43それぞれの役割
海峡大橋の騎士たちは、ユディたちに状況を説明しはじめる。
最初の死体が見つかったのは、10日ほど前のことだった。
騎士隊長は、遺体の一部が腐り落ちている状況から、皆殺しのキルゼムの手口と判断した。
意外なことに、まずこの街を封鎖したのは、隊長の判断だったようだ。
といっても、住民を犠牲にする目論見ではなく、キルゼムをここで捕らえる絶好のチャンスと認識したためらしい。
ここの隊長はかなりの人格者で、部下を含め多くの住民から慕われていた。
彼は、不要な被害を出さないようにと、まず住民に家から出ないように勧告することから始める。
そして、隊員の命を尊び、キルゼムの討伐には自らが立ち向かうこととした。
隊長は、数人の手練れの騎士を引き連れて、しらみつぶしに街を探し始める。
万が一があった時のため、副隊長や隊員たちに細かな指示を送っておく…そこまではよかった。
隊長の大きな誤算は、自分の存在を軽んじすぎた点にあった。
指示された時刻を過ぎても隊長が戻ってこなかったとき、騎士たちに迷いはなかった。
だが、隊長という大きな支えを失った心の喪失感は、思った以上に騎士団の機能に悪影響を与えた。
隊長が想定していた以上に士気が下がり、そのため騎士団は、上からの命令をただ聞き入れるだけの傀儡となってしまった。
報告を上げた仁の大陸本部から、本格的に海峡大橋を封鎖する通達が来ても、騎士たちはただそれに従うのみだ。
隊長すらも敵わなかったという、見えない敵に対する不安と恐怖は日増しに増大していき、彼らは足踏みをするだけの日々を送っていく。
そんな時、応援に駆け付けた新米騎士のジャンティオールが、強大な力を持つリコリネの存在を待つことを推奨してきた。
彼らがそれに飛びついたのは、無理もない話だったのだろう。
「じゃあもう、住民の人たちは、10日間も閉じ込められているんですか!?」
ユディが驚愕の声を上げても、騎士たちは俯いて唇を噛むだけだ。
「……まずいですね。一刻の猶予もありません。食料の補給に街を出歩いたところを、すでに襲われている可能性すらあります」
リコリネが、緊迫した声をあげる。
ウェイスノーが、がしがしと頭を掻いた。
「いや、だが、想像以上にやっこさんの情報が無さすぎる…!! マジで他に手がかりとか、糸口とかもねーのかよ!? なんでもいいから言ってみてくれよ! このままじゃ、全員で突撃するにしても、犬死の確率が高すぎるだろ…!!」
騎士たちは相変わらず、何も言えないでいる。
「………リルちゃんが行きます~~…」
ユディの胸ポケットから、ふわりと妖精が羽を広げた。
「リルハープ、何言っているんだ!?」
「リルハープ殿!? ダメです、危険すぎます!」
焦ったように言うユディとリコリネ以外は、あんぐりと口を開けて、予想もしていなかったリルハープの存在を見上げている。
リルハープは、蒼白な顔色で、ゆっくりと首を振った。
「こうしてここに居るだけで、この先から狂った気配が伝わってくるのがわかります~~…。リルちゃんの偵察が無ければ、ご主人サマたちが本当に死んでしまう可能性は高いでしょう~~…! ご主人サマたちが、この街の状況を知らんぷりして回れ右できないというのであれば~~、リルちゃんの行動を止めるのは無しです~~っ」
「何言ってるんだよリルハープ! 別に無理して役に立たなくたっていいんだ、傍に居てくれるだけで…!!」
「そうですリルハープ殿、あなたが本当は誰よりも怖がりだということは、とっくにバレているのですよ!」
リルハープは、困ったような顔で、少しだけ微笑んだ。
「では、ご主人サマ~~。いいえ、みなさん~~。ちょっと想像してみてください~~。ある日、左手の甲が、チクリと痛むのです~~」
「……?」
全員がハテナを浮かべながらも、言われるままに左手の甲を見てみる。
「そこには何もないようにしか見えませんが、痛みは確かにそこにあるのです~~。でも、原因がさっぱりわかりません~~。…昔居た、リルちゃんの大事な友達が、そういう状態になったことがあるのです~~。その子は、自分はこのまま死んでしまうのではないかと、怖くて怖くて泣きじゃくってしまいました~~。みなさんも、自分が同じ状況になったら、大なり小なり、怖いのではないかと思うのです~~」
