16マリージェンヌとおばば
万力カバという生き物は、でっぷりと恰幅のいい体型をしており、もちろんでかいといえばでかい。
のだが、ユディは眉をしかめた。
「……弱ったな。巨獣の島の後遺症で、小さく見えるぞ…」
リコリネは、隣から聞こえた呟きに、思わず笑ってしまった。
「良いことではありませんか。体が委縮せずに済みます。戦場では、一瞬の戸惑いが生死を分かつのですから」
「ガアアアァアアアッ!」
万力カバは、威嚇をするように、大きな口を開けてこちらへ吠えてきた。
「あれは、皮膚が硬い。なまなかな攻撃は通らない。ユディ、リコリネ、あれの動きを止めて。そうしたらあとは、わたしがなんとかできる」
「わかった」
「承りました」
ヒニアロイカの言葉に、ユディとリコリネは短く答える。
同時に、リコリネは力強く土を蹴った。
「<リコリネの体の奥底に、ひとつぶの真珠があるかのような感覚。それは生命の実だ。力強く芽を出し、花開き、瞬く間に体中に、熱く猛る力を行き渡らせる。リコリネの内側は強く満ち足りて、もう空っぽはどこにもない>」
ユディは、何も書かれていない精霊道具の本の上で、戯れに指を滑らせながら、言葉を編む。
周囲に舞う、淡い緑の燐光。
リコリネの体が光り輝き、動きがグンとよくなった。
「力の精霊ゴルドヴァよ―――!」
「ガアアアアアアアッ!!」
ゴッッ!!
万力カバが、飛び込んできたリコリネに向けて口を閉じた。
が、最後まで閉まらない。
リコリネが、口の中に手足を入れて、無理やり上下に広げているからだ。
ほとんど力が拮抗しているらしく、両者とも、そこからピクリとも動かなくなった。
トッ、
いつの間に忍び寄ったのか。
ヒニアロイカは、そっと万力カバの横合いから、その胴体へと手の平を添えた。
そして、呟き始める。
「―――ぐつぐつ、ぐつぐつ、ぐつぐつ、ぐつぐつ」
「グオ、ガオッ…!?」
リコリネに口をこじ開けられている万力カバは、喉の奥で、戸惑ったようなうめき声を漏らした。
やがて、口の奥から、白い煙が上がり始める。
ぶくぶくと、万力カバの体の中から何かが泡立つような音が響く。
ブシュッ、と肌の内側で何かが破裂したような音がしたと同時に、リコリネへとかかっていた負荷が、フッと消失した。
リコリネは、力を抜く。
すると万力カバは、口を開けたまま、ドスンと横倒しに倒れた。
眼球も破裂している。
「……すごいな、体液を沸騰させたのか」
ユディは、すべてが終わったと判断し、二人の傍へと近寄った。
ヒニアロイカは、こくんと頷く。
「そう。これが一番、楽な方法。万力カバは、草食。消化能力がないくせに、動物をかみ砕く。万力のような顎を持て余しているから、噛み応えを楽しむためだけにそれをやる」
「…えげつないですね。それは、倒し方もそれに見合ったものになるわけです」
リコリネは、ガントレットの具合を確かめるように、手をさすっている。
ユディはすぐにリコリネの手を覗き込む。
「リコリネ、大丈夫だった?」
「はい。主の祝福のおかげで、何倍もの力を出せました」
「それはよかったけど、躊躇が無さすぎて、見ているほうがビックリしたよ……」
「主のお力を信じているからです。が、見ている側の気持ちなどは、まったく考えてはいませんでしたね。配慮が足りませんでした。次からは気を付けます」
リコリネは淡々とそう告げる。
ヒニアロイカは、眠たげな瞳を輝かせて、ユディの傍へと行く。
「ユディの音の使い方、面白い。やっぱりユディは面白い」
「あははっ! 活躍したのは君の方だっていうのに」
ユディはつい笑ってしまってから、すぐに空へと視線を向けた。
「っと、いけない、もうじき夕暮れだ。ヒニア、目的地は近い?」
「近い。でも、急ごう。心の準備も必要だから」
