決壊
「消えちゃう…?」
ダムのコンクリートから伝わって来る放流の地響きがユウキを揺らす。
リュッ君は、階段のほとりに立っているノッポの影のほうをじっと見つめていた。大きな窓から陽光が差す室内は、下に行くほど薄暗く暗く影が落ちて、ノッポの影が立っている下り階段のあたりは、すでに真っ暗だった。光が届かない足元は、ノッポの影が今にも消えてしまいそうなほど暗い闇が広がっている。
「ユウキ、ここで、こいつとはお別れだ…、今から東のほうの広場に向かって待避しよう」
ユウキが、お腹のリュッ君のほうを向く。
「あのノッポの影に、お礼とお別れを言っておこうぜ」
ハッとして、前を向くと、ノッポの影の姿が、闇にどんどん蝕まれ、溶け込んでいく。
「ホッホー」
会釈をするように、片手を上げるノッポの影。
「あ…、ありがとう!ノッポさん!」
ユウキが、ノッポの影に叫ぶと、じわじわと室内が完全に暗い闇に覆われて、ノッポの影の姿も闇に飲み込まれていくように消えていった。それを見てユウキが、「あっ…」っと、体を引いた。
「さあ行こう!ユウキ」
リュッ君に促されて、ユウキがそこから離れると、建物の脇に置いてあったクーラーボックスと水筒を拾って担ぎ上げ、ダムの天端を、東の広場に向かって駆け出していった。走るユウキがダム湖のほうに目を向けると、先程より湖の水位が下がっているようにみえた。水中から水面を照らす☆の黄色い輝きも、先ほどよりも眩しく帯を広げているように見える。
「ユウキ、あの管理棟のある広場まで行けば、ダムの崩壊に巻き込まれないで済むようだ。あそこまで行こう」
発電所で鳴らしたサイレンはスピーカーから流れ続けて、ダムの周辺に広がリ響いていた。
あのサイレンの音が切れたら、ダムの崩壊が始まる。
リュッ君は、あのノッポの影が言った言葉を頭の中で反芻していた。
ダム湖を支える堤体は全て押し流されてしまう。動き出した時間が、このダムを本来の姿に押し戻していく。ありがとう。そして、行ってくれ。山間にある広場は、崩落から間逃れることができるだろうが、それ以外は土砂と化して全て下流に流される。
あのノッポの影はそう言っていた。しばらくは私が食い止める…。サイレンが鳴り止む時、時間の流れが一気に加速する。その前に広場に待避しろ…。
いつサイレンが切れるかはわからないが、ユウキと退避できるまでは、持たせてくれよ!ノッポの影!天端を走るユウキのお腹で揺れているリュッ君は、心の中で強くそう願った。
ゴオオオン
走るユウキの後ろから、大きな轟音が響いた。ダムが揺れ、バランスを崩したユウキが思わず「うわっ!」と声を上げて倒れそうになる。すると、サイレンを鳴らしているスピーカーから、ブツッ…と、配線がキレるような音が鳴った、その直後、ずっと鳴り続けていたサイレンの音が歪んで途切れ、スピーカーのハウリングと共に聞こえなくなった。
「早えよ!」と思わず叫ぶリュッ君。
「ユウキ、走れ!」
リュッ君に促されたユウキが、生唾を飲み込み、広場に向かって走って行った。
ドウン!と、ダムの提体から大きな音が再び上がると、天端の中心にある入り口の張り出しが、ザワッと揺らめき、その場所から黒く変色していった。
ユウキが広場に到達して振り向くと、黒く変色していくダムの提体の姿がユウキにも見えた。激しく息を切るユウキと、お腹のリュッ君の目の前で、ダムの中心が凹んで歪み、黒い粒子と化していく。さらさらと、まるで砂で出来た楼閣のように千切れて舞い散っていく。そして、黒い変色が、激しく水飛沫が放流されるゲート付近にまで到達すると、そこから一気にダムが崩落し、大量の湖の水がダムの提体を押し崩していった。