リルハープは、懐かしむように目を細めて、手近なウェイスノーの左手にふわりと降り立った。
ウェイスノーは、ためらうように、リルハープを見ている。
「ですがそこには、人間の目にはなかなか見えないくらい、細く小さな植物の針が、プチっと刺さっているだけだったのです~~。その子は原因がわかった瞬間、『なーんだ』と言って、ぱっと笑いました~~…。わかりますか~~? なんだかわからないということ、それ自体が、余計に恐怖心を煽るのです~~」
「たしかに、そうっス…!」
ジャンティオールは、感心したように声を漏らした。
リルハープは、リコリネの方を振り向く。
「同じく、リコリネ~~。あなたはかつて、抜かずの剣の話をしましたね~~。頭の中にあるものの威力が、一番強いのだという話でした~~。つまり今、みなさんは、なんだかわからない相手を、頭の中で必要以上に強いと想像してしまっているのです~~。ですから、リルちゃんの偵察が必要なのですよ~~!」
ユディは、青褪めた。
反論が、できない。
リコリネも同じようで、ぎゅっと拳を握っている。
「ウェイスノー、今までキルゼムの被害の中で、鳥が腐り落ちていたというたぐいの報告はありましたか~~?」
「いや、俺が知る限りでは、そんな話はねーけど…」
ウェイスノーの言葉に、他の騎士たちも頷く。
リルハープは、満足げに頷いた。
「では、空を飛んでいる限り、勝算はあります~~。大丈夫ですご主人サマ、リルちゃんは無事に帰ってこられますよ~~!」
「で、でも…!!」
歯切れの悪いユディを無視するように、リルハープは騎士たちの方を向く。
「覚えている限りでいいので、そこの地面に、この宿場町の地図を書いてください~~」
「わ、わかった…!」
リルハープは、ウェイスノーの手の上で、描かれていく地図を真剣に覗き込んでいる。
「……リルハープ殿、決心は、固いようですね……」
リコリネが、諦めるように項垂れる。
「ふふーん、当然です~~。この中ではリルちゃんが一番年上ですからね~~っ、まとめて面倒を見てあげますよ~~! ですが、リルちゃんにできるのは、どうしたってここまでです~~。あとは本当に、みなさんに任せるしかありませんからね~~、今のうちに覚悟を決めておいてくださいね~~!」
リルハープは、鼓舞するようにわざと語気を強めた。
ウェイスノーは、しっかりと頷いて見せる。
「ああ、当然だ! 本当にすまねー、リルハープちゃん。今回ばかりはあんたに頼るしか道が無いみてーだ……俺たちには羽が無いからな」
「そうですね~~、羽がある者の務めを果たしに行く気で居ることにします~~!」
「リルハープ…!!」
ユディはリルハープの名を呼ぶのだが、どうしてもそこから言葉が続かない。
リルハープはまた、困ったように笑った。
「なんて顔をしているのですか、ご主人サマ~~。リルちゃんは死にに行くわけではないのですから~~、縁起の悪い空気にしないでください~~!」
リルハープは、地図をしっかりと覚えると、ふわりと舞い上がった。
そこから、愁いを断つように、何も言わずにパタパタと門の向こうへと飛んで行く。
行ってきますとも言わずに。
「……!!」
ユディもリコリネも、固唾を飲んで空を見上げる。
そのまま、凍り付いた様に立ちすくんだままだ。
「……ジブン、ちょっと行ってきます!」
いきなりジャンティオールが、外に向けて走り出した。
ウェイスノーが、面食らったように目を向ける。
「あ、おい、ジャン!? …なんなんだ?」
しかし追いかけるわけにもいかず、結局ウェイスノーはその場に残った。
何か話しかけられたらよかったのだが、ユディたちを見守ることしかできない。
歯がゆい思いをしながら、ユディたちを見たり、閉じた門の方を見たり、空を見上げたりと、ウェイスノーは忙しなく待ち時間を過ごした。
時々耳を澄ませて、なにか物騒な音が聞こえてこないかと、ヤキモキしたりもする。
ちょっとした時間が、途方もないほどの長さに感じて久しく、そろそろ、このままでは神経が衰弱してしまうのではないかと心配になってきた頃。
「……リルハープ!!」
誰よりも先に、ユディが声を上げる。
遠い空に、美しい羽を震わせながら、妖精の姿が見えてきた。
リルハープは、無事に帰ってきた。
-------------------------------------------
