26あおいそら、あかいそら
霧の中を進むのは、まるで雲の中を歩いているような、ふわふわとした感覚だった。
周りが何も見えない。
鼻をつままれてもわからないのではないかと思う。
「リコリネ、居る…?」
ユディはつい声をかけるも、返事はなかった。
はぐれてしまったのかもしれない。
だが、この中には危険はないと、命の大賢者の太鼓判が押されている。
今はとにかく、大賢者が言ったように、真っすぐに進み続けることにした。
どれくらい歩いただろうか。
霧が薄まってきた。
進む先に、陽光らしき明かりが見える。
ユディは少しだけ足を速めた。
なぜか、潮騒が聞こえる。
唐突に、ぱ、と視界が開けた。
ザザーン、ザザー……
海が見える。
空も見える。
ユディは、灰色の大きな石のような大地に立っている。
その石はキッチリと線を引かれているように平らで、とても丁寧に切り出されたものに見える。
頭上には、雨除けの屋根のようなものがあるが、壁はなく、とても開放的だ。
一つだけ、ユディが知るものと大きく違う点があった。
空が青い。
海も青い。
そして、別にそのことについて驚きもせず、普通に立っている一人の娘がいる。
肩でぷっつりと切りそろえられた、おかっぱの黒髪。
鉄のハシゴのようなものが地面に敷かれた側を向いて、海風にスカートをたなびかせている。
半袖から覗く細い腕には、重たそうな黒い革鞄を下げていた。
娘はユディに気づかないまま、海を眺めている。
娘の耳からは、黒い紐のようなものが垂れ下がっていた。
潮騒に紛れて、くぐもったような音楽が聞こえる。
ユディが注意深く耳を澄ませると、それは、娘の耳にある黒い紐から聞こえてきていた。
なんだろうと思ってじっと見ていると、ふと娘がこちらに目を向けて来た。
黒い瞳だ。
アイネクライネと同じの。
「…あ、ごめん、ひょっとして、声かけてくれてた?」
娘は、慌てて耳から黒い紐を外す。
先程よりも、紐の先から聞こえてくる音楽が大きくなった。
「それ…」
ユディが紐を気にするように見ていると、娘は「これ?」と紐を胸ポケットに放り込む。
「これは、ドヴォルザークだよ。あたし合唱部だから、今月の課題曲で聞いてたの。歓喜の歌とか大地讃頌の歌詞は、なんとなーくダサくてイヤなんたけど、新世界より…は好きだなあ。モルダウと同じくらい好き」
「…???」
ユディは、言われた単語のどれもがよくわからなかったので、首を傾げた。
「ここは?」
「ん? ここはって、駅のホームだよ。デンシャ待ってるのって、暇だよね」
「…???」
やはりわからない。
娘は話し相手が欲しかったのだろう、そんなユディを気にせずに、嬉しそうに話を続ける。
「でもね、ここの駅は海が見えるから好きなんだー。眺めがいいよね。ずっと見てても飽きない感じで」
「眺め…。青い空なんて初めて見たから、僕は不思議な気分だよ。ここは、あおいそらのせかい?」
ユディの言葉に、娘はきょとんとしている。
しばらくして、笑いだした。
「アハッ、詩的な表現だね、君の空は違うの?」
「うん、僕が居たところの空は、翡翠色なんだ。でも、青いのもすごく綺麗だね。透明感があって」
一緒に空を見上げる。
娘は、ぱちぱちと瞬きをした。
「ふーん? あんまり想像できないけど…綺麗なんだろうなあ。でもね、今は初夏だからこんな感じだけど、真夏になると、もっともっと青の色が濃くなるんだよ! あたし、暑いのは汗ダラダラになるからそんなに好きじゃないけど、あの濃い色合いは好きなんだー」
「火の傍でもないのに、そんなに暑くなることってある?」
ユディの問いに、娘はアーアとため息をついた。
