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モノガリのユディ  作者: ササユリ ナツナ
第一章 ひとりめ
19/137

19目覚め

「ネーヤ、ネーヤ!」


 ゆっくりと目を向けると、母に贈ってもらった愛用のティーカップがキラキラと輝いていて、そこに描かれている青い鳥が、チョンチョンと飛び出してきた。


「……幸せの…青い鳥…?」


 呆けたように呟くネーヤラーナに、青い鳥はパサリと翼を広げた。


「そうだよ、ネーヤ! ずっと見ていたよ! ネーヤ、可哀想なネーヤ、だけど大丈夫、ボクが居るよ! ボクを、使って! ボクが君に、幸せを贈るよ! さあ、なんでも願い事を言ってみて! 叶えてあげるよ!」


「…今更…!!!!」


 カっと頭に血が上った。

 だが、それは一瞬だった。

 八つ当たりをするような不健全な心は、ネーヤラーナからすぐに消え失せた。


「そう……だよね。あなたは、ちっとも悪くない…。悪いのは、わたし。おかあさんをこの手で殺めたのは、わたし……」


 青い鳥は、とび跳ねるように飛んで、ティーカップの淵にとまり、ちょこっと首をかしげる。

 その忙しない動きは、ただの小動物にしか見えない。

 ネーヤラーナは、すがるように、願い事を口にする。


「おねがい青い鳥…。わたしに、償うチャンスをちょうだい…! 世界中の人を、幸せにしてあげたい! おかあさんの、ぶんまで!」


「ネーヤ、やさしい子! ボクにまかせて!」


   パアアアアアッ!!


 その小さな青い鳥は光輝き、そこから夢のような光景が始まった。


「だったら、悲しいことは、ボクが全部食べてあげる! 悲しいことがなくなったら、幸せしか残らないもの!」


 青い鳥は、大きく胸を膨らませながら、何かを大きく吸い込んでいく仕草をした。

 何かを吸い込むにつれて、青い鳥はぐんぐんと大きくなっていく。

 ネーヤラーナの家は、どんどん大きくなる青い鳥の質量に耐えきれずに、はじけ飛んだ。


 ネーヤラーナの目の前には、ティーカップを逆さにしたような居住区を背負った、大きな青い鳥が居た。


「さあネーヤ、行こうよ、冒険の旅に! 世界中を巡って、いろんな人に幸せを届けよう!」


 まるでそれは、絵本の一節のように、ステキなセリフだった。


 ネーヤラーナは、子供のように瞳を輝かせる。

 目の前には、希望しかなかった。

 一体さっきまで自分が何を悲しんでいたのか、かすかにしか思い出せない。


「うん…っ、うん、そうね、行こう、チルチル!」


「チルチル! それが僕の名前、ステキな名前!」


 チルチルはネーヤラーナを乗せると、大きく翼をはためかせて、その村を旅立った。


 後に残ったのは、肉色のマシュマロのようなものが散在するように転がる、無人の村だけだった――



-------------------------------------------



 ユディは、ゆっくりと目を開ける。


 望んでも居ないのに見えた光景に、一瞬、どちらが現実なのかわからなくなった。

 なぜ、こんなものが見えてしまうのか。

 ライサスライガが言っていたように、モノガリの血筋に、モノノリュウと繋がる何かがあるとでもいうのだろうか?


 ネーヤラーナは、茫然と、リルハープがぶつかってきた額に手を当てている。

 この額には、何か愛しい思い出があったはずなのに。

 今は、ジンジンと痛いだけで、…何故だかそれが悲しくて、涙が出た。


   ドクンッ!


