花魄
晩春、薄暮の市である。軒を連ねる店の幟が温んだ風にたなびいている。吊灯籠も微かに揺らぎ、その密やかな幽光のもとに人声、気勢は燦爛とする。只中を通り抜けてゆくのは褪せた銀袍の若者ひとり。一抹の影の差す白皙を、喧騒が無為に滑り流れる。熱の籠もった場にありながら、彼は汚れなき雪の広がる原を踏み抜く心地であった。
人に皎月と呼ばれる彼は、付近の高名な学堂において勉学に励む俊才である。孤児であったが、利発を見込まれとある官吏に拾われてのち、養親の恩に報いんとして刻苦精励し続けてきた。文のみならず武にも秀でた逸材として嘱望を受け、闊達、篤実な性質のためによく親しまれ恃まれている。今日も講義が済んでから、同輩と談議、雑談などを繰り広げつつ学舎を出てきた。彼らと別れたあと市へ来た。皎月の暮らす邸とは、正反対の方向である。皎月自身はこの道程を、特段意図したのではなかった。覚えなく足が向いていたのだ。所用があったわけでもないため、ただ人波をすり抜けていく。
抜けるも、皎月は止まらなかった。やや湾曲した石塀に沿い、緩い坂道をくだり進んだ。足下の石は平らであって、薄く広がる落日の色に雑然と疵を暴かれる。その物憂さに目を細めつつ、灰銀の裾の靡くがままに茫洋と足を動かしていればふと、鼻先に触れるものがある。爛漫の花を思う芳香、それで皎月は歩みを止めた。
だが、しかしもはや香りはしない。かわりに、耳朶を打つものがある。一羽の鳥の囀るような、それも金色の飴の小鳥の舞い啼くが如く可憐な音だ。幼気な愛らしさを持ちながら、清澄、また玲瓏たる響き、皎月は何故と知れないものの、喉を掴まれる心地になった。この音を、声を醸す淵源へ行かねばならぬと胸が逸った。彼は辺りを見渡した、だが何も無いと理解していた。声は傍からするのではない。遠い何処からか呼んでいるのだ。求めれば辿り着けるところだ。微妙な奇妙な、妙なる確信。故に皎月は駆け出した。
石の坂道に鳴る靴音は、彼の耳には入らなかった。彼は囀りばかりを追った。誘われるのか、拒まれるのか、坂をくだりきり、寂然と凪いだ湖に架かる橋を渡った。行く手には青い林があった。此処を皎月は知っていた。
しなだれ重なる枝葉はさながら、錦繍から成る帷の如く。荘重であり妖婉であり、淡くも深い木下の闇を、思わせぶりに見せては隠す。声音は、確かに近づいている。切実にやはり、呼ばれていると、皎月は細く息を洩らして林の内へ踏み入った。
透き通る闇の色をした羽に押し包まれるようである。斜陽の点々零れる小径の曲がりくねっては続くのを見る。木々は嫋やかなる影となり、水気をはらんだ風は紗となり、皎月はそれをかき分け潜り、小径を踏んでは耳を澄ませる。声音は、更に近づいてくる。哀惜の情を帯びて聴こえる。模糊たる胸苦しさを抱えて奥へと進んでゆく皎月の、目の前にやがて何か現れ、忽然として声が途切れた。不意に訪れた静寂の内に皎月と対峙するものは、それは単なる木であった。
皎月は、ただ木を仰ぎ見た。周囲の木々とさほど変わらず、しかし枝ぶりはひときわ柔靭。細く伸びやかでありながら、或いは、そうであるからこそか。何を吊ろうと折れることなき芯のかなしみが滲み出る。その周辺は深閑として、他者の気配は皆無であった。
枝を差し伸べる木とふたりきり、幽閉せられているのではという奇異な錯覚は何処か甘美だ。少なからず欲し望むが故に、皎月は前へよろめいた。しなやかな腕に似たその枝へ、枝を思わせるその腕へ、すがりつくように手を差し出した、そしてにべもなく拒まれた。何かが触れたというのではなく、甲高い声に弾かれていた。
皎月ははたと我に返って、次の瞬間、驚懼した。眼前、小指のような枝先。仄白い影が閃いたのだ。影は、飛びあがり上へと移る。視線で追った皎月は、頭上の枝に見出した。無垢なる肌の、乙女であった。