ヒニアロイカは、慌てて早歩きを始める。
ユディたちは、大人しく彼女の後ろについていった。
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空には、翠玉のような満月が光り輝いている。
夜の森に、動くものは少ない。
カラカラカラカラ―――
古ぼけた小屋の中から、糸紡ぎの音が響いてくる。
それに吸い寄せられるかのように、ひとつの細い人影が、小屋の戸を叩いた。
コンコンコン、
ひたりと、糸紡ぎの音が止まる。
「誰だい?」
小屋の奥から響く声は、おばばというにはいささか若い。
戸を叩いた娘は、ツンと上を向いて、尖った声で答える。
「マリージェンヌよ」
「おお、マリージェンヌや。よく来たね。今夜も綺麗な満月だ」
「約束を果たしに来たわ」
「そうかい、そうだね。今年も採れたよ、和み蜘蛛の、癒し糸さ。すぐにひと束あげようね」
「ひと束じゃ、全然足りない! もっとたくさんちょうだいな?」
「おやまあ、それは困ったね。それじゃ、三束ではどうだい」
「三束なんて、またたきの合間に消えてしまうわ」
「困ったねえ。じゃあ、五束だ」
「それは、サボテンに水の中で育てと言っているのと同じよ。うんとしおらしく言っても、十束ね!」
「やれやれ、なかなかどうして可愛い子だよ」
コトン、と、小屋の窓辺に、籠が置かれる。
まるで最初から決まっていたかのように、そこにはきっかり、十束のつむ糸が並んでいた。
「可愛い可愛いマリージェンヌ。来年も、お前の声を聞かせてくれるなら。振り返らずに、持ってお行き」
「ああ、可哀想なおばば。マリージェンヌを好いてしまったばかりに。そして、可哀想なあたし。おばばの糸を好いてしまったばかりに。いつまでもたっても、さよならのキスができないの」
「可哀想なマリージェンヌ。それこそ本当に、無い物ねだりさ。さあ、お行き。次はもっと、甘い言葉を聞かせておくれね」
マリージェンヌは、くすりと笑う。
そうして、差し出された籠を軽やかに掴むと、振り返らずに走り出す。
満月の夜は、煌々と足元に影を作った。
軽やかに駆け抜けていく様は、まるで踊っているかのようだった。
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「ユディ、本当に、里まで送ってくれるの?」
ヒニアロイカは、嬉しそうな表情を隠しもしない。
朝の光の中で、ユディは出立の準備をしながら、頷いた。
「もちろん。すごく綺麗なものを見せてもらったからね」
「同意します。連綿と受け継がれた、美しいやり取りでした。ヒニア殿、昨夜はお疲れのようでしたが、体調はいかがでしょう」
リコリネの問いかけに、ヒニアロイカは、一瞬黙り込んだ。
「体調は、とてもいい。でも昨日は。…なんだか、マリージェンヌになってしまった気持ちだった。何か、泣きたいような、不思議な感覚の波があって、油断をしたらそれに飲まれそうで。…でも、怖くはなかった」
「そうか…。不思議な夜だったね」
ユディがそう言うと、ヒニアロイカは、驚いたようにユディを見上げる。
「ユディは、ひとことで表すのが上手。そう…ふしぎなよる。…だった」
ヒニアロイカは、思い出すような目をどこかへ向けた後、すぐに歩き出した。
「約束の里は、こっち。でも、入り口までしかダメ。外の人は、入っちゃダメ」
「ああ、そうだね、その辺りは予想していたよ」
頷きながら、ユディとリコリネは、ヒニアロイカについていく。
「我々に里の場所が知れるのは、大丈夫なのでしょうか?」
「それは、大丈夫。リコリネたちは、手伝ってくれた、恩人。本来なら、もてなすべき。だけど、里の中に、外の世界の情報が、たくさん入ってくるのは、ダメ。外の世界に、恋をしてしまうから」
