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雨妃





 うららかな雨が降っている。春陽を溶かしきらめいている。花や緑や土を潤し、澄んだ光で彩っていく。軒の下から差し出す袖に、音もなく落ち、風に流れた。

 今朝早く、王妃が世継ぎを産んだ。王宮はかつてない熱気に包まれ、高官から下働きに至るまで、足が地につかなくなっていた。昼を過ぎてから降りだした雨は、落ち着きのない王宮を宥め、柔らかく包むようだった。

 父となった国王()ギョンは、雨垂れをうけた袖を見ていた。深い紅に跡は残らず、さらりと、乾いたままだった。この透き通る祝福を、呪詛であるとでも、言うのだろうか。暻はそこにない雨の雫を、振り払うように身を翻し。妻と子のもとへ向かって行った。雨は光を置いてあがった。



* *



 群青の袍のよく似合う、凛然としたひとだった。背が高く姿勢も整っており、色白で鼻筋の通った顔だち。切れ長の目は光を湛え、見る者すべてを惹きつける。けれども、あまりに強すぎるのか、滑らかな頬に落ちて映った、睫毛の影が濃く感じられ。

 雨喜ウヒは、その強い光に、濃い影に触れてみたく思った。触れて、和らげたいと願った。いつか、かならずできると信じた。いちばん、そばにいることになる。このひとの妻になるのだから。

 雨喜は世子セジャビンに選ばれた。いずれこの国の王となるべき、世子セジャ李暻の妻になるのだ。今日は婚礼前の顔合わせ。ひとつ年下で十三の暻は、雨喜を居所の前庭へ、みずから案内してくれた。端正な石床にすらりと佇む、そのすがたを雨喜は静かに見つめた。

 このひとに望まれ、選ばれたのではない。愛されて迎えられるのではない。世子嬪選抜の揀択(カンテク)で、最後まで残っただけのこと。それでも、生涯このひとと歩む。

 貫くように光る瞳が、いまはこちらへ向けられなくとも。いつか、かならず見つめあい、触れあうことができるようになる。それは、果たすべき使命でもある。いつか、いつかは国母となるのだ。名門の実家(チェ)家の繁栄、王の重臣左議政(チャイジョン)である父の、さらなる栄華のために。

 けれど、そちらを忘れるほどに。雨喜は目を離すことができず、己を果報者だと、思う。背負わされたはずの使命と、胸中に生まれ落ちた願いを、同時にかなえられるのだ。見入る秀麗な横顔に、薄くせつなげな夕日が落ちた。



* *



 婚礼から五年の月日が流れた。さらに凛々しく逞しくなった暻は、世子嬪である崔雨喜を、丁重に扱うことを忘れなかった。女官に興味を示すことなく、側室を設けようともしないが、それは想われるからではないと、雨喜はよくよく知っていた。ほかの女を見てはならぬと、睨みをきかせているわけでもなかった。もう子どもでもなくなったので、いろいろなことがわかるようになった。拒絶されても仕方なかった。世子嬪として扱われるだけ、きっとじゅうぶん幸福だった。

 笑みも視線も交わすことなく、夫婦であることだけが確かで。願っても、いくら願い続けても、どうにも得られぬものがある。これが、きっとそうなのだ。雨喜は静かに悟りかけていた。

 そんなとき、居所に左議政が訪れた。国舅となるべき者はそれとなく、子はまだかということを問うてきた。遠回しな言い方だったので、雨喜は気づかないふりをした。その夜にはちょうど約束があった。

 暻は世子であり、雨喜は世子嬪だ。触れあうことなど当然であり、むしろ務めとして強いられさえする。約束と支度を経た決まりごと。肌ばかり触れあっているときも、暻は世子嬪を気遣っていた。雨喜は、陶然と虚無の夢中にたゆたいながら思い浮かべた。清く穏やかなあの子の幻影。

 世子嬪になったばかりのころは、わかったつもりになっていたのだ。ほんとうなら、暻のそばにいるのは、己ではないはずだった。このようにふたり虚しさをすら、すれ違わせることもなかった。幸福だった。暻も、あの子も。

