名前が先走る、鳳凰の翼
地区予選第二回戦。電光掲示板に刻まれたその名は、夏の陽光を反射して、神々しいまでの威圧感を放っていた。
【鳳凰大附属 対 宮崎工業】
「……キャプテン。あらためて見ると、うちの校名、強そうすぎませんか。ラスボス校ですよ、これ」
一久はマウンドの土をスパイクでいじりながら、ベンチの河西に愚痴をこぼした。
「当たり前だ。名前負けしてんのはお前の中身だけだぞ。……いいか、向こうの監督は、『鳳凰』という名に巨大資本とエリート教育の匂いを感じ取って、深読みのしすぎで徹夜したらしい。名前に食いつぶされるのは、お前だけじゃないってことだ」
「実態は、ペンキの剥げたプレハブ校舎なんですけどね……」
一久はバックネット裏の放送席をちらりと見た。いた。今日も木佐綾子が、マイクの前で凛とした表情を崩さずに座っている。
(……彼女に『ピッチャー、石井くん』と呼ばれたい。その音色を、世界で一番近くで聴く特権が欲しい)
動機は相変わらず、泥沼のように不純だった。だが、その執着こそが、一久を灼熱のマウンドに繋ぎ止める唯一の錨だった。
対する宮崎工業のベンチは、戦慄に包まれていた。
「鳳凰大附属……。得体は知れんが、あの先発『石井一久』だぞ。昨日の三振ショーは、バックにある鳳凰大の研究機関が開発した、最新のバイオメカニクスに基づいているという噂だ……」
ただの偏食と運動不足による「変なフォーム」が、王者の目には「未知の科学」と映る。完全なる風評被害。だが、それこそが一久の最強の防御壁だった。
一久は、昨日よりさらに脱力した指先で、白球の縫い目をなぞった。
初球のナックル。
それは、右に行こうとして、やっぱり左が気になったような、優柔不断を極めた軌道を描いた。打者の手元で空間ごと歪み、河西のミットをかすめ、審判のプロテクターを直撃した。
「……ストライクッ!」
審判が悶絶しながら右手を上げる。宮崎工業の打者は、膝をガクガクと震わせた。
「な、なんだ今の……。鳳凰大の科学力か!? 球が、意思を持って避けていきやがった!」
三回、一久は致命的なポカをやらかした。
放送席で木佐綾子が資料をめくる仕草、その白く細い指先に見とれ、投球動作中にボールをポロリと落としたのだ。
「ボーク! ランナー三塁へ!」
「一久! 鳳凰の翼をへし折って、焼き鳥にしてやろうか!」
河西の怒号がスタジアムに響く。だが一久は「今の落とし方、ドジな自分を演出して、彼女の母性本能にスライダーを投げ込めたかな」と、明後日の方向を向いていた。
しかし、ピンチになればなるほど、ナックルは冴え渡った。
スタミナが削れる分、一久は「早く終わらせて、彼女の声を聴きに行きたい」という一心で、一球一球に強烈な「帰宅願望」を込めて投げた。それが打者の目には、獲物を逃さない死神の、絶対零度の殺気に映った。
五回終了。被安打二、無失点。
グラウンド整備の時間、ベンチに戻った一久の隣に、稲尾和久が音もなく現れた。鳳凰大附属の帽子を深く被り、不審者スレスレの変装でベンチの端に座っている。
「……一久くん。さっきのボーク、木佐さんに『あいつ、バカだな』って小声で呟かれてたよ」
「えっ、本当ですか! 嫌われた、終わった……降板します」
「いや。でも、その直後の三振。彼女、少しだけペンを止めて、驚いた顔をして君を見ていたよ」
稲尾は静かに、西日に染まるマウンドを見つめた。
「名前だけの男が、少しだけ本物の翼を広げたように見えたんじゃないかな。神様も、たまには粋な演出をする」
「……翼。僕、鳳凰になれますか?」
「焼き鳥にならない程度にはね」
稲尾はそう言うと、レジ袋から「集中力が高まる(自称)」という、強烈に酸っぱい干し梅を一久の口に放り込んだ。
一久は、干し梅の種を奥歯で噛みしめた。
鳳凰大附属という虚像。
石井一久というハッタリ。
そして、木佐綾子への一方的な片想い。
すべてを飲み込み、一久は再びマウンドへと向かう。
鳳凰は宮崎の空を舞うのか、それともプレハブ校舎の影へと墜落するのか。
一久は、口の中に広がる猛烈な酸っぱさに顔を歪めながら、放送席に向かって、誰にも気づかれないほど小さな敬礼を送った。
後半戦の幕が、今、上がる。




