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モノガリのユディ  作者: ササユリ ナツナ
第三章 ろくにん
104/137

23憎しみの受け皿

 ユディたちは、とぼとぼとシゼネントパレイを後にする。


 シャライジュラスの件についての説明は、言葉を尽くして行った。

 だが、あんなに呑気で話好きな奥さんが、力なく頷くだけで精いっぱいなのを見て、ユディの心は痛んだ。

 トビークレイの時と、同じ目をさせてしまった。

 大事な人を失うというのは、そういうことなのだろう。

 何もできなかったという無力感が、ユディの心をさいなむ。


「主。主は、御自分にできる精一杯をやりました。それは私が保証します」


「そうですよご主人サマ~~、あんなの、予想も回避もできなくて当たり前ですから~~!」


 リコリネとリルハープにそう声をかけられて、ユディはハっとする。


 心配をかけている…?

 そうだ、自分だって、相手が辛そうにしていると、身を切られるような感覚が来る。

 リコリネたちも、そうなんだ。

 自分のことを、大事に思ってくれている。

 今まで、自分の視点でしかわからなかったことが、ようやくわかってきた。

 ユディは背筋を伸ばして、ぐっと拳を握り、無理やり笑顔を作る。


「大丈夫大丈夫! やるだけやったってわかってるし、ヘコむような部分があるとしても、全部落ち着いてゆっくりできるようになってからにするよ!」


「それはそれで将来の主が心配になりますが……まあ、今はそれでいいのかもしれませんね」


「というか、リルちゃんなんて奥さんの悲鳴で飛び起きるくらい寝こけてましたから~~っ、ご主人サマがヘコむならリルちゃんもヘコまなくてはなりません~~、そんなの嫌ですから~~!」


「いやあ、リルハープはたまにヘコんでもいいと思うよ、可愛げが出るかもしれないし?」


「つ~~んっ、リルちゃんは生ける芸術ですから、何をしても何を言っても許されるんです~~!」


「はいはい」


 結局三人で笑い合った。


「しかし、考えても詮無いこととはいえ、あの男性は一体何者なのか…の辺りには、ついつい思いを馳せてしまいますね」


「リコリネも? ひょっとして、僕と同じモノガリの里の人なのかなとは思ってるんだけど……。でも、あの人の声とか、全然聞き覚えがないんだよなあ。それとも、あの人の顔が見えたら、何か思い出せたりするのかな?」


「考えてみれば、モノガリの里が一つとは限りませんよね~~。貴族にも本家や分家があるのを考えますと、その辺りなのでは~~?」


「えっ、それは全然考えたことなかったなあ…!」


「ですが、あの男性はモノオモイに対して敵意を持っているように感じました。本当に竜の夢に還す使命をお持ちなのでしょうか? 私と同じで、壊すばかりな気がします」


「ひょっとして、最近モノオモイを片付けてるのって、全部あの人なのかな?」


 ユディの問いに、リコリネはフルフェイスの頤に指を添えて、考え込む。


「確かに、数日見張り続けたと言っていましたね。並々ならぬ執念を感じます」


「まあ、例えば発明都市で踊り死んだ人々の遺族が真実を知ったら、モノオモイに憎しみを抱くと思いますよ~~。悪夢ばかり目にして、嫌になった人なのかもしれませんね~~」


 うーんと唸り合って、結局答えも出ず、かといって何に気をつけていいのかもわからない。

 すぐにこの話は流れて、いつものように雑談をしながら旅をする。

 みんなで日常を取り戻す努力をした、という感じの一日だった。



-------------------------------------------



 翌日。

 道のりは、岩山沿いにあったシゼネントパレイの延長と言う感じで、ゴツゴツとした岩肌が続く荒野、という感じだった。

 酵母の村までは、まだまだ距離がある、とリコリネに聞いてすぐのことだ。

 ユディの方を見て話に花を咲かせていたリコリネが、突如、硬直したようにこわばる。


「! 主、危ない!!」

「うわ!?」


 ユディの腕が、乱暴に引き寄せられる。


   ―――ズドッ!!


