22シャライジュラス
シゼネントパレイに着く頃には、昼を過ぎていた。
シゼネントパレイの住民は、予想通りというか、何の前触れもなくいきなり集落を訪れてきた全身鎧、という事態にかなり敏感に反応していた。
しかし、石槍を突き付けてくる住民たちに、ユディがラルファシアンの名前を出すと同時に、いきなり警戒心が霧散していく。
「おお、ラルフ坊やか、元気にしとるんかね!?」
「ラルフちゃんの知り合いなら大丈夫そうね、ごめんなさいね~警戒しちゃって!」
「ってことは、アンタも白乳が好きだったりするんかい?」
そんな調子で、にこやかに迎え入れられてしまった。
「さすがですね、ラルフ殿」とリコリネは呟いている。
ユディも、心の中でかなり感謝した。
「…というわけでラルフから、墓守のおじさんは、『奇跡の生還者』という話を聞きまして、旅人である僕らも、いつ行方知れずになるかしれません。ですからちょっと、あやかりたいなー、という、軽い気持ちで立ち寄ってしまいました」
そう言って柔らかい表情で微笑むユディに、シゼネントパレイの住民は、屈託のない笑顔を返してきた。
「なるほどなあ、旅人さんにはそう映るんかい、面白いねえ。まあ、なーんも無いところだけんど、好きに見て回っておいで。シャライジュラスの家は、そこの坂を下ったところにあるべなあ。ジュラスはもう喋れんから、まずは奥さんに話を聞いといで」
「ありがとうございます」
ユディは礼儀正しく頭を下げると、示された場所に向けて歩き出す。
シゼネントパレイは、岩山に沿うように作られた集落らしく、植物の青が見られず、岩肌の方が目立つ。
シャライジュラスの家に行くと、既に井戸端会議が好きそうなおばさんたちが、奥さんにユディたちのことを話しているようだ。
ユディたちがやってきたのを見ると、おばさんたちはサっと散っていった。
「なるほど、こうしてラルフ殿の人となりも、その日のうちに知れ渡ったわけですね。私たちのことも、良い噂になっていればいいのですが…」
リコリネが、瞬時に集落のシステムを理解していく。
しかし、リコリネの心配は必要がなかったと言えるくらい、奥さんはにこやかな笑顔で迎え入れてくれた。
「あらあら、まあまあ、ラルフちゃんのお友達なんですってねえ。ラルフちゃんにはうちの子の面倒を見てもらったりして、お世話になったのよ~。たくさん弟や妹がいるからってね、頼もしかったわあ」
奥さんは、のんびりとした話好きな人、という印象だ。
まだよちよち歩きの幼い我が子をあやしながら、ユディたちと話をする。
「それで、うちの人のことを聞きに来たんですってね? それがね~も~びっくりなのよお。ほら、この辺って石喰いっていうのがいるじゃない?」
「ああ、はい、見たことはないですが、聞いたことはあります」
ユディは相槌をうつ。
石喰いというのは、正式には石喰いトカゲと言われており、どういうわけか石を消化できるオオトカゲだ。
墓石の産出をうたうこの集落にとっては、かなりの天敵だろうと予想される。
「それをねえ、定期的に駆除しなきゃなんだけど、うちの旦那がいる班の当番が回ってきたのよ~。そしたらなんでか、黒虎の群れに遭遇したらしくってねえ。旦那がしんがりを引き受けて、他の人を逃がしたって言うじゃない~? そっからしばらく行方不明でねえ…」
その時を思い出したのか、奥さんは俯いた。
「そりゃ生きてれば運が悪いことはあるわよう…。でもね、何でうちの人なんだろう、って、そりゃ落ち込んでたんだけどねえ。ある日突然、何事もなかったかのように帰ってきたわけなのよお。本当に、嬉しかった…。口がきけないくらい、どってことないって思ったわあ。本当に、生きてくれてるだけで嬉しいの。それに夫婦だからね、言いたいことくらい、口で言わなくてもわかるものよ~。きっとあの人が話せたとしても、水晶ボタンを無くしちゃってごめんね、くらいの事しか言わないだろうし」
「水晶ボタン…ですか?」
ユディの問いには、リコリネが答える。
「この地方では結婚をするときに、指輪ではなく、『色水晶の谷』という場所で採れる水晶を磨いて相手に贈り合う風習があります。といっても、純度の高い水晶はほとんど採りつくされ、手に入るのはもはやクズ水晶が多いのですが、丁寧に磨くという行為があれば、どんな水晶でも喜ばれるという話です」