「あの暑さを知らないなんて、羨ましいような、勿体ないような。…あたし、小夜。夜って意味らしいけど、好きなのはお昼なんだー」
「へええ、良い名前だね! 僕はユディっていうんだ」
「ユディ! アハッ、外国の人の響きだ! おもしろーい、異文化交流だね! ユディはどうしてデンシャを待ってるの?」
「えっ、いや、僕はそうじゃなくて、……迷子みたいな?」
「へええ。じゃあじゃあ、今のうちにたくさん交流しておかないとね! 見て見て、セーラー服可愛いでしょ! イマドキ私服じゃない学校なんて珍しいんだよ、だからあたし、ここの学校にしたんだー、ほらほら」
サヤは、スカートの裾をつまんで、見せびらかすようにくるりとその場で一回転する。
スカートが花のようにふわりと丸く風をはらむ。
その様子が微笑ましくて、ユディは口元を緩めた。
「うん、よく似合ってるね」
「でしょ! あたしもそう思う」
サヤはそう言って、にひひと笑った。
「ユディ、今度はそっちの番だよ。君の空のことを教えてよ」
「うん、いいよ」
なにから話せばいいかわからなかったので、ユディは自分がしてきた旅のことを話していく。
精霊の祝福のこと。
六つの大陸のこと。
なぜか、時間は無限にあるように感じたので、たくさん、たくさん話をした。
すべてを聞き終わると、サヤはぷっと笑い出した。
「アハッ、ユディ、それ違う違う。世界じゃないよ、それ」
今度はユディがきょとんとする番で、不思議そうにサヤを見る。
「それはね、地域。だって、言葉は全部通じて、移動しても時差が無くて、気候差もそんなに激しくないし、王国は一つなんでしょ? それは、地域だよ。あたしが住んでるとこだって、北海道・本州・四国・九州・沖縄、あと離島が少々…で、全部ひっくるめて国だもん。それに全部回ろうとすると、すっごい時間かかるだろうし」
「ちいき……?」
ユディは驚いて、何度も瞬きをする。
サヤは、満足げに頷いた。
「そう、地域! だからきっと、まだまだ世界は広いんだよ」
「そんな…! でも、外海に出て行った船乗りの話なんて聞いたことがない!」
「んーー。あたしのお父さんね、陰謀論者なんだー。だからニュースを見ては、あーだこーだって陰謀論を繰り広げてるんだけどね。あたしのお父さんだったら、たぶんユディの空のことをこう言うよ。『それは精霊が黒幕だな。精霊が精神に働きかけて外に出さないようにしてるに違いない』って」
ユディはびっくりしたまま、何度も同じ言葉を頭の中で繰り返す。
「まだまだ、世界は広い……」
「アハッ、ごめんごめん、好き放題言っちゃった! 他人事だから色々言えるんだろうなー。でもたぶん、今のユディの話だと、楽園みたいなところだから、精霊さんがユディたちの空を守ってるのかもね。楽園って、外の人に狙われるんだよー。あたしの空ではね、オーストラリアってところとか、かつては楽園だったらしいんだけど、ヨーロッパとかに目をつけられて、すっごい荒らされたらしいよ」
「うーーん、外側に人が居るのかどうかわからないけど、精霊が僕らを守ってるっていうのは、研究者が言ってるね。なんでも、精霊の祝福の量が少ない人は、多い人よりも病気になりやすいとかって、最近になってわかってきてるんだって」
「えーいいなー、あたしも精霊さんとかが居る空に行ってみたい! こっちにはね、カミサマっていうのが居るって話なんだけど、全然存在に自信が持てないんだよね。そっちと違って、特に何かしてくれるわけじゃないから。科学者っていうか、物理学者は意外に信じてるらしいけどね。素粒子の世界は無から有が生まれることがあるとかで、神秘を目の当たりにするんだって」
ユディは、今更理解した。
カミ!