湖の水が、崩れたダムの方角へ一気に流れ込んでいく。ダムの提体が、中心部から押し流され、黒い粒子と白い霧のような水飛沫が、混じって舞い上がり、灰色の濃い煙幕が霧のように視界を奪っていく。崩れた穴はどんどん広がって、みるみるうちに、両端の広場のふちまで到達して押し流されていった。
あっという間の出来事に、動けずにいるユウキ。足元近くまでコンクリートの崩落が迫ってくると、ユウキは驚き「わわっ!」と悲鳴を上げて、後ろに倒れて尻餅を付いた。崩れていく天端を追いかけるように、黒い粒子が迫り、ダムをどんどん流砂のように崩していく。そして、成す術もなく尻餅を付くユウキの足元にも、その崩壊は迫ってきた。
観念したかのように目をつぶるユウキに、お腹のリュッ君が、「ユウキ!下がれ!下がるんだ」と懸命に叫ぶ。
崩落していくダムのふもとから、突風が激しく舞い上がりユウキに吹きつける。風と水滴と砂塵が混じった濃霧が当たりに立ち込め、ユウキとリュッ君に容赦なく吹きつけてきた。
ダムの崩れる音と、湖の水が流れていく音が激しい轟音を上げて地面を揺らす。
ダムを崩壊させた湖の水は、どんどん勢いを増していくと、土石流となって先ほどまで穏やかだったふもとの河川を激しく飲み込んで行った。草木の生える広場も発電所も黒い泥の中に沈めていく。そして、雪崩のように波打って、さらに下流へと突き進み、木々をなぎ倒し、岩石を露出させ押し流していく。まるでどす黒くのた打ち回る蛇のように、その激しく渦巻く濁流で、下流の山々を飲み込んでいった。
ゴオオオオ…
長く続いた、轟音が小さくなり、地面の揺れも小さくなっていった。
顔を覆ってうずくまっていたユウキが、ゆっくりと腕の隙間から前方を除き見ると、目の前は、霧雨と砂塵が交じり合った煙霧で覆われ、周りは薄ぼんやりとしか見えなくなってしまっていた。顔を上げて周りを見ると、まるで突然スコールに見舞われたかのように、あたり一面を灰色で覆われていた。
「ぶへっ!うへっ!こりゃひでえ…ユウキ!大丈夫か?」
「う…うん。大丈夫」
ユウキはゆっくり立ち上がると、周りを見回した。地鳴りのような低い振動音や水が流れる音があちこちから聞こえてくる。あたりを良く見るため、一歩前に足を踏み出した。
「うわっ!」
驚いて、思わず後ろへ飛びのくユウキ。ダムの崩落はユウキの足元手前で止まっていた。今まで湖をさえぎっていたダムが、完全に崩落してなくなってしまっている。ユウキの目の前は、途切れたコンクリートの断崖と、ぽっかりと失われた空間に、濃霧が一杯に満たされて広がっていた。その霧の向こう岸は、まるで水墨画のように、黒く滲んだ向こう岸のシルエットが浮かび上っていた。
呆然とするユウキ。湖面一杯に満たされていたはずの水面は見当たらず、今はすっかり抉り取られて無くなってしまったダムの窪地から、湖の水が大量に流れ出し、湖の水位は驚くほど下がってしまっていた。リュッ君も突然起こった惨状にあっけに取られるように声を失い、目の前に広がる釜の底が抜けたようなダム湖の残骸を見つめていた。すると、見つめるその先の高台のような場所にキラキラと金色に光る輝きが目にとまった。
「おい!ユウキ、あれ見てみろ!あれ!」
リュッ君がユウキのお腹から呼びかける。ユウキもその光の明滅を見つけた。
湖のすり鉢の先の少し小高い丘の上、灰色の靄がかかるその先に、柔らかく広がる美しい光の帯がぼんやりと見えた。その光は、まるでユウキ達に場所を知らせるかのように、ゆっくりと明滅していた。