「そうそう、そうなのよお、鎧さん、よくご存じねえ?」
「リコリネと申します」
「あ、僕はユディと言います」
奥さんはしょっぱなから飛ばしていたので、すっかり名乗るタイミングを失っていた。
奥さんは気にせずに、自分の首元のボタンを示した。
「ほら、アタシのはコレなの。だいたい、第一ボタンにするのよお」
「ああ、さっきから綺麗なボタンだなと思っていました」
ユディは素直にそう告げる。
クズ水晶と言うだけあって、確かに輝きは無いが、それでも何種類かの色が混じりあい、独特の雰囲気を作り上げていた。
「あらあら、やっぱりラルフちゃんのお友達ね、おんなじことを言われちゃったわあ! こんなでも、うちの人が選んで磨き上げてくれたものだから、褒められると嬉しいわねえ、うふふ。そうそう、うちは墓守だから、旅人さんの寝床にもなってるのよ、今日は泊まっていくかしら? 晩御飯の準備があるから、今のうちに聞いておかないとねえ」
「えっ、墓守だと、宿代わりになるんですか?」
再び、ユディの問いにはリコリネが答える。
「この集落には、世界中から、身寄りのない遺体の墓を一つにまとめて建てる依頼が来るのです。そのため、外部の者は大体、墓守の一族にしか用がありませんので、必然的にこの家に泊めてもらう流れになります」
「そうそう、そうなのよお、鎧さん、よくご存じねえ?」
「リコリネです」
「じゃあ、一泊お願いできますか? 滞在費はおいくらでしょうか」
そんな感じで着々と話が進んでいき、シャライジュラスの元へ向かおうと思って空を見上げた時には、すっかり日が暮れかけていた。
この奥さんは話が長い。
「今からだと、旦那が帰ってくるのを待った方がいいわよお」ということで、ユディは晩御飯の支度を手伝い、リコリネは恐る恐る子供さんの面倒を見たりしながら、旦那さんの帰りを待った。
ただいま、と言われることもなく、ドア代わりの入り口の布がよけられて、旦那さんがスッと入ってくる。
いち早く気付いたのは、やはり奥さんだ。
「あら、おかえりなさい~」
ユディもリコリネも、ハっと入り口を見る。
妙に印象の薄い人だな、という感じの人が、微笑みながら立っていた。
「あ、お邪魔してます。ユディと言います」
「お初にお目にかかります。リコリネと申します」
ユディとリコリネが挨拶をしても、シャライジュラスは微笑んで会釈するだけだ。
とても、澄んだ瞳の人だった。
そして服の一番上にだけ、ボタンが無く、はだけている。
「はいはい、御飯にしましょうねえ! 今日は豆のスープよお」
奥さんが鍋を運んできて、ユディは急いで食器を用意する。
シャライジュラスは、言われるままに座り、食事を始める。
考えてみれば、接触を図ろうとしても、相手は喋れない。
情報を聞き出そうとしても、奥さん以外からは何も得られない。
なのにユディには、この人がモノオモイだ、という確信が、なぜかあった。
今まで、色々なモノオモイを見て来たからなのか、なんとなく、細かい気配がわかるようになってきたのかもしれない。
しかし、やっぱり違うのかもしれない…とも思う。
このシャライジュラスからは、穏やかで、あたたかい感覚が来るからだ。
とても、人に害を成すような存在には見えない。
ひょっとして…、と思うが、奥さんが楽しそうに喋っている横では、なかなか思索に集中はできない。
「今日はユディちゃんが手伝ってくれて助かったわ~、器用なのねえ?」
「ああ、いえ、器用貧乏だって自覚があって」
「あらあら、男の子でここまでできるなら大したものよ? ねえ、鎧さん」
「リコリネです、奥方殿」
そこからはお子さんが、だうーと子供言語を喋り始めて、賑やかな食卓となった。
-------------------------------------------
その夜、あてがわれた別室で寝転がりながら、ユディは部屋を仕切るついたて越しに、リコリネに話しかける。
「リコリネ、起きてる?」
「はい。主、シャライジュラス殿を、どう思われましたか?」
「……。…たぶん、だけど。ミギくんと、ダリちゃんと、同じだと思う」
「リルちゃんもそう思います~~」