 突然、大きな音が足元から響いた。

 同時に、がくんと天地が揺れる。


 床や壁や天井や、そこら中がキラキラと光り始めた。


「ああ…夢から覚めてしまう…!!!」


 腹の底に響くような、大きな声。

 先程頭の中に流れ込んできた光景で聞いた、青い鳥の声と同じだ。


「チルチル! チルチル、嫌だよ、行かないで!!」


 ネーヤラーナは、縋り付くように、壁に寄り掛かった。


「ネーヤ、ネーヤ、大好きなネーヤ! 君と離れたくない、もっとずっと一緒に旅をしていたい…!」


 ユディは、気を失っているリルハープを拾い上げながら、周囲を見渡す。

 世界の法則が無視できなくなったかのように、この場には、空を飛ぶときの慣性がかかり始めていた。


「ネーヤ、だけど、ネーヤ…! 今のボクに一番重要なことは…君を死なせないこと!」


 グン、と加速が早くなった。

 青い鳥は、死に物狂いで翼を動かし、かつてない速さで陸地を目指していた。

 エネルギーに消費されていくように、そこら中に転がっていた肉色のマシュマロがとろけていく。


「ネーヤ、幸せな夢をありがとう! 君の絶望が深すぎて、全部食べてあげられなくてごめんね? 今度はちゃんと、自分のために生きるんだよ? 大丈夫、君ならキチンと生きていけるさ!」


「やだ、やだああああっ、チルチル! わたしにはもう、あなたしかいないのに!!」


 チルチルの羽ばたきに応じて、横向きにかかってくる圧力に逆らえず、ユディは壁に押し付けられる。

 喋ることすらできない。

 せめて庇うように、リルハープを大事に抱きしめる。


「ネーヤ、ネーヤ、大丈夫だよ、その悲しみだって、ボクが食べてあげるから!」


 壁が、床が、キラキラと薄れていく。

 竜の夢が、覚めていく。

 ほとんど透明になった壁の先で、今にも大陸の端に激突するように、地面へと突っ込んでいく様が見えた。


「―――ッ!!」


 ユディは、息を止めた。


   ポンッ!!!


 覚悟していた衝撃は、来なかった。

 ユディやネーヤラーナは、淡い泡のようなものにくるまれて、ふわふわと地面に降りていく。

 リコリネも、それから幸せの国を目指した他の住人たちも。

 何が起こっているのか理解できない顔で、ふんわりと地面に降り立った。

 そこで、最後の夢がはじけて消えた。


 足元には、割れたティーカップが転がっていた。

 やがてそれも、風化するかのように、サラサラとした砂礫となって消えていく。


 ガシャガシャと音がして、ユディはそちらを見る。

 全身鎧のリコリネが、ユディの傍に立っていた。


「……終わったのですね」


 リコリネは、東の空を見上げている。

 ちょうど、陽が昇るところだった。


 シャラシャラと夜の空気が結晶化し、砕けていく。

 紫苑の夜が過ぎ、翡翠色の朝が始まる。

 キラキラキラキラと、世界は本当に美しかった。

 夢と現のあわいの中に、一瞬だけ、青い羽根が見えた気がした。

 ユディは、一筋だけ涙をこぼした。

 それはいつもの、理由がよくわからない涙ではなかった。


「うん……終わったね」


「わたしは、一体……?」


 きょとんとしたネーヤラーナの声がする。

 ユディはリルハープを胸ポケットに大事にしまうと、ネーヤラーナの方へ行く。


「ネーヤさん、大丈夫ですか?」


「ああ、ユディさん…。すみません、なんだかボーっとしてしまって…」


「ネーヤちゃん!」「これは一体、どうなっているんだ…?」


 青い鳥の住人たちが、戸惑いながら集まってくる。

 ネーヤラーナは、額に手を当てた。


「え…と…。そうだ、皆さんと一緒に、わたしは幸せの国を目指していて…。隣に、大切な誰かが居たような気がしているのに…思い出せない」


「…そうだ、そもそもどうやって旅をしていたんだっけなあ?」


 住人たちがざわめいている。


「…なるほど、夢から覚めたのですね。私たちだけが内容を忘れずにいるのは不思議ですが、まあ、夢に説明を求めるのは無粋なのでしょう」


 リコリネが、戸惑う人たちを見ながら、独り言のように呟いた。

 ユディが、どう説明したものかと戸惑っていると、背後から声がかかった。


「おや、ネーヤさん! 今回は早いですね、どうかされたんですか?」


「あ…おじさん! そう…でした、ここは、いつもの待ち合わせ場所で…すみません、果物と、物々交換…でしたよね? ごめんなさい、今回は、果物とか、持ってきていなくて……」


