放送部員に、一目惚れ
地区予選第一回戦。
夏の陽光がマウンドを焼き、一久の意識が熱を帯びた土の中に溶け出しそうになった、その時だった。
球場の古いスピーカーが震え、凛とした、しかし初夏の風のように柔らかな声が、大気を震わせた。
『一番、センター、桐島くん。背番号、八』
投球動作に入ろうとしていた一久は、そのまま石像のように固まった。
(……なんだ。今の、鼓膜を優しく愛撫するような音律は)
バックネット裏、放送席。そこにはヘッドセットを装着し、真剣な眼差しでスコアブックを追う二年生、木佐綾子がいた。彼女がマイクに向かって小さく唇を動かすたび、一久の胸の中に、野球とは無縁の「不純な火薬」が充填されていく。
「おい、一久! 審判がこっち見てるぞ、早く投げろ!」
河西の怒声が飛ぶ。一久は意識を現世に繋ぎ止め、とりあえずナックルを放った。
――ボフッ。
球は、放送席の方へ吸い寄せられるような「恋の引力」を描き……はせず、奇跡的にストライクゾーンの隅をかすめた。
そこからの試合は、史上最も異様な「ハッタリ」の独壇場となった。
一久は、自分の名前がアナウンスされるたびに、マウンドで小さく、しかし確かなガッツポーズを繰り出した。
『ピッチャー、石井くん』
(……「い」のアクセントが完璧だ。語尾の余韻に、僕への隠しきれない愛情を感じる)
その一心だけで、一久は相手打者を次々と絶望の淵へ叩き落とした。三振を取れば、回が替わる。回が替われば、また彼女が自分の名前を呼んでくれる。スタミナはとっくにゼロだったが、脳内に分泌された「恋という名の麻薬」が、彼の左腕を機械的に動かし続けた。
アクシデントは四回。
木佐綾子が隣の部員と談笑し、その頬に可愛らしいえくぼが浮かんだ瞬間。
「あ、反則……」
一久は完全に静止した。セットポジションのまま、彫像のごとく動かない。
「ボーク! ランナー二塁へ!」
審判の無慈悲な宣告。河西が鬼の形相でマウンドへ駆け寄ってきた。
「お前、今、完全に魂がえくぼの中に吸い込まれてたぞ! 集中しろ!」
「キャプテン……。彼女、笑うと無敵ですね。あんなの、野球のルールで禁止すべきですよ」
「試合中に何を見てんだ! 野球を見ろ、ボールを見ろ!」
その動揺で二点を失ったが、一久は「僕が点を取られたせいで、彼女に心配をかけてしまう。もっと呼ばれなければ」と、もはや修復不能なポジティブ思考で六回を投げきった。
結果は六回二失点。恋の執着心だけで、スタミナの限界を二光年ほど飛び越えてしまった。
ベンチに下がった一久に、冷たいペットボトルを差し出したのは稲尾和久だった。
「……一久くん。今日の防御率は二点台だけど、恋愛の防御率はすでに九九・九だね。崩壊どころか、更地だよ」
「稲尾さん。見てましたか、彼女を。あれこそが『神様、仏様、木佐様』。僕の新しい信仰対象です」
「名前を混ぜるな。……だが、その不純な動機こそが、君みたいな空っぽの男には必要なガソリンだったのかもしれない」
稲尾は呆れた顔で、レジ袋から「恋に効く(自称)」と書かれた、猛烈に酸っぱいガムを取り出した。
一久はガムを噛み潰した。口内に広がる衝撃的な酸味。それが、マウンドでの高揚感と混ざり合い、一久の意識をさらなる高みへ押し上げる。
「次は、ヒーローインタビューで、僕の名前を三回呼んでもらいます」
「……勝ってから言え、この恋煩い野郎!」
河西のツッコミを背に、一久はマイクに向かう木佐綾子の後ろ姿を、じっと見つめた。
甲子園地区予選。石井一久が戦う理由は、もはや「ハッタリ」だけではない。
彼は今、初恋という名の暴走列車に乗り、マウンドという名の聖域を駆け抜けようとしていた。