今はリルハープもリコリネと一緒に居るので、向こう側から声がする。
リコリネが、静かに言葉を落とす。
「やはりそうでしたか。あまり物事を良い悪いで判断しすぎるのも困りものですが、あれは、正しい夢なのですね。では、竜の夢へと還す必要はないということでしょうか?」
「……でも、僕はどのみち、モノノリュウを倒しに行くんだよね。モノノリュウを倒したら、あの夢は消えてしまうと思う。たぶん、本物のシャライジュラスさんは、もう……」
「…はい。おそらくこの世にはいないのでしょうね。ですからあのモノオモイは、この一家の唯一の心の支えとなるでしょう」
「難しい問題です~~。あのお子さんが大きくなるまでは、ただ父親が存在するだけでも色々と違うと思うのですが~~…」
リルハープの言葉に、リコリネが唸っている。
「そう…ですね。家族が安定しているというのは、とても…とても大きなことです。ですが、夢である限り、いつかは醒めてしまう。それがいつなのかわからない限り、奥方殿にだけは、真実を伝えておく方がいいような気もします。考えてみれば証明ができないので、信じて貰えるかどうかは、わかりませんが」
リコリネは一拍置き、すぐに考え直したように言葉を継いだ。
「ただ、ミギ殿とダリ殿はかなりのご長寿だという話ですからね。シャライジュラス殿はどうなってしまうのでしょうか。年も取らないのであれば、化け物だと迫害される危険性もあります。いっそこの村の死者の国の伝説を利用して、なんらかのでっち上げを作って、彼を守る道もあります。まあ、その前に主がモノノリュウを倒すでしょうが…」
ユディは、苦悶の表情を浮かべた。
「なんだか……。なんだか、ひどい話だ。どうするかを、僕の匙加減で決めようとしてる。僕はモノガリだと言うだけで、何の罪もない、赤の他人の未来に踏み入ろうとしてる。…モノガリの里では、こんなモノオモイが居るなんて聞いてなかった。悪い夢が歪めてしまった世界を、何事もなかったかのように戻すのが仕事だって習った気がする。モノオモイは、全部悪い奴だと思ってた。…本当に、今更だ……。今更悩むなんて…」
リルハープは、静かに聞き入っている。
リコリネは、しばらく悩んだ後、話し始める。
「…匙加減という点では。私は、庭師のようなものだと思っています。庭師は、まだ伸びようとしている枝葉を、他の枝のために切り落とします。そうして、庭は美しく、木は枯れずに保たれているのです。切り落とすか落とさないか。それは、庭師の責任ある判断に他なりません。切ってしまえば、元に戻すことはできないのですから。ですが」
リコリネは、一度、言葉を大事にするように千切った。
「ですが……。そうすることで、美しく咲く花もあるのです」
明かりを落とした暗い部屋の中で、ユディは眩し気に手で庇を作り、天井を見上げる。
「……、……。そうだ、それが、僕の仕事だ。…明日。明日、シャライジュラスさんの、墓守の仕事に付き添ってみようと思う。それで決めるよ」
「そうですね~~、大事なことですから、急いで決める必要もないと思われます~~。なんでしたら、納得がいくまでここに滞在しても、誰も文句は言いませんよ~~。リルちゃんとしては、そっとしておく方に一票を投じますけどね~~っ。それが一番、傷つく人が少ないように思えますので~~」
「…リルハープ、傷つく人って、僕のこと? ひょっとして、心配してくれてる?」
「ほらほら、いつまでも起きてないで寝ますよ~~! リルちゃんもう眠いです~~!」
リコリネとユディは、その言葉に小さく笑う。
その夜は、同じところをぐるぐると回るような考え事をしていると、気が付けば朝になった…という感じだった。
-------------------------------------------
「それじゃいってらっしゃい、お昼はお弁当を届けに行くからね~」
翌日の朝食後、お子さんを抱いた奥さんに見送られて、シャライジュラスは墓守の勤務地に出かける。
ユディたちは、見学の体で、その後ろを大人しくついていった。
墓地まではそう歩かない辺り、街の方だと、家の立地条件を気にされそうな配置になっている。
