第十五話 喉は命よりも大切
三十分後、私は横浜西署の取調室にいた。
前回と同じ部屋だろうか。ぐるりと周囲を見回す。同じような気もするし、違う気もする。まあ、そんなことはどうでもいい。
前に脇坂、後ろに宮部が座っている。
私は妙に落ち着いていた。
「貝原さんが殺害された事件はご存知ですね」
脇坂が訊いてきた。
「はい。稽古場で仲間の俳優から聞きました」
「それまではご存知なかった?」
「ええ」
「テレビでもかなり取り上げられていましたが」
「あいにくテレビは見ませんので」
「ネットニュースでもトップ扱いでしたよ」
「ネットも見ません」
「そうですか」
脇坂は頷いて、テーブル上のメモ帳に視線を落とした。
「実は、昨夜、匿名の電話がありましてね。貝原さんを殺したのは水原琴美さんだというタレこみです」
「そうですか」
「琴美さんは貝原さんからレイプされ、逆上して刺し殺したと」
「へえ」
「かなり詳細な内容まで含んだ電話でした。すぐに琴美さんのアパートへ向かい、事情聴取させていただいたんですが、琴美さんは、そのような事実はない、貝原さんのマンションにも行っていないとおっしゃるんです」
私は表情を消した顔で脇坂を見た。
「念のため、身体検査をさせていただきたいと申し上げると、快く応じてくださった。膣内の検査も自ら申し出てくださったんです。非常に協力的で本当に助かりましたよ」
「そうですか」
「で、検査の結果、琴美さんの膣内から貝原の体液は一切検出されませんでした」
私はピクリと反応したが、すぐに目を伏せた。
「貝原さんのマンションも入念に調べましたが、琴美さんの指紋は一切検出されませんでした」
「なんですって」
という言葉が口元まで出かかったが、もちろん押し殺した。
「驚かれましたか?」
脇坂が探るように訊いてきた。
「何がです?」
私はきっとした目で見返した。
脇坂は一枚の写真を取り出し、私に見せた。
そこには、貝原のマンションに入っていく私の姿が映っていた。服装からして明らかに昨夜の私である。
「これは……」
思わず声が口を衝いた。一体なぜこんなものが――。
「匿名の投書があったんです。これはあなたですね」
「ええ。でも……」
「日付は昨夜の午後九時三十分になっています」
「偽造です。日付を偽装しているんです。昨夜私は貝原の家になど行っていません」
刑事は写真を指差し、
「では、この洋服を提出していただけますか」
「なぜです」
「ルミノール反応を調べたいので」
「ルミノール反応?」
「死亡推定時刻は、午後九時から十時半の間で、丁度あなたがマンションに入っていかれた時刻と合致するんですよ。もしあなたが犯人なら、返り血を浴びている可能性が高い」
「それは昔の服で、今はもうありません」
「しらばっくれるのは、おやめなさい」
脇坂が語気を荒げた。
私はその物言いにカチンときて立ち上がり、身を翻して取調室を出ようとした。
宮部が行く手に立ち塞がる。
「あなたが犯人であることはもう分かっているんですよ」
そう言うと、懐からICレコーダーを取り出し、スイッチを押す。
音声が流れ出した。
『どうして手袋なんかはめてるんだい?』
『え? ああ、これ? 指紋がつかないようにするためよ』
『指紋?』
私はあまりの衝撃に、あんぐりと口を開けたまま固まった。
『そう。指紋が残ったら、面倒なことになるでしょう』
『どうして?』
『どうしてって、決まってるじゃない。それはね……こういうわけよ』
貝原の絶叫が轟き渡り、続く「ゆ、ゆ、百合亜」と呼び掛ける断末魔の声に、私は思わず耳を塞いだ。脇坂も黙祷するように目を伏せる。
レコーダーには昨夜の貝原と私の会話が収録されていた。
――どういうこと。
誰かが盗聴器を仕掛けたのだ。それはもちろん、琴美以外にありえない。彼女は貝原の部屋に盗聴器を仕掛けて帰り、私が貝原を殺害して去った後、再び侵入して回収し、指紋も全て拭き取った。
なんという女だ。
「そんなもの証拠にならないわ」
私はテーブルを叩いて叫んだ。
