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小説 足利義輝 鳳凰の刀 1536-1565  作者: 山田 誠一


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第八章:四畳半の修羅場


永禄八年(1565年)五月十九日、朝。


京の空は、低い雲が一面に垂れ込め、いまにも涙をこぼしそうな灰色に染まっていた。

午前八時、二条御所の四門を完全に包囲していた三好三人衆と松永通庵の軍勢一万が、鬨の声をあげて一斉に突撃を開始した。


「訴訟、訴訟である! 公方様へ直訴を申し上げる!」


口々にそう叫びながら、阿波や大和から連れてこられた無頼の兵たちが、御所の高い石垣に取りつき、外門の板を大槌で叩き割り始めた。彼らの叫ぶ「訴訟」など、紙切れほどの価値もない方便であった。狙うはただ一つ、室町将軍・足利義輝の首である。


頑丈な門扉が音を立てて裂けていく。

御所の内側では、将軍の直参である奉公衆、わずか数十人が死を覚悟した顔で槍を構えていた。進藤貞治、池田重成といった古参の家臣たちは、若き将軍を守るべく、最後の防衛線を主殿の回廊に敷いていた。


「防げ! 一兵たりとも奥へ通すな!」


激しい怒号と、肉を突き刺す不気味な音が、静まり返っていた御所の庭に響き渡る。

数十人の足利軍は、驚くべき執念で戦った。彼らは押し寄せる三好の先鋒を、回廊の狭い間合いに誘い込み、次々と突き伏せていった。しかし、一万という人間の津波は、彼らの命を削り、その防衛線は一刻ごとに、主殿の奥へ奥へと押し込まれていった。


その喧騒の最中、主殿の奥座敷にいる足利義輝は、驚くほど静かに座っていた。

衣服は、漆黒の具足。襷を固く結び、長い腕を無造作に膝の上に置いている。彼の前には、足利家が二百年の間に蓄えてきた、日本刀の歴史そのものと言うべき宝物庫の箱が、いくつも開け放たれていた。


「上様、外門が破られました! もはや、これまでを呈しまする!」


血塗れの近臣が駆け込み、床に伏して叫んだ。

義輝は、その報せを聞いても眉一つ動かさなかった。それどころか、彼の切れ長の目には、どこか子供が新しい遊びを思いついたときのような、妖しい悦びの光さえ浮かんでいた。


「……さあ、『将軍』を始めよう」



義輝は立ち上がると、宝物庫の箱から、一振りの太刀を引き抜いた。


「三日月宗近」である。

天下五剣の一つに数えられ、平安時代の巨匠・三条宗近が鍛え上げた、国宝のなかの国宝であった。刃紋に三日月の形がいくつも浮かび上がる、息をのむほどに美しい業物である。


義輝は、その鞘を無造作に投げ捨てると、抜き身の刃を、自分が座っている畳のあちこちに、突き刺し始めた。


ガチ、と床板を貫く鈍い音が響く。


続いて引き抜いたのは、「大典太光世」。これもまた、天下を統べる者だけが持つことを許された、呪わしいほどの切れ味を持つ名剣であった。義輝はそれも、三日月の隣の畳へ深く突き刺した。

さらに、骨喰藤四郎、二つ銘則宗、粟田口吉光……。


一国を買い取れるほどの価値を持つ、歴史上の名刀たちが、次々と鞘を払われ、若き将軍の周囲の畳に、まるで白銀の林のように突き刺さっていった。妖しい光を放つ刃の群れが、主殿の薄暗い空間を照らし出す。


「公方様……、これは一体……」


息を切らせて戻ってきた家臣たちが、その異様な光景に絶句した。

義輝は、最後に「二つ銘則宗」を床から引き抜き、その重みを確かめるように軽く振った。


「刀というものはな、どれほどの名刀であっても、人の肉を三十人も斬れば、脂が乗って切れ味が鈍る。だから、取り替えるのだ」


義輝は言った。

彼がやろうとしているのは、政治の駆け引きではない。征夷大将軍としての格式の誇示でもない。

一人の新当流の剣客として、押し寄せる一万の敵を、この四畳半の畳の上で、ただ一人で迎え撃つという、狂気じみた、しかし徹底的に合理的な「人斬りの陣立て」であった。


「父上、見ておられるか」


義輝は、突き刺さる刀の刃に映る自分の顔を見つめながら、心の中で呟いた。

父・義晴は、言葉と権威を信じて、逃亡のなかに死んだ。

だが自分は、言葉をすべて捨てた。いま、手の中にあるのは、冷徹な鉄の重みだけである。これこそが、戦国という時代において、唯一信じるに足る「真実」なのだ。



主殿の重い障子戸が、外から乱暴に蹴り破られた。


「ここに公方様が居られるぞ!」

「首を挙げよ! 恩賞は思いのままだ!」


怒号とともに、三好家の兵たちが、数人がかりで一斉に室内に乱入してきた。彼らの目に飛び込んできたのは、林立する名刀の真ん中に、微動だにせず刀を構えて立つ、漆黒の将軍の姿であった。


「寄せてみよ」


義輝の口から、氷のような声が漏れた。

先頭の男が、手にした槍を義輝の胸元へと突き出した。

その刹那。

義輝の身体が、まるで風に舞う木の葉のように、わずか数寸だけ横にずれた。槍の穂先が、具足の触れ合う音だけを残して空を切る。


「則宗、一の太刀――!」


義輝が吠えた瞬間、手にした二つ銘則宗が、下から上へと電光のように跳ね上がった。

凄使まじい手応えとともに、突き出された男の、両の手首が宙を舞った。男が悲鳴をあげる間もなく、義輝の返しの一撃が、その喉笛を深く掻き切っていた。

返り血が、畳の上に、そして壁に置かれた織田信長献上の「洛中洛外図屏風」の金泥の上へと飛び散った。


「うわああ!」


二人目、三人目の兵が、我を忘れて左右から斬りかかってくる。

義輝は、新当流の極意である「間合いの見切り」を完璧に発揮していた。相手の刃が皮膚に届く直前の、もっとも危険で正確な位置でそれらをかわし、流れるような動作で敵の急所を的確に突いた。


ある者は兜の隙間の首筋を貫かれ、ある者は胴を深く切り裂かれて、青い畳の上に崩れ落ちていく。


「……こ、この御方は、本当に人間か!」


後方から入ってきた兵たちが、床に転がる身内の死体の山と、その中心で返り血を浴びて妖しく微笑む将軍の姿を見て、恐怖に足を震わせた。彼らが包囲していたのは、高貴でか弱き神輿ではなかった。

世にも恐ろしい、飢えた「人斬りの化け物」であった。


「――十人斬ったか。則宗。よく働いた」


義輝は、手にした二つ銘則宗の刃が、敵の脂で鈍ったのを感じると、それを無造作に床へ突き刺した。返す手で、すぐさま隣にあった天下の宝剣を引き抜く。


「次は貴様だ、三日月! 俺の肉体に付いてこい!」


抜き放たれた三日月宗近が、薄暗い室内に妖しい白銀の軌跡を描く。

初夏の京都の朝、一万の軍勢を相手に、ただ一人の男の圧倒的な武勇が、二条御所の奥座敷を、凄絶な修羅の庭へと変えていくのであった。


(第八章・了)

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