しかしシゼネントパレイ自体は、あまり死を忌避したりする感覚が無いらしく、家の隣に墓地があったとしても、平気そうだ。
シャライジュラスは無言なので、ユディたちは後をついていくしかない。
しかし、珍しい景色に、「うわあ」とか、「壮観だなあ」とか、ついつい感想を言ってしまう。
そういう時、心なしか、シャライジュラスは微笑みを深めているように見えた。
墓地の入口には、なぜか大きな扉だけが立っていた。
その扉には何重にも錠前がかけられており、平たく、向こう側の部屋がない。
つまり、裏も表も普通に見える。
凝った意匠が施されており、とても普段使いできるような扉ではない。
シャライジュラスは、当たり前のようにその扉の前に立ち、門番のように見張りを始めた。
ユディは驚いて、その大きな扉を見上げる。
「すっごいなあ、雰囲気がある…!」
「はい。これが、死者の国に続くと言われている扉でしょうか。ただの言い伝えなのでしょうが、もしかして…と思ってしまいますね。しかし私のような部外者から見ると、このような扉があるのは、不幸に感じてしまいます」
リコリネが声音を曇らせている。
ユディが首を傾げると、リコリネは話を続ける。
「…きっと、開けたくなってしまうでしょうから」
「あ……。そっか……」
ユディの脳裏に、もう会えない人たちの顔がちらつく。
山菜の村のおじじさん。ユルブランテ夫妻。ジャンティオール。騎士王。アシュアゼさんは、どうなってしまったのだろう。
シャライジュラスの方を見ると、彼はいつも通りの優しい微笑をたたえているだけだ。
なんだか扉から目を逸らしたくなって、ユディはシャライジュラスに申し出る。
「ちょっと、墓地の見学をしてきますね」
シャライジュラスは静かに頷く。
ユディたちは、石の間を縫うように歩いていく。
「考えてみれば、墓石をこんな風にまじまじと見るのって、初めてかもしれない」
ユディの言葉に、リコリネも頷いた。
「そうですね。他人事であるから、じっくりと見られるのかもしれませんが。…身寄りのない遺体には、このような言葉が刻まれるのですね。確かに、彼らが受けた精霊の祝福も不明ですし、その辺りはボカすのだろうとは思っていましたが」
「え、ってことは、定型文と言うか、決まった文言があったりするんだ?」
「はい。例えば寿命を迎えた者には、『故人の名は××。満ち足りしその生、見守られし故。これを謝辞として、精霊××の御許に名を還す』となります。騎士などは、功績を絡めた文言が多く、『故人××。往々に、人を守護せしその加護に、報いるその御名。ここに、精霊××へと半身を還す』などですね」
「へええ、そっか、名前の半分を還すわけだから、そうなるのか…」
ユディは納得しながら、目の前の墓石に刻まれた文言に目を通す。
『故人は惜しむ間すらも惜しまれて、人知を跨いで精霊へと名は還されん』
『失せし身、その御名分からずも、その様至極嫋やかなりて、精霊の御許に還るものなり』
きっちりとした、体温の感じられない文字の羅列…という印象だった。
対象の名がないだけで、そんなにもよそよそしくなるのだなと、不思議な気持ちになった。
なんだかんだで、意外に長い間、お墓トークというものができてしまった。
リルハープは退屈してしまって、胸ポケットの中ですやすやしている。
リコリネとすっかり話し込んだ後、シャライジュラスの方に戻っていく。
「見学させてもらって、ありがとうございました。とても掃除が行き届いていて、…こんな言い方をすると変かもしれませんが、綺麗なところですね」
シャライジュラスは、ユディの言葉に、嬉しそうに微笑んでいる。
別に、一度も言葉を交わしていないのに。
ユディはこの男性に、とても好感を抱いていた。
きっと本物の彼も、善良で実直な人なのだろう。
モノオモイが、彼のいなくなった穴を、必死で埋めようとしてしまうほどに。
誰も、誰かの代わりになんて、なれないのに。
そう思うと、ユディはちょっと泣きそうになってしまった。
「…主、大丈夫ですか?」
リコリネが心配そうに覗き込んできて、ユディは慌てて首を振る。
「だ、大丈夫大丈夫! でも、ごめん、まだ決められないんだ。もちろん、竜の夢に還す必要はなさそうだっていうのは、決定事項なんだけど…」
その瞬間。
バシュッ!!