「…それも、美しい言い回しですね。今更ですが、ヒニア殿と出会えたことを、嬉しく思います」
リコリネの言葉に、ヒニアロイカは照れたように、淡く微笑む。
「ありがとう。ユディもリコリネも、好きだから、うれしい。本当は、お別れしたくないくらい」
「そうだね、僕もそう思う。でも、こればかりは仕方がない。…ヒニア、あの糸は、これからどうなるんだい?」
「これから、普通の糸と混ぜながら、機織りをする。癒し糸は、タテ糸のほう。出来上がった布は、とても上質な癒しの効果のある包帯になる。それを、医療都市に卸す。ユディ、医療都市に向かうんだよね? 今まで織っていたものがあるから、持って行って。高く売れるし、何なら加工を頼んで、自分たちで使うといい」
「え…でも僕ら、付き添っただけだよ?」
「そんなことない。でも、それがわからないのが、ユディなんだと思う」
「ああ、それは同意します」
ヒニアロイカとリコリネは、顔を見合わせて笑い合う。
ユディは、困ったように頬を掻いてから、結局微笑んだ。
そこから数日をかけて、約束の里に辿り着いた。
ヒニアロイカは駆け足で家の中に入ると、多くを説明するような時間をかけてから、白く美しい布を持って、ユディたちの方へとやってくる。
「ユディ、これ…」
「うわあ、これ、僕が持つだけで汚してしまいそうなくらいキレイだね?」
「なにそれ、おかしいの」
ヒニアロイカは、軽く噴き出した。
ユディはその布を大事にしまうと、ヒニアロイカに向き直る。
「ヒニア。色々ありがとう、楽しかったよ」
「私もです」
「うん……ふたりとも、元気でね?」
ヒニアロイカは、少しの間、儚くまつげを伏せた。
すぐに、ちょっとした悪戯を思いついたような顔を上げる。
「それじゃ、妖精さんに、よろしくね?」
「「!」」
驚いた二人に、ヒニアロイカは、くすくすと耐えきれないような笑みを深めて、くるりと背を向け、走り去る。
それもまた、振り返らない走り方だった。
「だーーっ、今まで隠れていたリルちゃんの努力は一体~~!?」
ユディの胸ポケットから、ぐったりと妖精が半身を出して、ユディとリコリネは笑い声をあげた。
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そこから、森を抜けるだけでも、数日を要した。
「予定外のことだったけど、いい具合に『ほとぼりが冷めた』頃合いになりそうだね」
「まさにそうですね。まあ、本気で主の居場所を詰めようとしていたら、検問などが待ち構えていると思われますが」
「リコリネは相変わらず修羅思考ですね~~っ。というか、リルちゃんはもうすっかり、その騎士団がどーたらって話は忘れていました~~」
リルハープが、ユディの胸ポケットから顔を出している。
「あははっ! 確かに、僕も遠い昔の話に感じているよ。向こうもそうだといいんだけどね」
「こればかりは、運頼みですね。ああ、ようやく街道です。ずっと土の上だったので、この敷かれた道の踏み応え、もはや懐かしくすらあります」
「へいへいへい、のんき話はそこまでだ! 止まりな、兄ちゃんたち!」
リコリネの言葉を遮るように、ふたつの人影が、街道に立ちはだかった。
リルハープは、ぴゃっと胸ポケットの中に顔をひっこめる。
「―――なにやつか、名を名乗れ」
リコリネは、ユディを庇うように前に立つ。
「俺たちゃ泣く子も黙るバンブー兄弟! 俺は兄のバン!」
「お、おでは、弟のブーゴ!」
「おまえたち、ふたりぽっちの少ない人数でこの辺りを歩くなんざ、襲ってくれって言ってるようなもんだオイ! 楽して手っ取り早く稼ぐぜオイ!」
「さ、さすがバン兄ちゃん、村一番の切れ者だでな」
・ ・ ・