 それと全く同時に、先程までユディが居た場所に矢が突き立った。

 角度的に、ユディの足を狙った一撃だ。


「な…!?」


 驚いて矢が飛んできた方角を見ると、先日会った男が、岩を台にするようにクロスボウを置き、狙撃の姿勢をしていた。

 リコリネはすぐにユディを庇うように立ち、金棒を抜き放つ。

 男は逃げるでもなく、舌打ちをしながら矢をつがえ、あの日と同じように岩場から降り立った。

 歩くように距離を詰めてくる。

 こちらに飛び道具がないとバレているためか、男に焦りはない。


「なんのつもりだ! そこから一歩でも近づいてみろ、敵対行為とみなす!」


 リコリネが、凛とした声で男を迎えうつ。

 だが男は、リコリネの声が届いていないかのように、ブツブツと何かを呟いている。


「………す、……ろす……」


 ユディもリコリネも、男の真意がわからず、眉を顰めながら、その場に立ち尽くすようにして観察を続けてしまう。

 ユディはおずおずと話しかけた。


「あの、ひょっとして、僕の過去を知っているんですか…?」


 いきなり男は、感情の制御が効かなくなったように、長い前髪の下から、ギっとユディを睨みつけて来た。


「殺す! 殺してやる!! よくも……よくもだましたな!!」


「え……? だますって……」


 言葉の途中でユディは黙り込む。

 男の視線に気圧された。

 明確な殺意だった。

 他者から、ここまで激しい敵意を向けられた経験が、今まであっただろうか。

 男はさらに一歩踏み出し、怒声を放つ。


「絶対に許すものか!! 殺してやる!!」


 男がクロスボウを身構えると同時に、リコリネは金棒を構えた。


「主! 北西に向けて走ってください! そこに色水晶の谷があります!平野で飛び道具はかなり不利です、障害物の多い方へ隠れてください!」


「リコリネ!?」


「私もすぐに向かいます、早く行ってください、主はお一人ではないのですよ! もし万が一があったらどうするのですか!」


 ユディはハっとして、胸ポケットを抑えた。

 体を硬直させた妖精の感触がある。


「行ってください、私も主を守りながらの戦いは不利です! 私の装甲ならば、このような攻撃は全く問題ありません!」


「わ、わかった!」


 即座にユディは言われた方角へ走り出す。


「待て裏切り者!! 許すものか、許すものかああッッ!!」


   バシュッ!   ガキン!


 背後で、矢が放たれる音と、それを打ち下ろす音が響いた。

 しかしユディは、振り返らずに走り続ける。

 リコリネの足手まといになることだけは避けたかった。


「増進の精霊ソッティノイよ―――!」

「力の精霊、ゴルドヴァの祝福を!」


 戦闘の音は、ユディが足を進める度に遠くなる。

 やがて、リコリネの言った通り、谷が見えてきた。

 初めて訪れる場所に、本当にここであっているのだろうかという疑念がちらりと掠める。

 だがそんな疑念は、一歩立ち入ったと同時に消え去った。


 まさにそこは、色水晶の谷だった。

 岩肌の中に交じって、様々な色の水晶が顔をのぞかせている。

 クズ水晶という話だったが、こうして見ている分には、まったく問題がないくらいに美しい光景だ。

 あまりの見事な景色に危うく立ち止まりそうになり、慌ててユディは走り出す。

 入り口でモタモタしているわけにはいかない。

 少しでも、奥に。


「はっ、はあ、はあっ、は…!」


 限界まで走って、立ち止まる。

 膝に手をついて息を整えながら、周囲を見渡した。

 採石の後なのか、周囲には岩がゴロゴロ転がっており、身を隠すには最適の場所に思える。

 ユディは、息も絶え絶えになりながら、なんとか声を絞りだす。


「リ…ル、ハープ…!」


「お任せください~~!」


 胸ポケットの中の妖精はすぐに察して、遠くの気配を探るように集中を始める。

 しばらく経ってから、険しい顔を上げる。


「大丈夫です~~、二つの気配がちゃんと谷の入り口辺りに向かってきていますよ~~!」


「よかった、リコリネ、無事で…!」


「ですが、このままではあの男もついてきてしまいますね~~。リコリネはどうする気なのでしょう~~?」


「わからない…。リコリネのことだから、何か考えがあるとは思うんだけど…。でも、無茶をしないかが心配だな」


「そうですね~~…」


 ユディは姿勢を伸ばし、もう遠くなってしまった谷の入り口の方を振り返る。

 気を揉みながら待つ時間の何と長いことか。

 やがて、突如として静寂が破られた。


   ドゴオオオンッ!! ガラッ、ガラガラガラッ!


