湖畔
空は高く青く晴れ渡っていた。
ダム湖の水面は、穏やかなさざなみが表面を揺らし、夏の強い陽光を、細かく反射してきらめいていた。
どうやら、あの黒い濁流に飲み込まれて、沈んでいくことは無かった様だ…。
高く濃い青い空を眺めながら、リュッ君はそう思った。
気が付いたときには、もう日が昇っていた。あの時の黒い、泥のようだった湖面も、今はすっかり普通の湖の水と化している。そして今、リュッ君はダム湖の沖で、ひなびたズタ袋のようになって、流れに身を任せて、その身を浮かべて空を眺めていた。
あの夜、ユウキを白い獣のほうに撃ちだして、自分は沖に流されて…。
「ゆうきい!あと、ひとつだ!あとひとつで家に帰れるぞう!」
そう必死で叫んだ後、高波に飲まれて、濁流の底に沈んでいった。
そこまでは憶えているが、その後は、そのまま気を失ってしまったのか、気が付いたらダム湖の沖に浮かんで流されていた。
「…いっそ楽にしてくれりゃあいいのによ…」
おりゃあ…、何時までこんな感じで流されていればいいんだろうか?
神社の賽銭箱に捨て置かれて、ユウキが来るまでの放置期間は、一体どのくらいだったろうか?リュッ君には、放置されるそれ以前の記憶はとてもあいまいにしか残っていなかった。自分が捨て置かれていることを認識し始めるまで、リュッ君はただ、そこにぼんやりと、ただあるだけだった。
なんとなく日数を気にするようになり、日の出と日の入りの回数を数えるようになった。
しかし、あるはずの四季が無く、百の日数を超えたところから、季節が夏から一向に変わらないことに気が付いて、そのまま数えるのをやめてしまった。
ユウキが現れたのは、それでも、一年はたっていないのだろうか?それも良くは判らなかった。
初めは、わんわん泣くユウキを気にも留めていた無かった。
しかし、青い☆を手にしているのを見たときに、なぜかリュッ君に、あの子供に☆を手に入れさせなくてはいけないという衝動が走った。声を掛けて、☆を口に入れさせて、あの子供を家に帰らせなくてはいけないという使命感が、突然振って沸いたように生まれてしまった。なによりも、そうすることで、自分もこの状態から脱出することが出来るかもしれない…。
当てもなくそこに捨て置かれていたリュッ君には、それは強烈な衝動だった。
どうせ、他にやることも無い。
しかし、今から考えると、その衝動の確信は何処から来たのか、リュッ君にはさっぱり判らなかった。ただ、そうしなければならないという欲求だけがそこにあって、今もそれは変わらなかった。
ユウキに話しかけた後は、記憶しているとおりだ、ここまで来て、三つ目まで、赤、青、黄色と輝く☆を手に入れて、後の一つ、緑の☆も手に入れれば、ここから脱出して、あいつも、俺も、このわけのわかならない、廃墟ばかりの場所から脱出することが出来る。はずなのに。はずだったのに…。
「大丈夫だあ!お前ならやれる!あとひとつだがんばれい!」
あの時は、勢いに任せてああは言ったが…、果たしてどうだろうか?
離れ離れになったユウキは、ちゃんとやっているだろうか?
ヒントも無い、道具もない、助言できる誰かもいない。
「あのでかい白い犬はいけるのかな?」
それもわからない。正直、絶望的なんじゃないか?
でも、それも仕方がない、俺は一人では動けないし、今はダム湖の流れに身を任せるだけの無力な存在だ。どうしようもない。
ずっと、湖に浮かびながらリュッ君は、とりとめも無く、そんなことを考え続けていた。
すまねえな、少年。
リュッ君は、諦めにもにた気持ちでそっと目を瞑って、そのまま浮かぶに任せていた。
水面の上を柔らかな風が吹き、かすかなさざなみを立てていく。
湖の上を漂流するリュッ君。
そんなリュッ君に、なにか硬いものがあたる感触があった。
その感触は徐々にリュッ君の体を捕らえて、ゆっくり引き寄せようとしているかのよう感じられた。おや?なんだろう?と、目を開けて、堅いものがあたるほうを見ると、長い棒っきれがリュッ君の体に当たって、手繰り寄せようとしているのが分かった。
棒の先を見ようとしたとき、その棒っ切れがリュッ君のストラップを引っ掛けて、ザバアッと、水面からその体を引き上げた。
「わわわ!」
空中に引き上げられたリュッ君が、するするすると棒っ切れを伝って下に下りてくる。
そんなリュッ君の肩賭けを、むんずと掴む手がリュッ君を空中にぶら下げた。
見るとそこには、ギラギラと光る二つの眼があった。
「キキッ!」
「うわっ!」
こいつは、あの遊園地にいた!
そこには、片手でリュッ君んを持ち上げ、下からもの珍しそうに覗き込む、猿のような影の姿があった。首をかしげ、リュッ君を目の前まで近付けるとまじまじとその姿を眺め始めた。
いや、遊園地にいたあのサルよりも、こいつのほうがはるかにでかい!
ザワザワと蠢く黒い粒子と、にんまりと細くなるギラギラとした目のような光。片手でつまんだリュッ君を、鼻先まで近付けると、クンクンとその匂いを嗅ぎ始めた。
「くッ!離せ!」
よじるように、体をひねるリュッ君。
そんな様子を首をかしげて見ている大影猿だったが、やがて、リュッ君の肩掛けに、無理やり手を通して背中に担いでしまった。大影猿の背中はやや広く、肩掛けが少しピンと伸びている。きりきりと引っ張られるように背中にへばりつくリュッ君。
逞しい背中に担がれ、大の字に広がったリュッ君を揺らして、大影猿はそのまま木を伝って山を登り始めた。
「くそう!またかよ!なんなんだ、こんちきしょうめ!」
大影猿は、微妙に暴れるリュッ君の声を気にも留めずに、どんどん山肌を上に向かって登っていった。




