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石井一久物語  作者: 水前寺鯉太郎
1年生編

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9/48

放送部員に、一目惚れ

 地区予選第一回戦。

 夏の陽光がマウンドを焼き、一久の意識が熱を帯びた土の中に溶け出しそうになった、その時だった。

 球場の古いスピーカーが震え、凛とした、しかし初夏の風のように柔らかな声が、大気を震わせた。

『一番、センター、桐島くん。背番号、八』

 投球動作に入ろうとしていた一久は、そのまま石像のように固まった。

(……なんだ。今の、鼓膜を優しく愛撫するような音律は)

 バックネット裏、放送席。そこにはヘッドセットを装着し、真剣な眼差しでスコアブックを追う二年生、木佐綾子がいた。彼女がマイクに向かって小さく唇を動かすたび、一久の胸の中に、野球とは無縁の「不純な火薬」が充填されていく。

「おい、一久! 審判がこっち見てるぞ、早く投げろ!」

 河西の怒声が飛ぶ。一久は意識を現世に繋ぎ止め、とりあえずナックルを放った。

 ――ボフッ。

 球は、放送席の方へ吸い寄せられるような「恋の引力」を描き……はせず、奇跡的にストライクゾーンの隅をかすめた。

 そこからの試合は、史上最も異様な「ハッタリ」の独壇場となった。

 一久は、自分の名前がアナウンスされるたびに、マウンドで小さく、しかし確かなガッツポーズを繰り出した。

『ピッチャー、石井くん』

(……「い」のアクセントが完璧だ。語尾の余韻に、僕への隠しきれない愛情を感じる)

 その一心だけで、一久は相手打者を次々と絶望の淵へ叩き落とした。三振を取れば、回が替わる。回が替われば、また彼女が自分の名前を呼んでくれる。スタミナはとっくにゼロだったが、脳内に分泌された「恋という名の麻薬」が、彼の左腕を機械的に動かし続けた。

 アクシデントは四回。

 木佐綾子が隣の部員と談笑し、その頬に可愛らしいえくぼが浮かんだ瞬間。

「あ、反則……」

 一久は完全に静止した。セットポジションのまま、彫像のごとく動かない。

「ボーク! ランナー二塁へ!」

 審判の無慈悲な宣告。河西が鬼の形相でマウンドへ駆け寄ってきた。

「お前、今、完全に魂がえくぼの中に吸い込まれてたぞ! 集中しろ!」

「キャプテン……。彼女、笑うと無敵ですね。あんなの、野球のルールで禁止すべきですよ」

「試合中に何を見てんだ! 野球を見ろ、ボールを見ろ!」

 その動揺で二点を失ったが、一久は「僕が点を取られたせいで、彼女に心配をかけてしまう。もっと呼ばれなければ」と、もはや修復不能なポジティブ思考で六回を投げきった。

 結果は六回二失点。恋の執着心だけで、スタミナの限界を二光年ほど飛び越えてしまった。

 ベンチに下がった一久に、冷たいペットボトルを差し出したのは稲尾和久だった。

「……一久くん。今日の防御率は二点台だけど、恋愛の防御率はすでに九九・九だね。崩壊どころか、更地だよ」

「稲尾さん。見てましたか、彼女を。あれこそが『神様、仏様、木佐様』。僕の新しい信仰対象です」

「名前を混ぜるな。……だが、その不純な動機こそが、君みたいな空っぽの男には必要なガソリンだったのかもしれない」

 稲尾は呆れた顔で、レジ袋から「恋に効く(自称)」と書かれた、猛烈に酸っぱいガムを取り出した。

 一久はガムを噛み潰した。口内に広がる衝撃的な酸味。それが、マウンドでの高揚感と混ざり合い、一久の意識をさらなる高みへ押し上げる。

「次は、ヒーローインタビューで、僕の名前を三回呼んでもらいます」

「……勝ってから言え、この恋煩い野郎!」

 河西のツッコミを背に、一久はマイクに向かう木佐綾子の後ろ姿を、じっと見つめた。

 甲子園地区予選。石井一久が戦う理由は、もはや「ハッタリ」だけではない。

 彼は今、初恋という名の暴走列車に乗り、マウンドという名の聖域を駆け抜けようとしていた。

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