全員が、ワっと湧き上がるほどに歓声を上げた。
が、それはすぐにしぼんでしまう。
リルハープの様子が、ただごとではなかったからだ。
「リルハープ、…リルハープ!!」
「~~~~っ!!」
必死に伸ばしたユディの手の上に、ぽたんと落ちるような着地を決める妖精は、憔悴しきっていた。
よほど緊張していたのか、はあはあと息が荒く、顔色は真っ青だ。
「リルハープ殿、よくぞ…! もう大丈夫です、もう安全地帯ですよ!」
リコリネがおろおろと声をかける中で、「ただいま戻りました!」と、ジャンティオールの元気な声が響いた。
ウェイスノーが、空気を読めよ的な文句を言おうと振り向いて、しかし言葉を止める。
ジャンティオールの手の中には、一輪の大ぶりな花が握られており、急いでそれをユディの手の上に居るリルハープに差し出した。
「これ、どうぞ! 妖精さんなら、お花とか、気持ちが落ち着くと思って…!」
「……!」
リルハープを含め、場の誰もが息を呑んだ。
「う、あ、…ありがとう、ございます~~…っ!」
リルハープは、ぼろぼろと涙をこぼして、ひしっとジャンティオールの腕の中の花にしがみついた。
ユディは、もらい泣きのように涙ぐんで、ジャンティオールに感謝の目を向ける。
「ジャン、ありがとう…! 君のそういうところ、僕は本当に大好きだよ…!」
「ユディ君…!! とんでもないっス…。ジブン、ユディ君の友達なのに、何の疑問も持たずに危ない目に合わせようとしてしまって…。ホントに大事だったら、まず危険から遠ざけるべきだったのに…。間違えてしまって……」
ジャンティオールの目には、後悔の涙が浮かんでいた。
ユディは、急いで首を振る。
「そんなこと、どうだっていいんだよ。それに、それくらいで嫌いになったりしない。だって、友達なんだから」
「…!!」
ジャンティオールは、しばらく目元をぬぐって、嗚咽をこらえる。
その間にもリルハープの震えは収まらず、ひっくとしゃくり声を上げながら、「もうちょっと、まってください」と、か細い声を発した。
「何言ってんだよリルハープちゃん、いくらでも待つっての! 大体ここまで来たら、あと一日ぐらい経ったとしてもそう変わりゃしねーって!」
ウェイスノーの言葉に、リルハープは小さく、くすっと笑った。
「ウェイスノーは、どんぶり勘定すぎます~~…」
それがきっかけになったのか、リルハープは、徐々に落ち着きを取り戻していく。
何度も何度も深呼吸をして、気持ちを整えていき…やがて、花の葉の上に、しっかりと座り直した。
「リルちゃんの予想を交えて、最初からお話ししますね~~…」
場の全員が、気を引き締めるように、リルハープに向き直る。
リルハープは、意を決して話し始めた。
「キルゼムの正体は、おそらく≪精霊の見放し子≫です~~。そして信じられない話ですが、それに酒の……いいえ、腐食の精霊ススイグナが、祝福を与えたのだと思われます~~……」
場がざわついた。
「精霊の見放し子って、精霊から与えられた祝福が極端に少ない人のことだよね?」
ユディが思わず問うと、答えたのはウェイスノーだ。
「いや、ごく稀にだが、まったく祝福を与えられていない事例も確認されてるな。同じ日の、近い場所で、同じような時間帯に子供が生まれた時とかにそうなる可能性が高いって話を聞いたことがある。双子とかが代表例だな」
「あのスカスカした感じは、おそらく、まったく与えられてない方のタイプだと思います~~。感情の残り香も、たくさんありましたからね~~。羨望、渇望、承認欲求、嫉妬、怒り、劣等感……それらから予想すると、そうなります~~」
リルハープの言葉に、リコリネが首を傾げた。
「残り香…ということは、今は違うのですか?」
リコリネの問いに、リルハープは、慎重に考えながら、言葉を発していく。
「…おそらく、最初は、生まれて初めて得た祝福を、使ってみたかっただけなのだと思います~~。それがどんなにマイナスの結果になるとしても、街を点々としながら、彼は祝福の力を振り撒き続けた~~…。ところがこの街で、かなり追い詰められてしまったのでしょうね~~。キルゼムには、片腕がありませんでした~~」
ごくりと、騎士の喉が鳴った。
