙が溢れ、粒になって頬に筋を描いた。嗚咽(おえつ)を発し、しゃくりあげるように胸を波打たせる。身も世もない泣き方だった。


「どうしたのよ、いったい」


 敦子は驚いていた。 

 妹がこんな風に感情をあらわにする姿を見るのは初めてだった。

 常に世の中に対して(はす)に構え、今回の計画も冷徹に淡々と推し進めてきた琴美が、いったいどうしたというのだろう。

 小さな子供のように泣きじゃくっている。

 

「だって……百合亜さんに……百合亜さんに、私……」


 言葉がそれ以上つづかない。嗚咽はますます激しくなる。


 敦子は、虚飾をはぎとった妹の、本当の心根(こころね)を垣間見たような気がした。

 彼女は彼女なりに、今回の件で深く傷ついているのだろう。


「変な子ねえ」


 笑いながら、琴美の頭をやさしく撫でた。

 撫でながら、敦子の瞳にもうっすらと涙の膜が張って、赤く(うる)み始める。


 

 二人の女優はこの日、にがい勝利の味をかみしめながら、明け方近くまで痛飲した――。

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