「ようやく見えてまいりましたね、あれが医療都市ですか」
リコリネは、ザイルでぐるぐる巻きにした二人の賊を引きずりながら、息を吐く。
「よかった、これでようやくこの人たちを騎士団に引き渡せるね。微妙に落ち着かない旅だったよ……」
ユディは、数日間の空腹で死にそうになっている二人の賊に目をやった。
「これで彼らも懲りるでしょう。図らずも、市中引き回しの刑となりましたね」
「市中は今からだよね?」
ユディは、無駄に隠れなければならなくなって機嫌の悪いリルハープを、胸ポケットの上からよしよしと撫でている。
そして案の定、人を引きずってくる全身鎧という衝撃的な光景を門番に見とがめられて、騎士団の隊長が呼ばれたりするゴタゴタがあった。
結果的にこのバンブー兄弟は賞金首だったらしく、騎士団まで行かずとも、街の門前で引き渡しは完了となる。
「ご協力、感謝します!」
おかげでというかなんというか、すんなりと街に入ることができた。
「うわあ、話には聞いていたけど、本当に真っ白い街だね!」
街に一歩入って、ユディは感嘆の声を上げる。
壁も床も、すべてが穢れのない白さで染め上げられた、まさに医療の街だった。
「これは圧巻ですね。血飛沫が舞えば、すぐに周囲にわかる辺りが実に機能的です」
「そういう目的で白いわけではないと思いますが~~!?」
リコリネの言葉に、リルハープが胸ポケットからこそっと言っている。
「さあ、まずは宿をとるとして、ここからどうしようか。臨時収入も入ったしね」
ユディの言葉に、リコリネはユディの肩掛けカバンを見た。
「私としては、主とリルハープ殿の怪我に備えたいので、早速、いただいた布地を包帯に加工する方法を探しに行きたいです」
「言っておくけど、この中で一番怪我をしそうなのはリコリネだからね?」
「む……おかしいですね。装甲が一番分厚いのも私のはずなのですが。リルハープ殿なら一撃死を約束された攻撃も、耐えて見せますよ?」
「どうしてリルちゃんを死の引き合いに出すのですか~~!? 縁起でもないことを言わないでください~~っ」
ぎゃーぎゃー言い合いながら、そこそこ旅慣れた足取りで、宿の方へ向かう。
途中の雑貨店で言い争いのような声がしたので、一同は思わず足を止めた。
「ね、おにいさん、だから、癒し布が来るはずなのよ、このあとの、どっかに。来た時でいいから、分けて欲しいって言ってんの。ね、お願い、おにいさん!」
「んなこと言われてもなあ、もう在庫がないものはないって答えしか出せねーんだ、ほら、帰った帰った」
紫の口紅をひき、肌を露出させた、うすい布地を纏った女性が、しなだれかかるように、店の若者へとねだっている。
癒し布、と聞いて、ユディとリコリネは顔を見合わせた。
すぐに頷きあって、ユディは雑貨店へと歩み寄る。
「あの、すみません。癒し布って…ひょっとして、これですか?」
そう言って、肩掛けカバンから大事にしまった真白の布地を取り出した。
薄着の女性は、パっと顔を輝かせる。
「そう、それよ、それだったら! ね、言ったじゃないのよ、おにいさん、癒し布が来てくれたわ。話し相手、ありがとね。もう御用はすんじまったわ」
女性は、ひらひらと舞う蝶のような足取りでやってきて、ユディの腕に絡みついた。
「おにいさん、それ、おいくら? アタイねぇそれ、必要なんよ。アタイのイイヒトが怪我しちまって。大工なんに、腕を怪我してりゃ、おまんまの食い上げで、世話ないったら! お願い、分けて欲しいの」
女性は、ぎゅうぎゅうと胸を押し付けてくるようにしがみついてきて、ユディはそれをとても邪魔だなと思った。
「落ち着いてください、事情はわかりました。そういう話なら、お譲りしますよ。僕たちも、これから包帯に加工できる業者を探そうとしていたところだったので」