「そして、追い詰められたことで、祝福の力が暴走をしてしまったのだと思われます~~。本来、精霊の祝福の力は、使いすぎると、力の持ち主は気絶をするなどをして、暴走をする前にストッパーがかかるようにできています~~。ですが、キルゼムが後天的に祝福を受けた存在だとするなら、そのストッパーは正しく働かなかったのでしょうね~~」
リルハープは、その光景を思い出したのか、ぞっとするように身震いをする。
「アレには、『うごくしかばね』という印象を受けました~~。もう、ほとんど思考も意思もなく、本能のようなもので、祝福を振り撒き続ける~~…。リルちゃんが見たものは、大量に撒き散らされた瘴気の中心で、目的もなくうろつき続ける、人間だったものの残骸でした~~…。今はもう、アレから新しい感情が発生することは、無いでしょう~~…」
それを、リコリネへの答えとした。
ウェイスノーは、情報を整理するように、額を押さえる。
「…ってことは、皮肉な話だが、封鎖して住民を閉じこもらせたのは正解だったわけか。思考力が無いってことは、自分から襲い掛かったりもしねーだろうからな。町民のほうから戦闘を仕掛けたりもしねーだろうし、とりあえずは安全そうか…?」
「で、でも、大量の瘴気を撒き散らしてって、近づけないってことにならないっスか!? 話の流れ的に、触ったら腐る感じっスよね!?」
「いやー、マジで助かったよリルハープちゃん、こりゃ知らずに突っ込んでたら全滅だったな…!!」
ジャンティオールの言葉に、ウェイスノーは心の底からそう言った。
「しっかし、やっこさん、上手く自壊してくれねーもんかなあ…。つっても、10日間は経ってるわけだからな、そういう都合のいいことも期待できねーか…」
「そうですね、仕組みがよくわからないイレギュラーな点も多いので、常に最悪の事態を想定しておいた方がいいでしょう。様子見は悪手だと思われます」
ウェイスノーへと、リコリネが言う。
じっと考え込んでいたユディが、ようやく口を開いた。
「周辺の瘴気については、僕の方で何とかできると思います。ただ、新しく発生するような攻撃については、たぶんカバーしきれない」
「…となると、私が行くしかありませんね」
「…リコリネ!?」
ユディが驚いて、咎めるようにリコリネを見た。
リコリネは、いつものように淡々としている。
「仕方がないのです、主。どう考えても、肌が露出している者ほど危ないことになります。触れられた瞬間に腐り落ちる可能性が高いのですから。今まで特に意味もなく全身鎧などを着てまいりましたが、ここにきて有用性が出てきましたね」
「えっ、意味なかったんスか…!?」
ジャンティオールが静かに驚いている。
「いや、流石にそれは、なんで一般人が率先して危ねー方に突っ込むんだよ! 俺らを使えよ!?」
ウェイスノーが渋い顔で口を出した。
「そ、そうですよリコリネ、何かあったらどうするのですか~~!? あなたが思っている以上に、怖いものが待ち構えているのですよ~~!」
リルハープも、泣きそうな顔でリコリネを止める。
「…いえ、リルハープ殿。不測の事態と思われては困るので、あらかじめ言っておきますが。間違いなく、何かあるでしょう。それも致命的な」
「リコリネ…!!」
ユディは、ほとんど怒ったような声を出した。
「主、勘違いしないでください。別に自己犠牲の精神などでこう言っているわけではありません。ですが戦力を分析すると、どうしてもこれが最善手となるのです。まず、私はこの街の地理を把握しておりませんので、住民の避難、防衛を考えると、この街の騎士殿たちにそれをおこなってもらうしかありません。また、キルゼムの攻略法がないか、隙を作れるか、などを背後から狙っていただくことを考えると、まず突っ込むのは、長持ちできる人材で行くしかないのです」
全員が、茫然とリコリネを見ている。
「また、あまりこういうことは言いたくないのですが、騎士団の装備は量産品が多く、貧弱です。キルゼムが放つ腐食に耐えられるかどうかが怪しい。そして私の全身鎧も、オーダーメイドであるがゆえに、他にサイズの合う者も居ません。やはり私が行くしかないのです。そして、『私に確実に致命的な何かが起きる』という前提で動いてもらうしかありません。これを腹に据えておかなければ、驚愕で足が止まる可能性がありますからね」
「…! い、いやです、リコリネ、行かせませんよ~~!」
