第十四話 清々しい朝
翌朝、私は目覚ましが鳴る前に、カーテンの隙間から差し込む淡い光に促されて目を覚ました。
外から小鳥のさえずりが聞こえる。
カーテンを開けると、隣家のテレビアンテナにつがいのヒヨドリが仲良く並んで止まっている。
窓を開くと、冷気を含んだ早朝の爽やかな風が室内に流れ込んできた。
久しぶりのすがすがしい目覚めだった。
本当に何年ぶりだろう。なんの憂いも屈託もなく、目の前に悠然と大海原が広がるような清新な朝を迎えるのは――。
まるで二十代前半に戻ったような感覚だ。
六年間の冷凍された時間から、私は今、目覚め、解き放たれたのだ。
行く手を遮るものは、何ひとつない。夢と希望だけがふくらんでいる。
本当の人生がここから始まる――。
ミミを演じることだけに没頭できる至福の時間を、一瞬一瞬、大切に味わいながら過ごしていこう。これまでの苦難も失意も絶望も、この時を迎えるために必要な試練だったと考えれば、すべてはかけがえのない人生の糧だと振りかえることができる。
過去の膨大な負債は、巨大な貯蓄となって私のもとへ還ってきた。今こそ真の意味でミミの魂を演じ切ることができるはずだ。
なぜなら、今の私はミミそのものなのだから。
ミミと同じ苦難と絶望を乗り越えてきたのだから――。
ゆっくりとシャワーを浴び、ラフな服装に着替えて劇団へ向かう。
稽古場に入ると、大騒ぎになっていた。
「まったく、なんでこんなことが立て続けに起こるんだよ」
鮫島が外部オーディション組の俳優たちと興奮気味に話している。
「何かあったの?」
私は空とぼけて訊いた。
「ニュース見てないの?」
「何の話?」
「舞監の貝原さんが殺されたんだよ」
「なんですって」
自然な発声で言葉が出た。
「それも、犯人は琴美だっていうんだぜ」
外部オーディション組の一人が言った。
「琴美が……でも、どうして?」
私は驚きを表現するように大きく目を見開いた。
「知らないよ。昨日、深夜に逮捕されたらしい」
「匿名の電話が警察に入ったそうだ」
鮫島が言った。
「琴美を犯人と名指しする電話だったらしい」
「そんな……」
私は口を手で覆い、近くの椅子に座り込んだ。
「まったく呪われてるぜ、ラ・ボエームは」
「主役と舞監が殺されて、しかも犯人がミミ役のアンダースタディときてる」
「これじゃ、公演どころじゃないだろ」
外部オーディション組が嘆きの声を上げていると、
「そうかしら」
後方から西條敦子が会話に割り込んできた。
「いい宣伝になったと思えばいいのよ」
しれっとした顔で、笑みさえ浮かべている。
「考えてもみてよ。広告費を一銭もかけずに、ラ・ボエームの名は全国に轟いたのよ。恐いもの見たさで、みんな興味津々よ。黙ってたってお客は列をなしてやってくる。こんなうまい話はないわ」
「ま、そういう考え方もありますかね」
外部組の一人が肩をすくめて言った。
敦子は視線を私に移すと、
「ミミを演じる女優は、将来が約束されたようなものよ。知名度は一気にはね上がり、応じきれないほどのオファーが殺到するわ」
そう言って、ウィンクしてみせた。「うらやましいくらい」
扉が開き、桜井が入ってくる。
「すいませんが、練習の開始を三十分ほど遅らせていただきます」
「何かあったの?」敦子が訊いた。
「今、急に警察の方が見えて、滝沢先生と話をされているんです。終わり次第、始めますので」
桜井は再び外へ出ていった。
「警察が何の用だろう」
鮫島が言った。
「また誰か殺されたんじゃねえか」
「もう嫌だぜ、これ以上のトラブルは」
外部組の二人が、うんざりしたように顔を見合わせる。
二十分後、滝沢が稽古場に入ってきた。明らかに様子がおかしい。顔は蒼ざめ、全身が小刻みに振動しているのが遠目にも分かる。稽古場内は一瞬にして緊張に包まれた。
「百合亜」
突然、私の名が呼ばれた。
「はい」
「ちょっと来てくれ」
そう言うと、滝沢は振りかえり、逃げるように外へ出ていく。
俳優たちがざわつき出す。彼らの視線は一斉に私に注がれる。
「何かしら?」
隣の鮫島に言って、私は立ち上がった。
廊下へ出ると、二人の刑事が立っていた。脇坂と宮部だ。
だがそれよりも、宮部の脇に立つ女性に私の目は釘付けとなった。
「琴美」
水原琴美である。
「どうして……」
なぜ彼女がここにいるのだろう。
「釈放されたんです。無罪放免で」
琴美は花がほころぶように満面の笑みを浮かべる。
「徳大寺さん」
脇坂が穏やかな声で切り出した。
「あなたに二、三お伺いしたいことがございまして、お手数ですが署までご同行願えますか」
「すいませんがこれから稽古なんです。お断りします」
「その点でしたら、滝沢さんから許可をいただいておりますので」
私は滝沢を見た。
「稽古の方は琴美が代役を務めるから大丈夫だよ。警察に協力して差し上げなさい」
滝沢は笑顔を浮かべ、これ以上ないほど優しい声で言った。