 そこにやってきたのは、騎乗鳥が引く荷車、つまり鳥車に寄り添った、恰幅のいい商人だった。


「ははあ、事故か何かで荷を無くしたとかですかな? 悲しいことに、よくある話ですからねえ…。いえ、ちょうどよかった。実は今回、皆さんをスカウトしようかと思っていたところだったんですよ」


「スカウト…ですか?」


「ええ。いつも格安で上質な果物を頂いていたおかげで、私の商売も軌道に乗ってきましてね。個人的な商売から抜け出して、キャラバン隊でも作ってみようかと思っていたところだったんです。前に、行き場のない方々を連れて放浪の旅をしているとおっしゃっていたでしょう? いかがでしょう、私と共に、キャラバンを作ってみるというのは」


「え……」


「いえね、こういった商売は信用第一ですから、みなさんのような善良な方でないと、後ろを任せられないんですよ。何度か交流させていただいて、絶対に金品を奪って逃げるような方々ではないという確信があってですね」


 戸惑うネーヤラーナの代わりに、ユディがずいっと会話に割って入った。


「助かります! 実は、この人たちの荷を失わせてしまったのは、僕のせいなんです。とても責任を感じていて…どうか、まずはこれを受け取っていただけますか?」


 ユディは懐から、布に包んだ大金貨を取り出して、商人に渡した。

 ライサスライガに、靴底に仕込めと言われていた予備のお金だ。

 さすがに金貨を踏みながら生きていける程の度量はユディにはなかったので、財布とは別の場所に仕舞う、くらいのつもりで持ち歩いていた。


「これを資金源にして、彼らを養っていってあげて欲しいんです。お願いします。僕には行かなければいかないところがあって…」


「こ、これは!? アデリーサの大金貨!!?」


 商人の声が裏返って、ユディはきょとんとした。


「…そんなにすごいものなんですか?」


「すごいもなにも! 傾国の美姫、アデリーサをご存じない!? 彼女はその美貌で当時の王を虜にし、自らをかたどらせた金貨を作らせたのです! それがなんと、金貨どころの騒ぎではなくてですね、金の含有率が100%、つまり金塊なんですよ、これは!」


「ああ、道理でクソ重たいと思いました…」


 思わず道中の不満が漏れた。


「しかし金である以上に、やはりこの型に意味がありましてね。その経緯から、造られた枚数も少ないし、コレクターの間では金貨何百枚の単位で取引されているものです! 本当にこれを頂いてよろしいのですか!?」


 よろしいのですか、と聞きながらも、商人は早くも、いそいそとカバンに仕舞い込んで行っている。


「ええ、貰いものですし、人の命には代えられません。どうかそれで、ネーヤさんたちをよろしくお願いします」


 ユディは深々と頭を上げる。

 ネーヤラーナは、焦ったようにユディを見た。


「ユディさん、何故…!? そこまでしていただくわけには…!」


「いえ、ネーヤさん。そうさせてください。そして、感謝をしていただけるなら、何も聞かないでいただけるとありがたいです。…ね?」


 ユディは、ちょっと悪戯っぽく笑った。

 ネーヤラーナは、一瞬驚いた顔をする。

 すると、ユディたちと一緒に青い鳥に乗り込んだ、あのメガネの男が一歩前に出てきた。


「ネーヤさん、何があったか、いまいち理解はできていないのですが…。ですが、嬉しいです。あなたが今までボクたちにたくさん尽くしてくれたことは、本当に心の支えでした。見ず知らずの誰かのために、こんなに親身になってくれる人が居るんだと、感動すらしました。今、ボクたちは、対等になれました。ボクたちは、あなたから一方的に恵みを享受する立場から脱して、これからあなたにたくさんの恩返しができる。そのことが、嬉しい」