リルハープは、目に涙を溜めながら、ひしっとリコリネにしがみつきに行った。
しかしリコリネは、リルハープをひょいと摘まみ上げると、ジャンティオールに差し出す。
「ジャン殿、リルハープ殿と留守の方を頼みます。ウェイスノー殿には、主の護衛をお願いしたい。私にはおそらく、主を守る余裕はないでしょうからね」
ジャンティオールはおろおろしながらも、反射的にリルハープを受け取って、反対の手で花を握りしめている。
ウェイスノーは、「だが…」と言ったまま、二の句が告げられないでいた。
「リルハープ殿。先程あなたは、羽がある者の務めを果たしに行くとおっしゃいましたね。素晴らしいお考えです、とても感銘を受けました。今度は私の番です。鎧をつけた者の務めを果たさねばなりません。リルハープ殿、そこの足元の地図へ、最後にキルゼムを見かけた場所をお示しください」
「リコリネ! 何勝手に話を進めているんだ!」
声を荒げるユディに、リコリネは静かに向き直る。
ユディは、驚いた。
ユディはもう、リコリネの感情が、フルフェイスをつけていても理解できていると思い込んでいた。
だがそれは、思い上がりにしか過ぎなかったようだ。
目の前のリコリネは、水のように静まり返り、何の感情も読み取れない。
リコリネは、まぎれもなく、貴族の娘だった。
彼女が本気を出せば、本当に感情が読めなくなるのだ。
逆に言えば、今までリコリネが、どれほどユディの前でありのままの自分をさらけ出していたのか、今更それがわかり、ユディは胸が締め付けられた。
リコリネは、静かに語りかけてくる。
「では主、この旅をやめられますか?」
「……え?」
「この旅をやめて、この街の惨状を捨て置いて、ライサス先生の家で、楽しく幸せに暮らす道を選びますか? それならば、私はそれでいいのです。どうぞ、命じてください」
「…………」
当たり前だ。
この旅を諦めると。
そう言うだけだ。
簡単なことだ。
リコリネとリルハープを失うことだけは、耐えられない。
だが、ユディはなぜか、凍り付いたように動けないでいる。
何度それを言おうとしても、どうしても言い出せない。
まるで、呪いのようだ…と、頭のどこかで思うほどに。
リコリネから、小さく笑うような気配がした。
「…なんて、ここで諦められるくらいなら、もっと早くにそうなっていましたね。…ねえ主。この世界には、今一体何が起こっているのでしょうね」
リコリネは、遠くを見るようにどこかを見て、優しげな声を出す。
「なぜ、今なのでしょうか。なぜ、主の里をモノノリュウが襲ったのでしょうか。なぜ、本来祝福を与えないはずの精霊が、祝福を与えるようなことが起こっているのでしょうか。これは偶然なのでしょうか。偶然ではないのだとしたら? 何かが狂い始めているのだとしたら? これは、始まりに過ぎないのだとしたら?」
リコリネは、一度言葉を千切り、改めてユディに向き直る。
「主、行きましょう。我々は、モノノリュウを倒しに行かなければならない。それが、狂い始めたこの世界を救うことになるのではないかと、なぜか今、そう思います。楽観視を避けるために色々と言いましたが、私はこのようなところで死ぬ気はないのですよ」
何も言えないユディに、リコリネはなおも言葉を続ける。
「それに、ここでキルゼムから逃げても、また同じようなことが起こるかもしれません。それがライサス先生の居る叡智の街で起こるかもしれないと仮定するのは、バカげた話でもないような気がします。行きましょう、主。理由ならたくさんあります。この街の、頑是ない子供たちを救うためでもいい。商人殿も今この街で足止めを食っているのでしょう。誰かがやらなければならないのです。そして、逃げる理由と同じくらいたくさん、立ち向かう理由もあるのです。世界とは、そういうふうにできているように感じます」
「リコリネ……」
「主。私と主のコンビネーションは、無敵ですよ」
リコリネはユディに、手を差し出す。
ユディは、しばらくじっとそれを見つめた後。
しっかりと手を握る。
「…そうだね。海賊船だって、真っ二つだったよね」
ユディは、涙を流して、微笑んだ。
リルハープとジャンティオールは、目に涙を溜めながらそれを見ている。
ウェイスノーは、つらそうに拳を握り締めた。
どうか、これが悲痛な決断になりませんようにと、誰もが願っていた。