「!?」


 遠くから破壊の音が響いてくる。

 あまりの轟音に、ユディもリルハープもびっくりしてしまった。

 何が起こったかわからず、茫然と谷の入り口の方を眺める。

 ユディは必死に考えて、ようやく結論を出した。


「ひょっとして、谷の入り口を崩落させた…? なんて無茶を―――リコリネ!!」


 ユディは、来た道を戻るように走り出した。

 胸ポケットの妖精が、身を乗り出しながら、泣きそうな声を出す。


「た、大変ですご主人サマ~~、男の方の気配は逃げ去って行っていますが、リコリネの感情の匂いが消えました~~! ひょっとして、気を失っているのかもしれません~~!」


「―――っ!!」


 心臓を直接ぎゅっと掴まれたように、ユディの呼吸が一瞬止まる。

 そこからは、持てる力のすべてを振り絞って、全力で駆け抜ける。


(リコリネ、リコリネ、リコリネ―――…!!)


 もはや叫ぶ余裕すらなかった。

 乱暴に角を曲がる際にあちこちをぶつけながら、ようやく、崩落した石の山が見えてきた。


「リコリネ!!?」


 不幸中の幸いというところか、うつぶせに倒れている全身鎧が見えるということは、落石の下に埋まっているわけではない。

 崩落から逃げ遅れたのだろうか、片足だけが石に挟まっていた。

 傍らには金棒が転がり、そして片手には何かを握りしめている。


「う……」


 ユディの声で、リコリネは意識を取り戻したようだ。

 ユディは慌てて駆け寄り、真っ青な顔のまま、リコリネの傍に膝をつく。


「リコリネ!! 動かないで! まずはじっとして!」


「…? 主…? そうだ、私は……」


「リコリネ! いいから、まずは僕の言うとおりに。まず、深呼吸ができるかどうかを教えて?」


 ユディは、リコリネの鎧に触れるか触れないかのところで指を彷徨わせ、ためらいがちに言葉を連ねていく。

 動かしていいものかすらわからない。

 リルハープも、表情を蒼白にしながら、ふわりと羽を震わせて、リコリネを心配そうに見下ろしている。


 リコリネのフルフェイスから、呼吸を整えるような、すーはーとした呼吸音が聞こえた。

 ユディは慎重にそれを見ている。


「リコリネ、無理なく呼吸はできた?」


「…はい」


「吐き気とか、痛い所は?」


「はい、あの……。たぶん、落石が頭に当たって、意識を失ったのかと。痛みよりも、脳が揺らされただろう不快感が残っています。耳元でガーンと来ましたからね」


「じゃあ、フルフェイスが守ったと判断してもいいんだね?」


「そう思います」


「足は?」


「足ですか? ん……。痛みはないですが、重たくて動きません。ひょっとしてこれは、落石の下敷きになっているのでしょうか?」


 ユディは、ほー…と安堵の息を吐いた。

 その場に倒れ込んでしまいそうなほどに気持ちが上下している。


「君が、全身鎧を着ていて、本当に、本当によかった…!!」


 リコリネは、戸惑うようにユディを見上げた。


「…あの。大丈夫ですから、この程度なら、自力で抜け出せます。力の精霊、ゴルドヴァの祝福を―――!」


「リコリネ!!」


 ユディはつい怒鳴ってしまった。

 リコリネは、びくっと肩を跳ね上げて、その拍子に落石の隙間から足を抜いたが、握りしめていた何かをぐしゃりと潰してしまった。

 リコリネは、その時やっと自分が何かを持っていたことを思い出し、小さく声を上げた、


「あ…!?」


 咄嗟にユディはリコリネを無理やり引き寄せて、バランスを崩して落ちてきた落石の隙間から救出する。

 ワンテンポ遅れて、ガラガラと、石山が平たくなっていく。


「バカ!! こんな時に慎重にならなくてどうするんだ!! 急ぐ必要なんて全然なかったのに!」


 ユディは、腕の中のリコリネを怒鳴りつける。

 だが、リコリネはショックを受けたように、手の中を見つめるだけだ。

 リルハープが心配そうにしながら、パタパタとリコリネの上を飛び回っている。


「リコリネ、どうかしたのですか~~?」


 リコリネは、おずおずと手の平を開いていく。

 見事な虹水晶の原石が、リコリネに加えられた力に耐えられず、ぼろぼろと崩れ落ちていった。


「リコリネ…?」


 ユディは訝しげにその様子を見る。

 リコリネは、とても残念そうにしている。


「…あの。すみませんでした。本当なら、私は石の下敷きになるはずではなかったのです。ですが、あの一瞬…。金棒で谷の岩壁を砕き、崩落を誘ったあの一瞬。舞い上がる礫の中にあった、この原石が視界に飛び込んできたのです」


