道中暑夜
どぽん、と鈍く水が鳴る。池に何かが落っこちたのだ。或いは、飛び込んだかもしれない。音の鈍重さから、只者でない。おそらく、巨躯の蛙であろう。さっきまで大儀そうな声音で、ぐわ、ごわ、などいっていた。声を出すのも倦んだだろうか。
ぬるく湿った風が動いて、縁側のほうへ寄せてくる。池のまわりの草を騒がせ、青く凝ったにおいをもって私の鼻へ滑り込む。蛙が寄越した屁のようである。顔を顰めるほどではないし、私はひとり押し黙り、隠れた蛙の秘密を守る。
夜半、明かりもない縁側に出て、裏庭を向き座り込んでいる。暗く、草木の影くらいしか認識しえない様子なのだが、それらの影も、小さな池も、お世辞にも美しいといえない。青っぽい臭気もさることながら、いろいろ半端に茂っているのでどこか陰気で鄙びてる。事実、田舎なので仕方がないか。この片田舎の農村の、藁屋根の上にトタンをのせた民家なのだから仕方ない。夕暮れに突如戸を叩き、一夜の宿を与えられながら厚かましいことこのうえないが。口に出すことはしないと誓う。
胸中で都会の人間を気取り、私は湿気た庭を眺める。私は、確かに都会から来た。先生と呼ぶ人と一緒に、逃避行だと飛び出してきた。煤けた喧しい人間たちの這いずり回る巣窟を離れ、まさに竜宮城なのだという、先生の故郷を目指すのである。その夢遊じみた道中において旅に附物の苦難に見舞われ、なぜかふたりして荷物を抱え、田畑の広がる見知らぬ土地を半日彷徨う憂き目にあって、結局、何がいけなかったか、よくわからなくなるほど疲れてこの家へ流れ着いたのだった。
これは、正しく漂着である。ここは人間巣窟でもなく竜宮城でもないうえに、様々うまく運んでいれば、一生名前も知らなかったと断言してよい土地なのである。しかし、先生と私のふたりは、この地の民家に転がり込んで思いもかけぬ歓待を受け、明日の見通しを持つこともできた。多少田舎くさくとも、この家の主は恩人なのだ。
私は茫然と裏庭を向き、首を掻きつつ思い出す。先刻、この家の人々とともに膳を並べて食事した。家の主とその母と嫁、それと三人の子どもらがいた。皆鷹揚な人々であって食事中にも笑いが絶えず、降って湧いてきた他所者たちが、その関係や事情について明らかに誤魔化しにやけていても、訝しむそぶりを見せはしなかった。客など滅多に来ないといって、酒を取り出してくるのであった。
子どもらは殊に珍しいのか、先生と私に纏わりついて、頻りにぺちゃくちゃお喋りをした。いちばん下の七つくらいの子は、この前祭りで買ってきたらしい毛が青色のひよこを見せて、このちっこいのが卵を生むまで育てるんだとかなんとかいった。私が頭を撫でてやったら、含み笑いをしながら逃げた。坊主頭はざらざらしたが、あれはひよこと変わらない。先生が似たようなことを述べると、大人らはやたら喜んでいた。
彼らが、本当に知っているのか知らない。先生は作家先生である。私は、その弟子であり助手で、ともに逃避行するものである。そして、倫理的に円満といえる逃避行など無いのであるから、だから私は、茂みの近くに呆けて座っているこのときも、なんの虫にも刺されない。ほかのへんな虫がつかないようにと、先生が印をつけてあるから。私は首に爪を立てつつ、あの先生の悪癖を思う。
先生は、種々の逸脱行為を延々やっているのでなければ、生きていくことなどできないと本気で信じているらしい。なんでも、先生はひよこのような、無垢ながら多感だった時分に、感情や情緒その他諸々が徐々に腐りゆく病に罹った。不治不可逆のそいつのために、色々綺麗に腐敗した。そのため、ふつうに生きてるのでは、生きてるのだか生きてないのだか、わけわからなくなるのだという。医者にみせても無駄な病を無意識のうちに患うような、身の毛もよだつところにいたので出来損なったなどというのだ。
困ったふうに口にしながら、実は得意に思ってるのだと私には、それがよくわかる。腐爛したものを愛おしそうに、捏ね繰り回すばかりしている。わざと固めたり柔らかくしたり、削いだり切ったり煮たり焼いたり香辛料にしてみたりして、完成させた唯一無二の究極至極のゲテモノを、世の中に撒布する習性を高等趣味だと信じてるのだ。これこそ輝くばかりに狂った逸脱行為、悪癖である。自分の腸引っ張り出して、十数年ほど糠床に埋め掘り出し、他人様の口に突っ込み、噛んで飲んでと泣き喚くよりずっと常軌を逸してる。あの先生は異常者なのだ、私にはそれがよく、わかる。つまり私も、極悪癖を、この身に刻みし異常者なのだ。互いにきっと、そうでありたい。
互いに、似た畑から生え、そして似たように根腐れおこした。引っこ抜かれて脇に捨てられ、焼却を待つばかりの身の上。そこで偶々一緒になって、腐った根っこを絡ませ合うと、脚じみたものができちまったので逃避行などすることになった。
この先に待っているものが、竜宮城やらなにやら知らぬ。私は、青っぽい今一瞬にも溺れるような心地になるので先など知ったことじゃないのだ。先生。灰にはなりたくなくて、竜宮城といっただろうか。竜宮城へいきたけりゃ、亀を助けなきゃならないんでは。そこに蛙ならいたんだけれど、屁だけのこして飛んでしまった。
するり、背後で襖が滑る。外より一段暗い内から、先生が呼んでいるのがわかる。振り向かずとも、声がなくとも。私は青い庭を見たまま、隙間へ片手を差し入れる。
おわり