「そうよ、ネーヤちゃん、今度は私たちが、あなたを幸せにする番よ。一緒に正しく、生きて行きましょうね。あなたとなら、それができるわ」


「え……あの……」


 ネーヤラーナは、瞬く間に住民に囲まれて、色々な言葉を投げかけられている。

 過程が失せ、結果だけが残り、初めて彼女は報われ始めている、ということだろうか。


 その様子に安堵の息を吐き、リコリネが商人の前に出る。


「商人殿。もし、商売に行き詰ったら、掘削の街のガッディーロをお尋ねください。リコリネからそう言われたと伝えれば、便宜を図って貰えるでしょう」


「ガッディーロ! 勇名は聞き及んでおります、これは頼もしい。ではあちらの大陸に渡ることがあれば、惜しまずその名を使わせていただきましょう! いやはや、幸先がいいどころの話ではありませんなあ! 提案してよかった! ささ、みなさん、こちらへどうぞどうぞ! まずはキャンプを張って、今後の予定を詰めないといけませんね! 私の予定としては、この後は材木の村に寄る感じなんですよ!」


 まだ状況が呑み込めていない人々を、商人が手招いた。

 ユディが、ふと質問する。


「あちらの大陸、と言っていましたが、ここはどこなんでしょう?」


「はいはい? ガッディーロということは、こうの大陸から来られたということですよね? ここはその南、はんの大陸ですよ」


 ユディは急いで腰元から、丸めた地図を取り出す。


「そっか、今更だけど、大陸を渡っていたんだね…。南ってことは、果ての大陸からは遠のいてしまっているのか。ええと、一番近い街は……」


「まあまあ、お坊ちゃん、旅の疲れもあるでしょう! いささか貰い過ぎましたからね、情報交換がてら、私の鳥車から保存食やら旅の道具やら、お好きなだけ持って行ってください。そうだ、知りうる限りのツテへの紹介状も書きましょう、宿代の割引などに使えますよ! さて、まずは全員で朝ご飯! 腹が減ってはなんとやらですからなあ!」


 商人の提案で、とりあえず全員が動き出す。

 ユディたちも、ひとまずは一休みさせてもらうことにした。



-------------------------------------------



「リコリネ、怪我はない?」


 団体から少し離れたところで食事をとりながら、ユディは隣に座る全身鎧の騎士を窺う。


「はい、もちろんです。主こそ、御無事でよかった」


「うん、僕は無事なんだけど…リルハープがまだ目を覚まさなくて……」


 ユディは、困ったように胸ポケットをそっと抑えた。


「なんと…! 申し訳ありません、お二人を守るのが私の役割だと言うのに…!」


「ううん、リコリネのせいじゃないよ」


「わたしのせい、ですよね?」


 心配そうな顔をして会話に割って入ってきたのは、ネーヤラーナだ。


「ごめんなさい、仕組みはよくわかりませんが、お二人にご迷惑をかけたことだけは、なんとなく覚えているんです。そして、もう一人、秘密の仲間がいらっしゃったことも。わたしに癒しの力が使えればよかったのですが……」


 ネーヤラーナは、気持ち声を潜めて、しゅんとしながらユディの胸ポケットを見ている。

 ユディはゆっくりと首を振った。


「いえ、ネーヤさんが悪いわけではありません。どうぞ、悪い夢を見ていたと思って、これからを生きて行ってください。…と言っても、気にするなと言われて、気にしないような人ではありませんよね、ネーヤさんは。困ったことです、一緒に何日か過ごしてしまうと、そんなことまでわかるようになってしまう」


 ユディが微笑むと、ネーヤラーナは、釣られたように少しだけ微笑んだ。


「夢…ですか。確かに、長い夢を見ていたような気がします。仕組みがわからない所も、夢と同じですね。…ですが、ユディさん、少し、変わられました…?」


「え……? ネーヤさんじゃなくて、僕が、ですか?」


「はい。なんだか、とても人間味あふれる方だなと、今は感じています。最初に抱いた印象は、……」


 ネーヤラーナは、一度言葉を切った。


「…いえ、すみません、上手く言えませんでしたね…! こんな時まで、ダメダメですね、わたし、あはは…!」


 しばらく考え事をしていたリコリネが、ようやく口を開いた。


「ネーヤ殿。私は、あなた方をとても強い人だと感じております。なぜなら、あなた方は全員、酷い目にあったり、裏切られたり、絶望を覚えたりしても、死を選ばずに、幸せの国への旅立ちを選んで集ったのですから。あなた方は、立ち向かう人だ。ダメダメではありません。まずは自信をお持ちになることから始めることを推奨します。あなたの笑顔は、ステキです」