 そんなもののために、とユディは言いかける。

 だが、なんとか言葉を飲み込んで、じっとリコリネの話に耳を傾けた。


「私は、物欲に乏しい自覚はありました。ですが…。あの時、咄嗟にこれに手を伸ばしてしまったのです。キラキラして、キレイで、色水晶の谷の中では、とても珍しいとされる虹水晶なんです。これを…。これを、私は…『お土産』に、したかった」


 ユディは、驚きに目を見開いた。

 リコリネは、まだショックを引きずっているような声音で、とつとつと続ける。


「キラキラして、キレイで、まるで、主みたいだと思いました。私も、主にお土産をさしあげたかった。ガッディーロの財力とは関係なく、私の、私自身の力で手に入れたものを、主に『お返し』したかった。先日のお土産が、それくらい、嬉しかったから…。ですが、…壊してしまいました」


「……っ、バカ!!」


 ユディはなんだかたまらなくなって、リコリネを抱きしめた。

 リコリネの鎧は相変わらず、冷たくて硬くて痛かった。

 だが、痛みとは関係なく、涙が出る。

 リコリネが驚いたように体を硬直させる感触が、鎧越しに伝わってきた。


「リコリネ…! 君のそのいじらしさは、時々、小さな女の子みたいで、僕はたまらなく心配になるんだ…! 頼むよ、頼むから、本当に、自分を大事にしてくれよ! 気持ちだけで十分嬉しいから! 僕はあと何回、こんなふうに心臓が止まるような思いをしなきゃいけないんだ!!」


「……主…? 泣いているのですか…?」


 腕の中のリコリネは、なんとかユディの顔を見ようとするが、ユディがますます抱きしめる腕に力を込めるので、戒めを振りほどけない。

 リコリネは、おずおずと、ユディの背を抱きしめるように、手の平を置いた。


「主…。申し訳ありませんでした…。こんなはずではなかったのです。こんなはずでは……」


「もう、わかったから…!」


 なんとか絞り出すユディの声は、震えていた。

 リルハープは、今更リコリネの無事を実感できて、ぽろぽろと涙を流す。

 ユディは気のすむまで泣いて、リコリネを抱きしめ続けた。

 リコリネは、やはり戸惑うように、ゆっくりとユディの背を撫でる。


 もう、思考する部分がマヒしてしまったかのように、日が暮れるまでそうしていた。



-------------------------------------------



 リルハープが石清水を見つけて、ユディたちはそのそばで野営をする。

 リルハープは泣き疲れて眠ってしまい、ユディは貝殻のベッドに妖精を大事に置いた。


「リコリネ、ここに座って」


「…? はい」


 リコリネは言われるままに、岩に腰かけた。

 ユディはその前に跪く。


「リコリネ、足の部分だけでいいから、鎧を脱いで」


「!? な、なぜですか…!?」


「一応チェックしないと、君は足を捻っていても無理をするだろうからね。僕はもう、君のそういう部分だけは信用しないようにしているんだ」


 思い当たる節があるリコリネは強く言い返せずに、しぶしぶと鎧の足部分を外していく。


「…ですが、本当に、外傷もないのですよ」


「だーめ。ちゃんと自分の目で確かめさせてもらわないと」


「…はい…」


 カシャリと鉄靴や脛当て部分が地面に転がる。

 鎧の中は軽装の薄着で、薄い布の靴と、ひざ下までの薄いズボンだけだ。


「靴だけ脱がすよ?」

「え!? あの…!」


 ユディは、了承も聞かずにテキパキと手を動かしていく。

 リコリネは、むず痒そうに、ぴくりと素足の親指を動かした。

 ユディは無言でリコリネの足布をたくし上げ、腫れがないか、血が滲んでないかを子細にチェックしていく。


「…よし。次は、少しいろんな角度に動かしてみるから、痛かったら言うんだよ?」


「そ、そこまでしなくても…!」


「だーめ」


 ユディは問答無用で、リコリネの素肌に指を這わせる。

 若くきめ細やかな肌の感触が伝わってきて、そういえばこうして他人の足に触れるのは初めてかもしれないな、と真剣に思う。

 リコリネの足先を、色々な角度に向けて行きながら、ユディは小さく呟いた。


「…僕は、どうして女の子に生まれなかったんだろう。もし女だったら、命の精霊の祝福を受けられるチャンスがあったかもしれないのに。そうしたら、君がどんなひどい怪我をしても、絶対に治してみせるのに。こんなふうに、音の祝福でも治せない怪我が無いかと、怯えなくても済んだかもしれない。音の祝福だと、やっぱり他の精霊の力に干渉するには限界が見える時があるから…」