やっぱり、サヤの住む空から染み出した文化や概念だったんだ。
ユディは平静を装って、会話を続ける。
「難しい話だなあ、そっちではサヤくらいの年頃になると、みんなそういうことを知ってるんだ?」
「ううん、あたしはちょっとだけ事情が違うから。たくさん勉強しないといけない事情ができちゃったの」
首を傾げるユディに、サヤはちょっとだけ困ったように笑って、青い空を見上げた。
「…あたしが生まれる前にはね、既に温暖化がどうのこうのって言われてたの。でも結局その先に訪れるのが、氷期だって判明してね。全然真逆な事なんだけど、どっちみち、あたしたちはこのままだと生き続けるのが難しいって部分は一緒で…」
ユディは目を丸くする。
サヤは、まるで他人事のように話し続ける。
「それでね。青い空の向こうに脱出する話が出てきたの。で、残った人たちは、地下に大きなシェルターを作って、その中に。あたしは、友達のシズクと一緒に、空の向こうに行く船に乗ろうって約束したんだけどね。シズクは健康上の理由で引っかかっちゃったんだ。だから、あたしだけでも行ってきてほしいって、シズクに頼まれちゃって。シズクはね、小さい頃、あたしに金銀のキラキラ折り紙を分けてくれて以来の親友なんだー。絶対叶えてあげたい」
サヤは、うつむいた。
「若くて優秀な人材しか、空の向こうには行けないの。だからあたし、たくさんたくさん勉強して、空の向こうに行く船に乗るの。なーんか、夢みたいな話でしょ? あたしもね、そんな技術、まだまだずーっと先の未来にしかないって思ってた。でもね、勉強して行けばいくほど、わかってきたんだ。100年の重みっていうか…」
サヤは、持っていたカバンを灰色の地面に置くと、身振り手振りを交えて話し始める。
「1867年に江戸幕府が終わって、そしたら1945年には第二次世界大戦が終了してたんだよ? 100年も経ってないの。あたしの感覚だと、江戸時代と近代ってもっともーっと、500年くらい間が空いてるって思ってたのに! 1961年には最初の有人宇宙飛行があったり、コンピュータが初めてデイジー・ベルを歌ってたりしたんだよ! そりゃそっから100年経ってれば、大きな宇宙船を開発できたりしてもおかしくないよね!」
ユディには半分もわからなかったが、必死に、ちゃんと聞くことだけはしている。
サヤは、興奮してきたように、説明に熱が入っていっている。
「とっくにそういった技術は開発されてて、どうせ滅びそうだからって、資源とか使いたい放題でね、未来のためのSDGsとかを気にしなくてもよくなったから、着手できたんだと思うの。各国はもう、なりふり構ってられないしで、後先考えずに資源も使い放題な上、お互いの技術提供もすごくってね。でも先進国は36個あるはずなのに、結局コロニー型の宇宙船は6機しかできなくって、あとは民間が作った1機があるだけ。宗教色の強い国ほど、地下シェルターの開発に集中してる感じ。あたしは、あたしの国が作ったヤツに乗るつもりなんだけど、競争率もすごいんだー。船の名前はね、『まどいせん』」
「まどいせん……」
ユディはただ、その名前を繰り返す。
先程サヤが聞いていた音楽から、その単語が聞こえていた気がする。
サヤは、急に我に返ったようにため息をついた。
「だから、本当は…合唱部とか、やってる暇なんてないの。でも息抜きがてら、つい歌いに行っちゃうんだよね」
「…歌が好きなんだね」
「…うん、好き。声ってね、曲の一部だと思うの。楽器のうちのひとつっていうか。だから知らない言語で歌われてても、全然気にならない。あたしも一緒に歌うことで、曲を一緒に完成させてる感じがして、好きなんだー」
「へええ、僕は演奏する側だから、そういえば歌ったことってないかもしれない」
「えー勿体ない、合唱って気持ちいいのに! …あ、ひょっとして、そのオカリナ?」
サヤは、ユディの胸元のペンダントに目を向けた。
ユディは微笑んで、それを手に取る。
「そうそう」
「オカリナ吹けるってちょっとカッコイイね! 試しにユディの好きな曲吹いてみてくれない?」
「いいよ。じゃあ、僕の故郷に伝わる曲を吹くね」
そう言って、ユディはオカリナにそっと息を吹き込んでいく。
