第七章:松永久秀は黒く煙る
一
永禄七年(1564年)の秋から翌年にかけて、京都の空気は、あたかも真夏に夕立が来る直前の、あの肌にまとわりつくような不穏な熱を帯びていた。
三好長慶の死は、それまで辛うじて保たれていた天下の均衡を、根底から瓦解させた。長慶という男は、将軍を蔑みつつも、中世の秩序を完全に破壊することの恐ろしさを知る「理性の人」であった。しかし、その理性の壁が取り払われた後に残ったのは、ただ自らの権益のみを貪ろうとする無頼の徒と、一人の恐るべき陰謀家であった。
松永弾正少弼久秀。
このとき、この五十代半ばの男は、大和国(奈良県)に築いた多聞山城の奥座敷に座り、畿内の全図を睨みつけていた。久秀の風貌は、戦国の大名にありがちな武骨なものではない。色の白い、細面の顔立ちに、手入れの行き届いた髭を蓄え、その挙措は公家のように洗練されていた。しかし、その目の奥には、神仏も過去の格式もすべてを等しく見下す、底知れぬ虚無が宿っていた。
「弾正(久秀)殿、河内の三好三人衆らが、二条の公方様(義輝)をいささかうるさく思っておりまする。力ずくで隠居させ、阿波の血筋を公方様に据えようかと」
息子の通庵が、不気味な笑みを浮かべながら進言した。
久秀は、手にした青磁の茶碗を静かに畳に置き、遠く京都の空を望んだ。
「三人衆どものような田舎武者には、あの公方様の本質が見えて居らぬ。あれは、ただ座して脅しに屈するような柔な御方ではない」
久秀は、かつて二条御所で拝謁したときの義輝の姿を、まざまざと覚えていた。
あの若き将軍の衣服の下にある、研ぎ澄まされた肉体の線。間合いに入った者を一瞬で屠ろうとする、氷のように冷ややかな眼光。
「あれは、足利二百年の歴史が、その最後に生み落とした『最大の凶器』よ。脅せば、逆にこちらの喉笛を食い破りに来る。……やるならば、一兵も残さず、根絶やしにせねばならぬ」
久秀の言葉には、憎悪はなかった。あるのは、一振りの見事な刀を前にして、「これはいずれ我が身を危うくするゆえ、叩き折らねばならぬ」と判断する、職人のような冷徹さだけであった。
二
二十九歳になった足利義輝は、二条御所の奥で、自らをとりまく網が日ごとに狭まっていくのを、誰よりも正確に察知していた。
御所の門外を固める三好の兵らの目が、明らかに殺気を帯び始めている。奉公衆の直参旗本たちは、夜も眠れずに御所の回廊を巡回し、側近の細川藤孝らは、近江の六角氏や若狭の武田氏に、密かに救援を求める使者を走らせていた。
しかし、肝心の主役である義輝の心は、驚くほど静謐であった。
彼は昼間、諸国から届く書状に淡々と花押を記し、夜になれば、主殿の灯火の下で一人、刀を磨いた。
「上様、松永の軍勢が、大和より密かに京へと移動しておりまする。もはや、猶予はございませぬ。一刻も早く、近江の朽木谷へお逃れを!」
細川藤孝が、声を震わせながら訴えた。かつて幼少の頃、父・義晴に連れられて何度も京を脱出したように、今度も逃げ延びれば、いずれ上杉や織田の軍勢が京へ攻め上り、足利家を再興してくれるかもしれない、というの側近たちの計算であった。
義輝は、磨き終えた三日月宗近の刃を、懐紙でそっと押さえながら、藤孝を見つめた。
「藤孝よ。父・義晴は、生涯に何度も京を逃げ出し、近江の土を噛んだ。その結果、何が残った」
「それは……、足利の血脈が、今日まで繋がりました」
「血脈、か」
義輝は短く笑った。その笑みには、側近たちを責める色はなく、ただ哀切なまでの達観があった。
「逃げて繋いだ血脈など、ただの『生ける屍』にすぎぬ。大名どもに憐れまれ、神輿として担がれ、利用されるだけの将軍など、俺の肉体が拒絶するのだ。俺は塚原卜伝の弟子である。新当流の剣客が、敵の刃を見て背を向けると思うか」
義輝は立ち上がり、藤孝の肩にぽんと手を置いた。
「お前は、京を出て命を繋げ。そして、次の時代を見届けよ。俺は、この二条御所から一歩も動かぬ。ここが、俺という男の、そして足利将軍家の『一の太刀』を振るう舞台よ」
その言葉に、藤孝は涙を流し、それ以上は言葉を失った。義輝の決意は、政治的な利害を超えた、己の実存を賭けた「意地」そのものであった。
三
永禄八年(1565年)の春が過ぎ、五月を迎えた。
京の街は、五月雨の予感に白く煙り、二条御所の庭の木々は、恐ろしいほど深い青葉を茂らせていた。
五月十七日、松永久秀の息子・通庵と、三好三人衆の率いる一万を超える大軍が、京都の四方を完全に包囲した。彼らは「訴訟のため」と称して軍勢を動かしていたが、それが将軍の首を狙う「弑逆」であることは、都の物売りに至るまで誰もが知っていた。
松永久秀自身は、この軍勢の中にいなかった。彼は大和の城に留まり、京からの報せを待っていた。
久秀は、自分が直接手を下すことで、後世に「将軍殺し」の大悪名が残ることを避けるという、最後の最後まで計算高い現実主義者であった。しかし、彼が放った一万の兵という名の巨大な牙は、すでに二条御所の門扉を鳴らし始めていた。
御所の中に残された足利家の兵は、奉公衆らわずか数十人。
一万対数十。
勝負など、始める前から決していた。
五月十八日の夜、義輝は御所の奥で、母・慶寿院とともに最後の盃を交わした。五摂家筆頭の血を引く老母は、我が子の覚悟を知り、取り乱すことなく静かに微笑んでいた。
「義輝、見事な最期を遂げなされ。足利の誇りを、戦国の俗物どもに見せつけてやるのです」
「ははっ。母上、存分にお目にかけましょう」
義輝は盃を干すと、ゆっくりと立ち上がった。
衣服を脱ぎ捨て、身につけたのは、近江の流浪の時代から彼を支え続けた、漆黒の当世具足であった。
彼は二条御所の主殿、畳が青々と敷き詰められた広間の中心に立ち、静かに夜明けを待った。
その耳には、御所の堀の向こうから聞こえる、一万の兵たちの不気味な足音と、武器の擦れ合う音が、はっきりと響いていた。
「言葉の時代は終わった」
義輝は、暗闇の中で愛刀の柄を握り締め、低く呟いた。
中世の虚妄をすべて切り捨て、ただ己の肉体と鉄の刃だけで歴史にあらがう、あの運命の五月十九日の朝が、すぐそこまで迫っていた。
(第七章・了)
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