「あら。そいじゃ、アタイがちゃちゃっと作ってあげるわ。それで交換コね? おにいさん、お宿はまだ?」
「はい、まだですが…」
「そ。そんなら、どうしよっか。お宿が決まってんなら、そっちに届けに行けたんに。加工だったら、喫茶店の中っくらいででもやってみせるんよ、慣れてっから」
「そこまで時間がかからない作業でしたら、我々と共に宿に来ていただくのはいかがでしょう?」
リコリネの提案に、女性はまばたきをした。
「あら、いいの? 宿に他人が行くなんて、旅人サンは嫌がるって思ってたわ! そいじゃ、お邪魔しよっかしら」
「…そうだね、リコリネがいいなら、そうしよう」
ユディは頷いて、宿に向かって歩き出す。
「ね、アタイ、セルミアっての。おにいさんは?」
セルミアは、ずっとユディに引っ付いてくるので、ユディはひたすら歩きにくくて困った。
簡単に自己紹介を済ませてから、リコリネと共に宿の部屋に入る。
セルミアは、遠慮もなく、バサリと宿のベッドの上に腰かけた。
「アハ、変な気分! 宿なのに、他人の家って感じがすらぁ。そいじゃ、おにいさんたちは、そこらに腰かけて、アタイの作業、見守っててよ。アタイねぇ、おしゃべりしながらじゃないと、おててが働いてくんなくって。そうは言っても、そっちの事情には興味ないんよ。アタイのことだけ喋っていたいだけだから、適当に聞き流してて?」
「はい…」
なんというか、初めて会うタイプの人なので、ユディはかなり調子が狂っていた。
しかし、リコリネは興味津々で、きちんと腰かけながら、セルミアの手元をじっと見ている。
まあ、リコリネが楽しそうだから、いいかな…と思い直す。
セルミアは、癒し布を膝の上に置くと、荷物の中から手芸道具のようなものを取り出し、とても滑らかな動きで手を動かし始める。
「にしたって、えらくタイミングがいいお出ましで! アタイ、驚いたったらないわ。ユディが王子サマだって言ったって、驚きゃしない! 乙女のピンチにかけつけてくれたものね?」
その言葉に、ユディは慎重に考えを深める。
「……いえ、違いますね。僕のタイミングが良かったわけじゃなく、セルミアさんが、癒し布の到着を知っていたわけですから」
セルミアは、作業を続けながら、喉の奥で笑った。
「あら、会話を聞いてらしたの? そうなんよ。ちょいとした事情があってね。おにいさんたちになら、話したっていいかしら。…アタイねぇ、ちょっと、婆サン役をやっていたのよ。そいで、それがうまく行って、ホントは酒盛りでもしたいくらい、機嫌がいいったら!」
ユディとリコリネは、ハっとしたように表情を引き締めた。
「アタイは、約束の民。ずうっとずうっと前からの、約束を果たしてきたトコロ。アタイの村は、蜘蛛糸を紡ぐ民でね。約束相手は、機織りの民。いつからなんか、どうしてなんか、その辺りのことぁとっくの昔に消えっちまった約束でね。だけど、毎年約束を果たして、この街の医療を影から支えてきた」
ショキ、ショキ、と、時折ハサミが優しく布地を切る音が響く。
「でもね。…ホントはアタイ、今年あたりに、バックレようかと思っちまってたの。古臭い決まり事なんてのに、ずうっと従い続けるなんて…、…縛られ続けることぁないって、フっと頭を掠めっちまって。そしたら、『お背な』に重たいモンをしょってるような気がしてきたんよ」
「……でも、行ったんですよね?」
ユディの静かな問いに、セルミアは自嘲気味な笑みを浮かべた。
「約束は、破られるものでもある。そう、いつだって、破ることができるんよ。そう思ったら、あの小屋が浮かんだ。…顔も見たことのない、マリージェンヌの存在が、いつだって傍に横たわっている、あの小屋が。アタイが…。おばばが行かなけりゃ、マリージェンヌはどうするかしら。ずっとずっと、意地はって待つかしら。アタイが行ったところで、あの子はハナにだって引っかけないって、わかっているんに。どうしても、それが気になってしょうがねぇの」