もう何度も奏で続けたメロディは、目をつむっていても音を辿れる。
それでも、熟達している…というよりは、みずみずしいような印象の方が濃く残る。
囁きかけるような音色は、細く長いホウキ星の尻尾のようだった。
「あれっ。その曲、知ってるよ」
途中で刺し挟まれたサヤの言葉に、ユディは演奏を止めた。
「…え?」
「それ、子守歌でしょ? あたし、歌えるよ」
「まさか…。どうして、青い空の世界の曲を、僕が知ってるんだろう…? それじゃまるで…」
まるで、今まで見て来たモノオモイが口ずさむ歌のようだ。
と、そう思ったが、何故か、それを口に出して言うのが怖かった。
ユディの内心は露知らず、サヤは嬉しそうに話し続ける。
「でも嬉しいなあ、空が違っても、歌は同じなんてことがあるんだね。あたしがこれから行く空の向こうにも、歌はあるのかな。あるといいなあ…」
サヤの瞳に、悲しい色が宿った。
「…でも空の向こうであたしが死んじゃったら、シズクも、お父さんもお母さんも、あたしがどうなったか、知らないまま過ごすんだろうな。お別れって、そういうことだよね。それは少し、怖いな…。死ぬのよりも、誰にも知られずに終わるのが怖い」
「サヤ…?」
ユディは、心配そうにサヤの顔を覗き込む。
心ここにあらずの表情をしていた。
「あたし…。そうだ、あたし、どうしてこんなところにいるんだろう。早く帰りたいのに。ずっとずっと待ってるのに、ぜんぜん、ちっとも、来ない…」
「来ないって、…デンシャが?」
ユディの言葉に、サヤはハッと顔を上げた。
「あ…そうだった、デンシャを待ってるんだった」
カン、カン、カン、カン―――
おもむろに、遠く、海の向こうから、甲高い音が聞こえてきた。
サヤは嬉しそうに笑う。
「あ、フミキリの音! じゃあ、もうすぐデンシャがくるんだ!」
サヤの笑顔を見て、ユディはほっとしたように微笑む。
「よかった、待った甲斐があったね? じゃあ、ここでお別れかな。たくさん話せてよかったよ」
「あたしも! …ねね、ユディ、さっきの曲、もう一度吹いてみてくれない?」
「え? もちろんいいけど、どうして?」
「デンシャが来る前に、歌ってあげる! 歌詞、知らないんでしょ? お別れの、餞別ってやつ!」
「あははっ! ありがとう、僕もサヤの歌声を聞いてみたかったし、嬉しいよ」
カタンカタン、カタタン、カタンと、遠くからデンシャの音が近づいてくるのを耳に捉えながら、ユディはもう一度、オカリナに口をつける。
サヤは少しの間、音に聞き入るように目を閉じた後、大きく息を吸い込んだ―――。
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「主? 主、はぐれてしまいましたか?」
白い霧の中、リコリネはきょろきょろと周囲を見渡しながら進む。
返事はない。
だが、進むうちに、先の方から陽光のような明かりが見えてきた。
ざわざわと、人のざわめく声がする。
リコリネは急ぐでもなく、一定の歩調でそちらへと向かう。
唐突に、ぱ、と視界が開けた。
キーン、コーン、カーン、コーン―――
そこは、どこかの建物の廊下に見える。
窓から見える外には、赤い空が広がっていた。
「あかいそらのせかい…?」
リコリネは、思わず独りごちる。
周囲には、数えきれないほどの人がいて、皆忙しそうに動いていた。
トントンカンカンと大工仕事の音がするかと思えば、娘たちがきゃあきゃあとはしゃぐ声もする。
どうしたものかと思案気に突っ立っていると、いきなり部屋の方から、黒い服を着た一人の青年が飛び出してきた。
「ほんじゃオレ呼び込みのルート回って予行演習してくっから!」
「おいサボんなゲンパーー!」
青年は前も見ずに廊下に飛び出すと同時に、リコリネの全身鎧にドスンとぶつかる。
「イテッ!?」
青年はしりもちをつき、リコリネは慌てたように手を差し伸べる。
「これはすみません、ぼーっとしておりまし…た…?」
リコリネは、その青年の容姿に驚いた。
黒髪に、黒目だ。
焦ったように周囲を見渡すと、周りに居る男女はみんな黒い髪をしている。
だが、顔の部分だけは、影が差したようによく見えない。
