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罪と福音





    *





 貴女は、この世界で唯一、俺をこわしてくれるひと。





    *





「ねえ、ダリル。焦がれそうだわ」

 午後の庭園は光が満ちる。眩しく、瑞々しい彩りが、えもいわれぬ芳しさを醸す。静穏な風に乗って広がり、とろけた琥珀よりも豊かな貴女の髪を掬おうとする。けれども貴女は意に介さずに、水晶より透き通る睫毛をふわりと柔く瞬かせ、蒼玉よりも涼しく深く、つやめく瞳の一瞥を。俺に。そして、ふたたびうたう。ねえ、ダリル。焦がれそうだわ?

 翡翠かわせみの羽の散らす雫が水面みなもを打つより鮮烈だ。そんなふうに、誘っておいて、貴女は虚空へ視線を放る。俺の存在など忘れたような、貴女は、実にいじわるなひと。俺は慎ましい笑みを貼りつけ、折り目正しく返答をする。

「ええ、日射しが強くなりました。そろそろお部屋にもどりましょう。お茶の続きはそちらにて」

 俺の軽やかな言葉の綾は、貴女のお気に召したらしい。貴女は、微かに目もとを緩め、俺を見ぬまま吐息をこぼす。

「うっすらしたのは、厭なのよ。とびきり濃いのを淹れて頂戴────わかっているわね。ねえ、ダリル」

「仰せのままに。エヴァンジェリンさま」

 全身を巡りはじめる疼き、渇きを瑕疵なく制御しながら、俺は貴女に、布で覆った純白の手を差し伸べる。貴女は、翅のように細かな刺繍の袖を揺らし過ぎ去る。その白昼夢よりもむなしく、たおやかな背を追ってゆく。もはや、俺には追うしかできず、いいや、違う、ちがいます。とびきり濃いのは、貴女のほうだ。貴女は、うっすらなど知らなくて、とびきり濃いのを俺にくださる。とびきり、濃い血を俺にくださる。その舌ざわりを、味を思うと、指先が僅か震えてしまう。煮え滾るこの醜い熱が、今日も貴女を焦がさぬように。





    *





 夜のとばりを引きちぎり、寝台を隠す天蓋にした。濃く厚く外のすべてを遮断し、内のすべてを秘匿する。帷の向こうの窓の外では、光が満ちてそよ風が吹くが俺は、そんなことどうでもよい。死んだ銀狼の毛皮の上の、蜜蠟みつろうよりもなめらかに白い貴女のうなじの柔肌に、この爪、この歯を立てれば流れる妖しく哀しくあかい甘露を、一滴たりとも落とすことなく舐めとり呑みくださねばならない。

 俺は、救いようのない怪物であり、人のかたちをしていながらも人の生血を呑み生きる。そうでなければ酷く渇いて、飢えて渇いて生命いのちが尽きる。生まれつきこうだったようにも、徐々にこうなったようにも思う。今まで、幾人呑み尽くしたか、血を呑み尽くし殺したか。そのおこないを罪と知りつつ、他人を殺すか己を殺すか、己ばかりを生かしてきたのだ。そんな罪深い怪物を、悍ましい罪に染まった俺を、貴女は、すくいあげてしまった。

 軋む寝台の脚にはすべて、いばらが精緻に彫り込まれ。まどろみの中の悪夢のように、蜜蠟と闇と甘露が混ざる。貴女の、細く冷たい腕が、俺の首筋を抱いては絞める、そのまま、貴女は俺の名を呼ぶ。蝶の涙より可憐な声で、艶美な息で俺を呼ぶ。俺は、貴女に酔い沈むのだ、俺は貴女を呑み尽くせない。幾度も、幾度もこうしていても、貴女はとびきり、とびきり濃いから俺は、貴女を殺さずに済む。貴女は。貴女のことだけは。ああ、エヴァンジェリンさま、俺のうつくしいお姫さま。俺の、この手で触れることすら畏れ多いほどいとしい貴女を、愛しい貴女を傷つけ続ける俺を、ゆるしてどうかこわして。どうか、貴女は、こんなにあまい。これはあたらしい罪なのか、あるいは、罰の極致でしょうか。俺は葡萄酒に溺れるはえより、憐れで愚かで、穢れにまみれ、そしてなにより、しあわせなのです。





    *




 

 光を拒む帷の内に、わたしの目はもう慣れてしまった。ゆっくり半身だけを起こして、わたしはおまえをぬすみ見る。死んだ銀狼の毛皮の上へ、ぱたりと倒れて眠ってしまった。おまえは、とてもうつくしい。

 端正ながらも削げて乾いて、こまやかな影に僅か歪んで。満ちたりたようにわたしを呼びつつ眠りに落ちていったにしては、浅く、苦しげな息をしている。いつも整った襟がはだけて、荒く上下する深い鎖骨も、汗の滲んだうなじものぞく。湿って乱れた髪を梳いたら、長い睫毛が仄かに揺らいで同時に、引き結ばれるくちびる。そこ。衣に秘された肌よりわたしを捕らえて離さないそこ。いましめのようにきつく閉ざされ、埋めようもなくひび割れている。わたしの素肌を撫でて伝って、わたしの血を吸うそのくちびるだ。潤わないのに柔らかく、熱く、情けなくやさしく震える。手を差し出して、塞いでみれば、やはり意気地のない肌ざわり。おまえのおもてはいっそう歪み、けれども逃れようとはしない。この手は鼻まで覆っているから、さらに苦しくつらいだろうに。

 人の血を呑み生きるおまえが、その生き方しかできぬおまえが、どれだけおまえを罰してきたか。わたしは、わたしだけは、よく知っている。その罰はだれのためにもならず、なにも解決せず無意味だと、それもよくよく知っている。そんなことばかり続けているから、だからおまえは、うつくしいのね、もっと、もっと、押さえてしまう。それでも足りずに胸に抱えて、力いっぱい押しつけて。身を焦がすいんのようにしたって、それでも、おまえは逃げてくれない。

 わたしは、すくいようのない怪物であり、人のかたちをしていながらも人を生血で傷つけころす。この身を流れる血に触れたなら、人、のみならず生きものは、遅かれ早かれ死に至る。この血は母を、乳母をころした。敵国の兵も民もころした。多くの生命をこわしてきたのだ。だから、長らくひとりで生きた。そんな罪ぶかい怪物は、おぞましい罪にそまったわたしは、おまえを、見つけだしてしまった。

 おまえはわたしの血に触れて、呑んで、のんでは気を失って、苦悶に濡れてもまだ生きている。おまえはわたしの血を欲しがって、わたしの血ばかりほしがっている、こうして、いつまでいられるだろう。いつまでおまえとともにいられる? おまえは、おまえの声も吐息も、熱もとびきり、とびきり濃いからわたしはおまえをこわしたくない。おまえは。おまえのことだけは。ああ、ダリル、わたしのダリル。おろかなあわれな、わたしのダリル。わたしの、この手で触れることすら恐ろしいほど愛しいおまえを、愛しいおまえをくるしめ続けるわたしを、どうか、ゆるさないでね。どうか、どうして、こうなのかしら? これはあたらしい罰というのか、それとも、罪の極致というの? わたしは愛しい、いとしいおまえを、血でもないものでこわすのかしら────





 終

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