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エピローグ

 その女子刑務所は、関東の北西部、だるまの産地として知られる中核市の、市街から少し離れた森の中にある。


 昭和初期に建てられた赤レンガ造りの建物はたびたび建築雑誌に取り上げられるほど有名で、休日にはアマチュア写真家が遠方からわざわざ撮影に訪れるほどだ。近代的なビルへの建て替えが何度か検討されたが、その度に効率や利便性よりも美的景観を重んじるべしとの意見が勝利し、修復や建て増しを繰り返しながら往時の外観を今に保っている。


 その女子刑務所で、数ヶ月前から夜九時を過ぎると歌声が鳴り響くようになった。


 九時は受刑者の就寝時間である。

 消灯と同時に、ある独房から歌声は流れ出す。


 オペラのアリアと思われるが、所内に楽曲名を知る者はいなかった。 

 その声は、幾重にも張り巡らされた分厚い壁を軽々と突き破り、所内の隅々にまで轟き渡った。


 寝入りばなの受刑者たちにとって堪ったものではない。


「うるさくて寝られない」

「一体誰が歌ってるの」

「すぐにやめさせて」


 非難の声が轟々と湧き起こった。


 刑務官は歌が聴こえるたびに独房へ注意に行く。すると一時(いっとき)はおさまるのだが、刑務官が離れるとすぐに再開する。

 いたちごっこが繰り返され、刑務官はその処遇に頭を痛めた。力づくで黙らせようともしたが、夜中じゅう押さえつけているわけにもいかず、手を離すとすぐに歌が始まってしまう。所内の東隅にある最も分厚いコンクリート壁の独房に閉じ込めても、彼女の歌声は苦もなく西隅の看守長室まで届くのだった。


 処置なしだ。


 諦めムードが漂い始めた時、刑務官らはあることに気がついた。

 曲は毎日同じで、決まって三曲。

 その三曲が終わると、あとは静かになるのだった。


「だったら、いっそのこと三曲だけ我慢するって手もありますよね」


 若い女性刑務官が言った。


「それしかないかな」ベテランが応じる。


 その頃、受刑者たちの心にも変化が表れ始めていた。あれほど「うるさい」「寝られない」「黙らせて」と言っていたのに、連日歌声を聴くうちに、


「心が鎮まって穏やかな気持ちになれる」

「あれを聴かないと眠れない」

「夜はいつも後悔と罪悪感で叫び出したい気持ちだったのに、あの歌声によって癒された」


 と、百八十度意見が転換してしまったのだ。


「どうか彼女に歌わせてあげて」


 と逆に刑務官に懇願する者まで現れる始末。


 そんな時、初老の男性刑務所長が転任でやってきた。

 名を早乙女五郎(さおとめごろう)と言った。


 早乙女は夫婦でオペラ鑑賞を趣味にするほど音楽に造詣が深く、歌声を少し聴いただけで、


「ラ・ボエームですね」


 と言い当てた。


 そして歌声の主である女囚の資料に目を通すや、


「ああ、彼女でしたか」


 懐かしそうに、相好を崩した。


 早乙女は以前、女囚の出演するオペラを何度か見たことがあるという。不世出の歌姫と謳われ将来を嘱望されていたが、ある事件をきっかけに表舞台から姿を消してしまった――。


「まさかこんなところで彼女の歌が聴けるとは思いませんでした」


 早乙女は若い刑務官らを前にこう言った。


「あなた方は幸せですよ。どんな大金を積んでも彼女の歌を聴きたいという人が、世の中には大勢いるのです」


 早乙女の影響だろうか。その後刑務官たちは百合亜の歌声に注意深く耳を澄ますようになった。

 毎日聴くうちに、歌に興味がなかった者まで、いっぱしの鑑賞者に成長していく。


 やがて所内は夜九時を過ぎると、物音一つしなくなった。

 誰もが動きを止め、女囚のアリアに聴き入るのだ。



 大晦日の夜。

 早乙女は何人かの刑務官とともに夜勤をしていた。


「ご苦労さん。こんな日に大変だね」


 自分のことはさておき、若い刑務官らにねぎらいの言葉をかける。

 夜八時を過ぎた頃、彼は所長室に二名の刑務官を招き入れた。


「今日くらい、いいでしょう」


 そう言うと、棚から高級なバーボンを取り出し、二人に振る舞う。


「勤務中ですが、いいんですか?」


 二人は不安そうに訊いた。


「大晦日に働いているんですよ。これくらい許されます」


 早乙女はにっこり笑った。「でも一杯だけですよ」


 二人は安心したようにグラスに手を伸ばし、テレビに目をやった。

 公共放送が映っている。年末恒例の歌の祭典だ。


 早乙女と二名の刑務官はしばし酒を傾ける。

 早乙女は二人に、仕事上の不満や要望はないか訊ねた。所長として聞いておきたいという。

 戸惑ったように顔を見合わせる二人に、今日は無礼講で行きましょう、と早乙女は言った。


 その目尻を下げた包み込むような笑顔に、二人は安心したように話し始める。

 もっと更生という観点に立ったプログラムが組めないかという提案から、小学生の娘が親の職業を軽蔑して友達を官舎に呼ぼうとしないという愚痴まで、内容は多岐にわたった。


 早乙女は終始穏やかな顔でそれを聞いていた。ふと、柱時計に目をやる。


「そろそろ九時ですね」


 刑務官の一人が言った。


「そうだな」


 その時、テレビでは司会者が興奮気味に海外からのスペシャルゲストを紹介していた。鳴り物入りで招かれたのは、アメリカの素人オーディション番組で優勝し、世界的に有名になった中年女性だ。

 数年前にもゲストで招かれ、その歌声で日本中を魅了した。今回、視聴者からのアンコールの声に応えて放送局が再びアメリカから呼び寄せたのだ。


 紅白歌手全員が出てきて、彼女を迎え入れる。

 盛大な拍手が客席から沸き起こり、彼女はアリアを歌い始めた。


「どうだろう」


 早乙女が二人の刑務官を見て言った。


「今日は大晦日という特別な日だ。明日からまた新たな一年が始まる」


「はい」


「こんな日は、本物の歌を聴いて、今年一年を締めくくりたいと思うんだが」


「そうですね」

「賛成です」


 二人の刑務官は顔を見合わせると、にっこり笑って頷き合った。


 次の瞬間、テレビの電源がぷつんと切られた。



 三人はソファに深く背をもたせ掛け、目を閉じる。



 室内を静寂が包み込む。



 やがて――、




 ラ・ボエームのアリアが、(おごそ)かに流れ始めた。




   

            



                (了)









 引用文献

 オペラ「ラ・ボエーム」劇中歌「「私はミミ」

 NHK番組「アクターズスタジオ・インタビュー ダスティンホフマン自らを語る」

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