「………、」


 ユディはある程度リコリネの足のチェックを終えると、先程から全く返事が来ないことに気づいた。

 不思議そうに顔を上げる。

 リコリネは、フルフェイスをしているにもかかわらず、両手で顔を隠すような姿勢になっていた。


「リコリネ…?」


「え、あ、はい…! すみません、聞いていませんでした…!」


「どうかした? 痛いところは?」


「す、すみません、見ないでください…!」


「…???」


 話が噛み合わず、ユディは首を傾げる。

 リコリネは、一生懸命話を続ける。


「あの、いえ。殿方に素足を触られるというのは、生まれて初めてで、こ、こんなに恥ずかしいものなのですね…!! すみません、限界です…!」


「―――!!」


 ユディは、いきなりバっと赤くなる。

 リコリネの恥じらいが移ってしまったかのように、急に心がざわめいた。


「なっ、ご、ごめん、そんなつもりは…!!」


「いえ! と、とにかく、これで怪我がないとわかっていただけたと思います!」


「そうだね!? そうだ、じゃあ、見回りしないと! またあの男が来るかもしれないし!?」


 ユディはサっと立ち上がり、リコリネに背を向けた。

 リコリネは慌てて言葉を重ねる。


「それは大丈夫です! あの男も手傷を負っていました、そういえば報告がまだでしたね!」


「ああ、そうなんだ!?」


 なんだか、ぎくしゃくしてしまう。

 必死で話題を探すが、もはや手近にある話題に食いつくしかない。


「あの男、何なんだろうなあ! リコリネに手傷を負わせるなんて、本当に許せないなあ!」


 物凄い浮ついた声になってしまい、すごい許してそうな言い方になってしまった。

 リコリネは、急いで靴を履いたり足パーツを身に着けたりしながら、首を振った。


「い、いえ、私のアレは自爆のようなものですから。それに…。あの男のことは、もう気にせずに居ましょう。きっと、何かの間違いで主を追ってきているに違いありませんから」


 急にリコリネが沈んだ声を出したので、ユディはようやく冷静を取り戻した。


「そう…なのかな」


 人違いで、あそこまで憎しみを込められるものなのだろうか。

 ひょっとしたら、過去の自分があの男に何かしたのかもしれないという疑念が、ちらりと湧き上がる。

 だが、どうしてもそうとは思えない自分も居る。

 いくら記憶があやふやとはいえ、自分には、姉から真っすぐな愛情を受けてきた思い出の欠片があるからだ。

 あの姉と過ごした日々の中に、誰かを傷つけるようなひどい出来事が挟まっているとは、とても思えない。


 深刻な顔で考え始めたユディの背を見て、リコリネは静かに言葉を足す。


「…主。とにかく、あの男の傷が癒える前に、明日中にはこの谷を抜け、後は全力で酵母の村に向かいましょう。あの男のことは、もう忘れる努力をしてください」


「リコリネ…? …ひょっとして、あの人と、何か話した…?」


 ふと気になって問いかける。

 リコリネは、一拍の空白を挟むと、すぐに言葉を継ぐ。


「いいえ。なにも。今は目の前に集中するべきと思いましたので、そう言ったまでです」


「……そう」


 深く追及するのも変な気がして、ユディはそこで話を打ち切った。


「わかった。じゃあ、リコリネはもう寝ること。今日は僕が見張りをするから、しっかり休むんだ。いいね? これは絶対に譲らないから」


 ユディが強い口調でそう告げると、困ったように微笑む気配が、フルフェイスの奥から聞こえた。


「…わかりました。次からは主にご心労をおかけしないように、気を付ける所存です」


「ほんと、たのむよ」


 お互いに笑い合う。

 谷の夜は肌寒かったが、通りすぎる風の感触は、悪くなかった。

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