「もう諦めなさい」脇坂が諭すように言う。
「諦めるものですか。私はやっていないんだもの」
「動かぬ証拠がここにあるんですよ」
「それは演技よ」
「は?」
「貝原と台詞の読み合わせをしていたの。それを琴美がこっそり録音して、私を陥れようとしている。あの女は悪魔よ。私から何もかも取り上げようとする悪魔」
「落ち着いてください」
「犯人は琴美よ。彼女は昨日あのマンションに行って、貝原に犯されたの。それで逆上してナイフで刺し殺した。本当よ。もう一度ちゃんと調べて。お願い。あの女がやったことなの」
「琴美さんは貝原のマンションには行っていないんです。行く理由もない」
「あるわ。彼女は片桐あずさを殺しているの。それを貝原に見られて、脅されてたのよ。だから昨日あのマンションに行ったの」
「徳大寺さん」
脇坂が私の両肩をがしりと掴んだ。
「それは琴美さんではなく、あなたの話でしょう」
「え」
私は脇坂を見つめた。
「貝原さんの部屋の金庫から、こんなものが出てきたんです」
そう言って、床に置いたバッグの中からビニール袋に包まれた象の置物を取り出した。
「そ、それは……」
「滝沢さんにお聞きしたら、片桐あずささんの楽屋にあったものに間違いないと仰いました。ところがなぜか、事件後見当たらなくなっていた。調べてみると、あずささんの頭部にあった陥没と、置物の形状がぴたりと一致したんですよ」
「……」
「この置物には、あずささん以外の指紋が一つ付着していましてね。その指紋の主が百合亜さん、あなたなんです」
私は茫然と立ち尽くした。
「違うの。そうじゃないの」
全身がわなわなと震え、目からは涙がほとばしる。
「私じゃないの。私はやっていないのよ。本当よ。全てはあの女がやったことなの」
頭の中が渦を巻くようにぐるぐると回り始めた。めまいが生じた時のように、前後左右の感覚が失われていく。
「悪魔なの、あの女は。枕営業をやって、男を手玉にとって生きてきたの。ミミ役を奪うために、あずさを殺し、私を陥れた――。なんていう女なの。何がダスティン・ホフマンよ。何がピカソよ。指に唾を吐いて壁に描くですって? 冗談じゃないわ」
身体が意図せず左右にふらつき、後方に倒れそうになったところを宮部が受け止めた。私は両手を振り回して彼から離れ、負けてなるものかと大声で叫んだ。
「芸術を馬鹿にしないで。芸術家の魂を踏みにじらないで!」
「徳大寺さん」
「私には使命があるの。音楽のミューズから与えられた偉大な使命よ。私にしかできない仕事」
「徳大寺さん。落ち着いて」
「本物のミミを人々に見せてあげるの。本物の歌とは何かを教えてあげるの。誰にも邪魔はさせないわ。誰にも私の芸術をさまたげる権利はない!」
「徳大寺さん」
「私に歌わせて! お願いだから、私にミミを演じさせて!!」
喉が痛くなってきた。やすりで擦られたように、ひりひりしている。
大声で泣き叫ぶという行為は、物心ついた頃から一度も経験したことがない。声帯を傷つけるからと母にかたく禁じられていたのだ。
――喉は命よりも大切。
それが私たち声楽家の信条だ。激昂して我を忘れた時でも、無意識に喉を守って発声してきた。
その私が今、声帯から血を噴き出さんばかりに絶叫している。
間違った発声で声をからしている。
まるで猫が締め殺される時の声のようではないか。
だが、それにしても、なんと気持ちがいいんだろう。
大声でわめくと、大声で泣き叫ぶと、身体の中の汚いものや余分なものが綺麗さっぱり洗い落とされ、心が澄み渡っていくように感じられる。
こんなことなら、もっともっと泣き叫べはよかった。もっともっと喚き散らせばよかった。
そうすれば、刃物や鈍器で人を傷つける必要もなかったのかもしれない。
脇坂と宮部が必死に何か言っているが、まったく内容が聴きとれない。遠くでこだまのように鳴っているだけだ。
やがて自分の声も聴こえなくなっていった。
ゆっくりと、まるで終演の幕が下りるように、意識が遠のいていく。
全てが白く霞んでゆき、あとは――無。