青年は遠慮なくリコリネの手を掴んで立ち上がりながら、素っ頓狂な声を上げた。
「サンキュ…って、スゲエそれ仮装!? 声は女子だよな、撲殺系女子か! 新しい!」
そう言って喜ぶ青年の顔だけが、しっかりと認識できるようだ。
遠くから、顔に影が差した別の青年が、声をかけてくる。
「ゲンパー、来週の日曜、サッカーの助っ人メンバーに入れといた!」
「はあああ!? ふざけんな! オレの休みを何だと思ってんだ!?」
「悪い悪い、お礼にサイゼ奢るって! カントクが!」
「ロイホじゃねえと許さんからなー!!」
気心の知れた相手なのだろうとわかる会話に、リコリネは微笑んだ。
「ゲンパ殿…ですか。私はリコリネと申します。実は迷子になってしまいまして」
「え? ああ、違う違う、オレは杉田っての。で、杉田だから、あだ名はゲンパ」
「…???」
「あれ、杉田玄白って知らん? まあいいや、知らんくても生きてけるしな。しっかし、外国人さんかー。迷子なら送っちゃるわ、何年何組?」
結局首を傾げるリコリネに、スギタはここでも、まあいいかと呟いた。
そして、持っていた看板を見せる。
「オレどうせ今からこれ持って校内回る予定だし、一緒に行こうぜ」
そう言って歩き出すスギタに、リコリネは大人しくついていく。
「スギタ殿、これは何をしているのですか?」
「何って、明日文化祭だから、祭りの準備ってとこ? 夕方までとか、たまらんよなー。帰って勉強とかやらんきゃなのに。しかもオレのクラス、オバケ屋敷なんだぜ、ベタすぎて笑けるが」
「…ふふ、言うほど嫌そうには見えませんが」
リコリネの言葉に、スギタは照れたように笑う。
「まあな。このさー、祭りの前日って感じって、結構好きなんだ。早く明日になればいいのにって気持ちと、明日がずっと来なければいいのにって気持ちが混じりあった感じ?」
「ああ、それは…とてもよくわかります。私もよくそう思いますので。ところで、オバケというのは?」
「え? …なんだろな? 改めて聞かれると、パっと答えづらいな…。えー、つまり、死んだ人間のタマシイがジョウブツできずに彷徨ってるのが、オバケ…か?」
「…?? 死んだ人間は、精霊様に導かれないのですか? 導き手が居ないのならば、それは迷いもするでしょう」
「精霊て。そんなんおったら見てみたいわー。まあ、80とか90とかになって死んだら、そりゃ導き手ってのが居ないと苦労しそうだが」
スギタは歩きながら振りむき、リコリネの言葉を笑い飛ばした。
「なんと。90年も生きられる方がいらっしゃるのですか? すばらしいですね。私の国では、60年が平均寿命です」
「へええ、まあ90歳っつっても、管とかに繋がれて延命措置みたいな人もおるからなー。それに比べりゃポックリいったほうがいいんかもしらんけど、まあでも、オレの爺ちゃんや婆ちゃんが60代で死ぬって考えたら、やっぱりそれは嫌だからなあ…。難しい」
悩み始めるスギタを横目に、リコリネはマイペースに考察をしている。
「しかし、死んだ人間の屋敷…ですか。確かに滅多に体験できないイベントでしょうね。盛り上がりそうです。そういえば、ワっと驚かせてくるのでしたか。一度小耳にはさんだことがあるのを思い出しました」
「うははっ、独特な雰囲気だなーリコリネちゃんは」
スギタは廊下の端で立ち止まり、窓を開けた。
気が付けばここは4階で、この大きな建物の対面を見下ろせるような位置取りにあった。
煉瓦の敷き詰められた広い中庭では、やはり黒い服を着た者たちが、バラバラと行ったり来たりしながら出店の準備をしている。
「……当てましょうか?」
急にリコリネが言い出して、スギタは驚いたように目を向ける。
「ここは、スギタ殿のお気に入りの場所なのでしょう」
「スゲエなんでわかった!?」
「…ふふ。一緒に旅をしている殿方が居るのですが、その人も好きそうな景色だなと思いまして」
リコリネの言葉に、スギタはニヤリと笑う。
「好きな人?」
「……いいえ。好きになってはいけない人です」
すると、スギタはちっちっちと人差し指を振った。
「甘いなリコリネちゃん。好きになっちゃダメって思ってる時点で、もう好きじゃん?」
「……!? ……そういう…ものなのですか?」