 よほど予想外の言葉だったのだろう。

 ネーヤラーナは、泣きそうな顔をして、口元を押さえた。

 ユディも、言葉を添える。


「ネーヤさん、この子のことは気にしなくても大丈夫です。気絶をしているだけですからね。そのうち目を覚ますでしょうし。さあ、みなさんのところへ行ってください。みんな、あなたを待ってますよ」


 ネーヤラーナは、しばらく口を閉ざしたが…やがて、頭を下げた。


「あの、ありがとう、ございました…! 助けていただいたと感じます。救われた気持ちです。だから、わたしからも、同じことを言いますね! もし、気にされていることがあるなら、気にしなくても大丈夫ですよって。これで、おそろいですね、あはは! わたし、これからも、キャラバンで、絶望に暮れた人を集めて旅立つことを、提案してみようと思っているんです。未来をありがとうございました!」


 ネーヤラーナは、照れたように笑うと、ぱっと商人たちの方へと戻って行った。

 ユディは、安堵の息を吐く。


「……よかった。あれでよかったのかなって、ちょっとだけ、思っていたから」


「そう……ですね。難しい問題でした。しかし万人が抱く幸せの形が同じものではない限り、ああしてこれから、色々な幸せの形を模索していくのが、正しい形のようにも思えます」


「うん…。……。…それにしても、ライサスさんって過保護だったんだね? アデリーサの大金貨だってさ」


「…ふふ。渡すときにそれを伏せていたのも、過保護の一環だったのかもしれませんね? もし最初からそれがわかっていたなら、主は持ち歩くのにびくびくと緊張して、さらに旅路が遅れていたでしょう」


「リコリネ、リルハープみたいなこと言わないでよ…! 憎まれ口をたたくメンバーなんて、一人で十分なんだからね」


「申し訳ありません。もちろんこれは、リルハープ殿の代わりを務めないと…という、私の努力の一環ですよ?」


「君が努力すべきは、もう少し恥じらいを覚えることじゃないの? 僕に着替えを見られたことに味を占めて、フルフェイスと下着だけをつけて水浴びから帰ってきたのを見た時は、とてもとても先が思いやられたものさ」


「味を占めてとは聞こえが悪い。怒られたので、すぐにやめたではないですか。私が水浴びをしている時に、主が獣に襲われていたらと思うと、気が気ではなかったのですよ。なにせ、戦う手段を持たない主ですからね? 決して『着替えながら会話もできる合理性』に気づいてそれを実行したわけではありません」


「む……。ちゃんと、君がピンチに陥った時には、この精霊道具の本を使って窮地を救ってみせるさ。問題は、君がなかなか窮地に陥らないってことだけどね」


「ふふ…。冗談ですよ、主に荒事は向いていません。あなたの指は、人を傷つけるためのものではない。ぜひとも、そのままでいらしてください」


「何言ってるの、それはリコリネも同じでしょ」


「……?」


「リコリネの手だって、誰かを傷つけるためにあるものじゃないよ。君がなんだかんだで優しい子だっていうのは、もう随分と前から知ってしまっているから」


「………」


「…なに、呆けた顔をしてるのさ」


「…ふふ、面白いジョークですね、私はフルフェイスをつけているので、顔は見えませんよ」


「ああ、そういえばそうだっけ。そのことをさ、僕はたまに忘れちゃうんだよね、何でだろう?」


「……。主は、ずるい人ですね」


「…ええ?」


「そういうことを言う相手を、たまにお間違いになる。ずるいひとです」


「リコリネ…?」


 リコリネはゆっくりと首を振り、話を変えた。


「…しかし、ネーヤ殿が、主に人間味を感じたことには、ある種の感慨を覚えます。私も、最初に出会った時よりも、主にそれを感じていたものですから」


「そう? 僕はそんなに変わって行っているのか…。自覚もできていないけど、喜ばしいことなのかどうか、まだよくわからないな」


「そういうものです」


 ユディはまた、そっと胸ポケットを押さえた。


「リルハープ。君からはどう見えるのかな。早く起きてよ。君のキンキンとうるさい声が、今はとても恋しいよ…」


 リコリネも静かに、ユディの胸ポケットを見つめる。

 まるで孵る前の卵を観察するかのように、二人で静かな時間を過ごした。

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