 あの子は、昭恩ソウンはうつくしかった。夕日に輝く凪の海より、おおらかで清く穏やかだった。父親は位がさほど高くなく、けれど実直な仕事ぶりから国王に目をかけられていた。娘の昭恩も誠実で賢く、左議政の娘の雨喜と並んで、世子嬪の最終候補になった。

 立ち振る舞いも問答でのこたえも、敵とも言える雨喜でさえ、惚れ惚れとするものだった。そのうえ、合間に話をすれば、いろいろ忘れて楽しんでしまえた。この子には、勝てないと思った。このひとなら立派にやれると思った。でも、選ばれたのは雨喜だった。選ばれたというより、残ってしまった。

 昭恩の父は、世子である暻を亡き者にしようと謀っていた。暻ではなく暻の異母弟こそが、次の国王になるべきであると動く派閥に属していたのだ。暻にうつくしい娘を嫁がせ、信用させ裏切ろうとしていた。派閥をあげての計略だった。それを「暴いた」のは左議政だった。以前から「怪しんで」いたのだという。昭恩の父は処刑された。暻の異母弟もその母も、それを担ごうとした一派もすべて、それぞれ処分を受けることとなった。

 昭恩は、奴婢におとされた。その騒動が片づいたのち、雨喜が世子嬪の座におさまった。

 世子の暻が、邪魔ならば。わざわざ娘を嫁がせなくとも、ほかにも手段はあっただろう。昭恩の父は王に気に入られており、暻とも懇意だったというので裏切ることは考えにくい。一方、左議政は王に疎まれ、距離を置かれはじめていた。また、暻の母である王妃は、左議政の親類にあたる人なので、左議政は暻をつぎの王に据えたい。わかってきた事情を併せ考えると、昭恩の父が異母弟派なのか、暻を亡き者にしようとしたのか、そんなことはもはや、どちらでもよく。左議政はすでにある権力を使い、最後の邪魔者をまとめて葬り、さらに権力を持とうとしたのだ。

 あの左議政なら、最初から娘を世子嬪にねじ込むことさえできた。そんな中、揀択がおこなわれたのは、国王たっての希望であった。左議政への抵抗でもあったのだろう。左議政がそれを受け入れたのは、おそらく、己の策を押し通す自信があったからなのだろう。

 左議政が力ずくで陥れた、暻の異母弟もその母も、暻にとって大切な存在だった。臣下らは対立していたものの、兄弟の心はつながっていた。そして昭恩の父も、昭恩も。暻が迎えたかったのは、昭恩。世子嬪になってから知った。昭恩は奴婢におとされてすぐ、病にかかりなくなった。

 逞しい腕の中にいながら、このひとの仇の、娘だと。仇と呼んでもよいのだろうと、うつくしいひとを陥れたと。だから、世子嬪にとして扱われるだけ、幸福なのだと雨喜は念じる。拒絶されても仕方なかった。拒絶されてあたりまえだった。それなのにこうして表面だけは、受け入れられて触れられている、恐ろしい狂おしいほどの、死を思うほどのこれは恥辱だ。世子嬪は雨喜で雨喜は世子嬪だ。早く、ほかの女でも見つけてせめてそちらへ行けばよいのに、嬪宮ピングン、とうわごとのように呼ばれる。光も影も見えないままに、雨喜はその背にすがりつく。世子邸下、おうらみもうしあげます、ひとかけらさえ声にならない。 



* *



 つぎの年、暻は国王となった。深紅に金糸の龍を飾った、王の証たる袍をまとった。雲上のひとのようだった。それでも、王妃である崔雨喜を、尊重することを忘れなかった。そんな王に王妃たる雨喜は、側室を迎えるよう進言した。

 婚礼から六年が経っても、世継ぎに恵まれぬゆえだと言った。左議政はすでに数年前から、親類の娘を暻に仕えさせ気を引かせようと画策している。こればかりは左議政でなくとも、臣下は似たようなことをしている。世継ぎがいないのは問題なのだ。そのため、雨喜は意見した。