但し人とは異なるらしく、掌に包めそうに小さい。小さい、とはいえこの乙女こそ、求めた声の主である。そうと皎月はすぐに悟った。彼は乙女を振り仰ぎ、打ち落とすように凝視した。
乙女は、羽の類いを持たず、木の葉のひとつも纏わない。肢体の描く清雅な線を、濡羽の髪が覆い守秘する。真珠と磨き込まれた肌に、艶黒が映え鮮麗である。手足はひどく細やかながらも爪は梅花の色を滲ませ、か弱い赤子を抱くときに似た切なる恐れを起こさせる。然るに、当の乙女のほうでも恐れをいだき慄くらしい。光を通す髪の隙から悄然として覗き見おろす、その凄愴たる両の眸に、皎月はふっと射竦められた。虹を溶かした冥闇である。
すぐにでも溢れ出すというほど盈々たる潤いを湛える。保てず、落としたその一片は、皎月の薄い唇に降る。あまりに繊細にして透明、僅かに舌の先に触れても何の感覚も残さない。あの深淵から零れ出るのに、濾され過ぎたか、絞られ過ぎたか清冽に澄み渡っている。乙女の涙を皎月は、身に刻みたいと希求した。
「おまえ、もっと泣けないものか」
皎月は乙女に問うた。乙女のほうへ手を伸ばし、此方へと招くようにした。すれば乙女は首を振り、激しく髪を振り乱す。枝先の葉を幾つも毟り、皎月に向かいひたすら放る。視界を遮るほどでもないが、皎月は目を眇め見あげた。乙女は、眦を粗く拭っては萌える緑を散らすのだった。花弁より淡いその唇は、固く引き結ばれている。
「黙ってしまったのは何故なんだ」
乙女は、皎月にこたえない。その双眸は益々深く、昏く豊かに潤ってくる。甘やかに澄む泥濘が籠もり行き場を失くしたようである。表情は更に沈痛になり、皎月を峻拒するのであるが嫌悪するのではないらしい。何か懸命に訴えている。若葉を降らせることも止め、足も折れよと枝を踏む。そのさまを見る皎月は、指の先まで痺れを齎す熱く細やかな焦慮を覚える。美酒が身体を駆け巡っては、喉へ遡る心地であった。
「おまえに、呼ばれたのだと思った」
焦燥に任せ吐露すれば、乙女はその身を固くした。違ったのかと皎月は問う。乙女は、枝の上へ座り込み、無言のままに首を振る。是非の判然としない挙動に、皎月は寧ろ、放心した。身の内を灼く情動の渦の鎮まる兆しを感じながらも、抗うように両手を伸べる。乙女は、顔を覆い隠して、もはや皎月を拒まなかった。皎月の手は木肌に届き、其処は静謐な温度を持った。
「わたしも、此処へ吊り下がるなら、おまえはもっと美しくなる」
そうではないかと、訊ね撫でれば、乙女は顔も声もあげずに小さな肩を震わせる。こうして悲嘆に暮れるほど、髪も素肌も艶めくようだ。この霊妙の姿の乙女は、花魄と呼ばれる木の精である。幾人か吊った樹木に遺る、情念の生む精霊である。皎月はその存在も、所在も以前から知っていた。
「花魄。真に呼んでいないか。わたしを呼んでいないのか」
皎月は喉を反らし呼ばわる。楚々と囀るようでありつつ哀切の情を湛える声を、追い求め此処へ行き着いたのだ。呼ばれていると信じ来たのだ。しかし花魄は彼を撥ねつけ声を聴かせることもなく、拒絶せぬまでも一途に嘆く。
「おまえの一部になっては、ならぬか」
迫るに、花魄は首をもたげた。優婉なる黒髪を透過し、春陽の如き眸が降る。刹那、皎月は息を忘れた。悲哀を呑んでの慈愛を享けた。
滴々、縷々と雫が零れ、皎月の頬を滑り流れる。捻り潰せるほどの身体に抱擁されるかのようであり、皎月は自然、須臾の瞑目。瞼の裏を揺々たゆたう、闇昏の先に淡光を見る。そして皎月は理由も知れず、表し難い心境に着く。それは冷涼な諦念であり、また温順な安堵であった。臆し合っては混ざり合い、皎月の肌を伝って落ちた。
「花魄」
皎月は喉を絞ると、踵を返し駆け出した。柔らかく霞む小径を走り、浮上するように抜けてゆく。呼び止められることなどは無く、徐々に視界が明瞭になり、皎月は揺らぐ光を映す。降りくる夜闇に触れては照らす。市の連なる灯火であった。
了