つい、とセルミアは手を動かし続ける。
布地はどんどんと、包帯に姿を変えていく。
「お外は寒いかしら。お膝を抱えて待つかしら。夜の森は、おっかないってのに。おばばを継いだのが、こんな蓮っ葉なアタイだってことも知らずに。これってねぇ変な話なんよ。アタイ、自分以外はどうでもいい性格だって、自分でもわかっていたはずなんに。どうしてか、あの可愛いチャンのことだけは、気になっちまう」
セルミアは、出来上がった包帯を、くるくると丸めていく。
よく見ると、セルミアの指先は、爪の先っぽまで、美しく整っていた。
「だからね。アタイ、今年でおばばをやめることにしたの。来年からは、他の子に頼んでやってもらうわ。一度逃げ出そうとしたそのことが、ずっと引っかかっててさ。アタイは、あの可愛いチャンの前に、不誠実なおばばが座るのは嫌なんよ。だから、アタイの守ってきた約束は。今日からは、ただの思い出」
「…どうして、それを僕らに話したんですか?」
「…さあ。なぜかしら。きっとアタイは、おにいさんたちがどうだっていいからよ。さ、できあがり。あぁ、砂時計で測ってもらえばよかった。そしたらアタイ、きっかり時間通りに仕上げられたんに。この作業だけは、得意なんよ!」
セルミアは、ユディのほうへと、ぽんと包帯を放った。
ユディが危なげにキャッチしている間に、スラリと立ち上がる。
「そいじゃ、残りの布は貰っていくわね。おにいさんたち、お元気で」
セルミアは、ユディの返事も聞かずに、さっさと部屋を出て行ってしまった。
ユディとリコリネは、ぽつんと部屋に取り残された気分になる。
最初から、この部屋は自分たちが取った宿であるはずなのに。
「セルミアは、ご主人サマたちがどこからやってきたのか、気づいていたのでしょうね~~」
リルハープが、ふわりと部屋の中を舞い上がる。
リコリネは、静かに頷いた。
「そうなのでしょうね。そしてあの約束は、今までにもきっと、何度も、破られる危機があったのでしょう」
「そう…だね。だけど、それでも今まで続いている。ほとんど奇跡みたいに。ヒニアとセルミアさんの二人が出会うのは、最初で最後になってしまったけど。そこに立ち会えた辺りは、なんだか縁を感じるよ」
ユディがそう呟いて、リルハープはふわりとベッドのサイドテーブルに降り立つ。
しばらく三人で、静かな時を楽しんだ。
ふと、リコリネの全身鎧が、小刻みに震えていることに、ユディは気がついた。
「リコリネ…?」
「……く……っ、す、みません、ちょっと…!」
様子が変だと、ユディは一瞬焦った。
が、すぐに訝し気に顔をしかめる。
「……笑ってる?」
バレたとばかりに、リコリネは次第に遠慮なく、体を抱きしめるようにして笑い始める。
「あるじは、社交はできませんね、と思うと、面白くなってしまって…!」
「ええ…?」
「ご主人サマ、気づいていないのですか~~? セルミアに胸を押し付けられていた時、ものすごーく、嫌そうな顔をしていましたよ~~!」
リルハープも思い出したのか、きゃらきゃらと笑い声をあげている。
「あ、あんなふうに、主の嫌がる顔は、初めて見ました、露骨すぎます、し、失礼ですよ…!」
リコリネは、それでもまだ必死に笑うのを我慢をしようとしている。
「だって、仕方ないじゃないか…歩くのにも邪魔だったし」
ユディは憮然とした表情で抗議をしようとしたが…。
二人が楽しそうなので、まあいいかな、と、結局そこに落ち着いて、温かく微笑んだ。
ユディの中心は、どうしたってこの二人でできているのだから。