言葉を詰まらせるリコリネに、スギタは噴き出した。
「うははっ、なーんて、今のは少女漫画のセリフ! オレ妹がおるからさ、床とかに転がってっから読むんだよ、少女漫画。なんとなく、気恥ずかしくてダチには言えんけど」
「なんと。妹さんがいらっしゃるのですか」
「いるいる、生意気なんが! 朝とかに洗面所塞いでたら蹴ってきたりな! オレが身ぎれいにしてカッコいい方がいいだろっつったら、『もういっそ鏡と結婚してろ』とか言いよんの。頭来るよなー」
「…ふふ。すみません、他人事なので、微笑ましく感じてしまいます」
「あー、そういうもんらしいな。妹が居ねーヤツとかは幻想を持ってたりな、あんなもんマジで要らねーって思うことの方が多いのに。…お、きたきた。予定が押してたからな、今からリハらしいんだが。この特等席で見たくってさ」
スギタが見ている先では、中庭にあるステージで、数人の男女が楽器の演奏を始めた。
腹に響くような音楽だ。
中央に立っている者が歌いだし、なんだなんだと人だかりができていく。
スギタは窓の桟に頬杖をついて、音に聞き入っている。
リコリネは、夕日に赤く照らされるスギタの横顔を見た。
「スギタ殿は、音楽がお好きなのですか?」
「え? いや…別に、スゲー好きな奴と比べたら、好きでも嫌いでもないクチなんかな。それでも、勉強中にラジオは聞くし、コンビニとか飲食店に行って無音だったら気まずいし、運動会は知っとる曲がかかると盛り上がるし、そもそも学校では音楽の時間に強制的に歌わされるしで、なんつーかな…生活の中の一部みたいな?」
「…そういうものなのですか。…豊かな国なのですね。娯楽が生活の根底に横たわっているというのは、考えたこともありませんでした」
リコリネも遠くのステージに目を向けて、しばし二人で音楽に聞き入った。
「ああ……帰りてーなあ…」
スギタは、ぽつりとつぶやいた。
「…ですが。スギタ殿」
リコリネは、意を決したように顔を向ける。
「スギタ殿。終わりは来るのです。踊り続ければ、いずれ人間は力尽きてしまうように、必要な終わりはあるのです。私がどんなにこの旅が終わらないでほしいと願っても、終わりは来るのです。目をつむっていても、来るのです。でしたら私は、目を背けずに開けています。そうしないと、せっかく楽しめる旅が勿体ないですからね」
「……、」
スギタから、スっと笑顔が消えた。
「―――快楽主義を唱えたエピクロスは、一時的な快楽は本当の快楽ではないと述べる。快楽を必要とするのは、現に快楽がないために苦痛を感じている場合であり、苦痛がない時に、我々はもう快楽を必要としない。エピクロスは欲望と快楽を区別し、帰結主義的な幸福を人生の目標とした」
リコリネは、驚いたように瞬きをする。
「けど、オレには教養人が頭の中で考えた言葉にしか思えんが。一方でプラトンもこう言ってる。無理に強いられた学習というものは、何ひとつ魂のなかに残りはしない…と。カッコいい言葉ってのは、触れるだけで自分も高尚な存在になれた気がして嬉しくなるけど、やっぱり、大人が自分の中にある思考を言葉でくくって外に出したものであって、オレにはどうしても馴染まない」
スギタは、困ったように笑った。
「哲学は未来に持っていくべきもんだからって、船に乗るための試験に出るから無理やり勉強してんだけどな。どうしても…刹那的に、今この時が終わらないでくれたらって思っちまうよ。頭では、リコリネちゃんの言葉が正しいってわかるのに、ずっとここに居たい。オレの幸せは今この瞬間にある。ああ、でも…」
ふ、と音楽が消える。
リコリネが目を向けると、中庭にいた人影が、ふつり、ふつりと消えていき始めた。
やがて周囲の景色も、四角いパーツになって、一個ずつ、丁寧にはがれていく。
ぽろぽろぽろぽろ、はがれていく。
「でも……そうだ。オレの文化祭は、とっくの昔に、終わってたんだっけ……」
―――ガラン。
リコリネの前に、スギタが持っていた看板が落ちて、夕暮れの赤に照らされる。
オバケらしきイラストは、場違いなほどに笑顔だった。
この場にはもう、リコリネ以外は誰も居らず、そしてなにもかもが、静かに無くなっていった。