 今度こそ、みずから選んだひとを、そばに置ければよいとも思った。早くしなければほんとうに、左議政に押しつけられてしまう。それは口にはしなかった。

 そのとき、暻は書を読んでいた。紙を繰る手がいっとき止まり、睫毛が静かに瞬いた。考えてあると、こたえがあった。雨喜はいくぶん安堵して、すぐに暻の前を辞した。

 少し経って、暻は側室を選んだ。さきの派閥争いに関与しなかった、古い名家の娘を選んだ。挨拶をしてわかったことだが、容姿も振る舞いも王の妻として申し分ない人だった。けれど、昭恩に似ていなかった。

 昭恩とはべつの趣があり、比べられるものでもないのに、昭恩には及ばないと思った。少し話して別れたあとから、呼吸が浅くなるのを感じた。昭恩の面影がかけらもなかった。それがなぜだか、口惜しいのだ。やっと落ち着いてきたころに、左議政が居所を訪ねてきた。

 雨喜は、己の甘さを知った。暻と妻のあいだに子が産まれても、左議政が消してしまうかもしれない。それをにおわせつつ出て行ったのだ。雨喜は左議政に持たされた、乾いた薬草を握り潰した。子宝に恵まれる効用があると言い習わされる草だった。



* *



 暻は側室を迎えてからも、王妃である崔雨喜を忘れなかった。左議政がなにをするかわからないことを、きっと雨喜よりも理解している。そのため左議政の娘の王妃を、粗末に扱うことはできない。

 ある肌寒い夜だった。王の深紅の袍を脱ぎ、白い衣になった暻は、雨喜が近くに座っていてもなにもしようとしなかった。互いに褥の上に座って、長いあいだ押し黙っていた。

 身体は向かいあっていた。雨喜はひたすら目を伏せていた。暻が動かないのに動くことはできない。なにもできない。静寂の中。身じろぎすれば衣擦れが響く。息をすることも憚られ、青ざめた木偶か蝋燭のように雨喜は、時を止めていた。暻も、同じであるらしかった。やはり迷うのか嫌気が差したか、ときおり、小さく息を吸っては音を忍んで吐き出していた。

 これ以上ないほど、気づまりだった。すぐに終わらせてしまいたかった。このまま、永久にいられる気がした。このまま、この世にふたりのように、そうなったならと淡く願った。だから、そろりと暻に近づき、強張った肩へしなだれかかった。永久に続くものなどはない。



* *



 雨喜は、ようやく懐妊したので。内密の文を届けさせると、左議政はすぐに訪ねてきた。喜色を浮かべている左議政に、雨喜は手ずから茶を振る舞った。父の好みの調合だった。父はすぐにそれに気づいて、笑って飲み干したのち、死んだ。毒薬も混ぜた調合だった。懐妊などもしていなかった。雨喜は左議政を嘘で呼び出し、至極あっけなく亡き者にした。

 王妃崔氏は、子ができないことで地位が危うくなったうえ、父親である左議政に責められ、耐えきれずついに乱心したのだ。ただ、それだけのことなのだ。終わりはふたりでじゅうぶんだった。

 崔家を継ぐ兄は父のように、蹴落とすばかりの者ではない。いろいろとうまく立ち回るだろう。少なくともいまはそのようだから、これでいっときでも荷が減るだろう。雨喜は穏やかに凪いだ心地で、左議政と同じ器を使い、同じ茶を同じだけ飲み干した。

 身体が内から焼け爛れ、腐って崩れていくようだった。凄まじいその痛苦さえ、徐々に遠ざかり去りかけたとき、遠く、とおくから声が聞こえた。その声を、雨喜は知っていた。その声は雨喜の名を呼んだ。懸命に叫び呼んでいた、夢。幻なのだと思い、思いつつまぶたを押しあげる。

 やはり、ゆめまぼろしなのだと、悟る。うつつではありえない。すぐそばに強い光が見える。貫き通されそうにまばゆい、だからこそ影が濃く重い。それとも、もしや逆なのか。このひとだけは、逆なのか。雨喜は己のものとは思えぬ手を差し出して、幻影を抱く。どこにあるのかもわからぬ喉を、絞って、別れの言葉を落とす。ああ、おうらみもうしあげます。

「呪詛し奉りました。殿下」

 わたしも、あなたの影となるよう。その濃い重みの一部となるよう、嘘。一部でも、奪い去るよう。





 (了)

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