ユディの耳元を、物凄い勢いで何かが通りすぎる。
風にまかれて、髪がふわりと舞うくらいの速さだった。
驚く暇もなく。
ドッ!
シャライジュラスの胸に、深々と矢が刺さった。
シャライジュラスは、痛がるでもなく、不思議そうにそれを見ている。
「きゃあああああああっ!!?」
ユディの背後から悲鳴が上がる。
見ると、奥さんが、子供と手をつなぎながら、ちょうどお弁当を持ってきていた。
夫に矢が刺さるところを、目撃してしまったのだ。
取り落としたお弁当が、地に転がる音。
シャライジュラスの体からはがれていくように、ふわりと白い光が舞い始める。
シャライジュラスは、無言で妻と子のいる方に手を伸ばした。
そして。
フツリ、と姿が消える。
コツ、コロロ…
その場には、割れてしまった水晶のボタンが転がった。
「―――ッ!!」
ユディとリコリネは、怒りを込めて、矢の飛んできた方を振り返る。
ザッ。
高台から、クロスボウを片手に携えた男が降り立つ。
ぼさぼさの長い髪で顔が隠れた、ガタイのいい男だった。
顔が見えないので年齢は知れないが、少なくともユディよりも年上に見える。
「あ、あなた、あなたああっ! ど、どこに行ったの!?」
奥さんは子供を抱き上げて、先程までシャライジュラスの居た場所に駆け寄った。
男は、ぬぼーっとした動作で歩み寄ってくる。
「何者だ!」
リコリネが金棒を抜き放ち、背後を守るように立ちはだかるが、男はリコリネなど見えていないかのように、水晶のボタンに視線を落としている。
男は、低い声で喋り始めた。
「……無駄だ……アンタの旦那は……とっくの昔にモノオモイに……乗っ取られていた……」
「……!」
半狂乱の奥さんに男の声は届かなかったが、ユディは驚きで息をのんだ。
「モノオモイを知ってるって……まさか、モノガリ? なんてことをしたんだ! あの夢は、壊す必要なんてなかった!」
男はやはりユディの方を見向きもせず、薄暗い声を落とす。
「フン……甘いんだよ……数日見張っていたが……あの男……用を足しに立つことは……一度もなかった……いつかバレるだろう……終わらせるときに……終わらせるに限る……モノオモイを放っておいて……いいことなんて一つだって……ありゃしない……」
「数日…? あ、…ラルフが言っていた人って…!」
ようやくユディは思い出した。
だが、ラルファシアンを助けるような人物にはとても見えない。
目の前の男からは、生気が抜け落ちてしまっているような、そんな印象を受けた。
男は、用が済んだとばかりに踵を返して歩き出す。
ユディは憤りに任せて、リコリネの隣を抜け、乱暴に男の手を掴みに行った。
「おい!! やるだけやってサヨナラか! 身勝手をするのがモノガリの仕事じゃないだろ!?」
「フン……同業か?」
男は、けだるそうに振り返り、伸びた前髪の隙間から、初めてユディに目を向けた。
「―――っ!!!?」
そして、男は凍り付く。
掴んだ男の手から、尋常ではない驚愕が伝わってきて、ユディもまた困惑するように驚いた。
「なっ……なんで……!?」
男は先程とは違い、感情の乗った声で戸惑いを口にしている。
ユディもリコリネも、二の句が継げられず、男の様相に目を向けるしかない。
バッ!
男は恐れるように、ユディの手を乱暴に振り払い、駆け出した。
ユディは咄嗟に呼び止める。
「ま、まって! ひょっとして、僕のことを知っている!!?」
ユディの言葉にも振り返らず、男は一目散に逃げだした。
声にならない叫び声のようなものが、小さく聞こえた。
「あなた、あなたあ…っ!!」
茫然とする間もなく、背後から奥さんの狂乱する声が聞こえてきた。
「主、今は奥方殿を!」
リコリネは、金棒を仕舞いながら、急いで奥さんの肩を抱くようにして落ち着けさせようとしている。
「…わ、わかった!」
母の様子に感化されたのか、火が付いた様に泣き始める幼子の声の中、ユディとリコリネは必死に奥さんに話しかける。
理不尽を上手に説明できる言葉なんて、どこにもないのに。
しかし、二人で立ち向かうしかなかった。
母も子も、泣き止むことはなかった。




