無自覚な沈黙
九回裏、二死。
鳳凰大附属のマウンドに立つ石井一久は、とうに限界の向こう側、死の淵を彷徨っていた。
スタミナは五回で枯渇した。六回からは「筋肉の断末魔」で投げ、七回からは「木佐綾子の声」という名の違法ガソリンを脳に直接流し込んで腕を振っていた。
ボフッ。
放たれた最後の一球。球速は八十キロにも満たない。だが、その白球は重力と物理学を嘲笑うように不規則に揺れ、捕手・河西のミットへ、磁石に吸い寄せられるように収まった。
「ストライク! バッターアウト! 試合終了!」
審判の声とともに、一久はマウンドで棒立ちになった。
勝った。それは分かった。だが、球場全体の空気がおかしい。熱狂というよりは、巨大な怪異を目撃したかのような、湿った沈黙と戦慄。
河西が、人生最大の博打に勝ったジャンキーのような顔で突進してきた。
「……一久。お前、やった。やりやがった、このペテン師が……!」
「はい。疲れました。早く帰って、バニラアイスを血管に直接流したいです」
「バカ野郎! アイスどころの騒ぎじゃねえ! スコアボードを、その三白眼で見ろ!」
一久は泥と汗に塗れた顔を上げ、巨大な電光掲示板を仰いだ。
【宮崎工 000 000 000 | 0】
【鳳凰大 100 000 10X | 2】
安打数の欄には、不吉なほど美しい「0」が刻まれていた。
「……キャプテン、宮崎工業の人たち、今日はボイコットしたんですか。ヒットが一個も書いてありませんよ。可哀想に」
「お前が一本も打たせなかったんだよ! ノーヒットノーランだぞ! 公式戦で、野球始めて三日の素人が、県ベスト4を完封したんだ!」
のーひっと・のーらん。
その言葉の重みを、一久はまだ理解できない。だが、放送席を見上げた瞬間、すべてが変わった。
木佐綾子が、震える手でマイクを握り、マウンドの彼を凝視している。
『九回、無安打無得点。鳳凰大附属、石井一久くん。……信じられない、奇跡が達成されました!』
彼女の口から、自分の名前と「奇跡」という言葉が漏れた瞬間。
一久の心臓が、マウンドにいた時よりも激しく跳ねた。
自分の名前が、彼女の記憶に「歴史」として刻まれた。その事実だけで、全身の筋肉痛が霧散していくような気がした。
ベンチ裏。熱狂の渦から逃げるように、一久は水道の蛇口を捻った。
稲尾和久が、音もなく、死神の影のように現れた。
「……一久くん。君、自分が世界に何を投げつけたか、まだ半分も分かってないね」
「稲尾さん。ノーヒットノーランって、そんなに凄いんですか。僕はただ、彼女に僕の名前を呼ばせる時間を延ばしたかっただけなんですけど」
「動機が最低すぎて、逆に神々しいよ。だが、君のナックルは今日、一回も同じ軌道をを通らなかった。狙ってできないことを、君は無自覚にやり抜いたんだ」
稲尾はレジ袋から、金色のパッケージに包まれた「超高級バニラアイス」を取り出し、一久に手渡した。
「お祝いだ。……それと、放送席の彼女。さっき君の記録を読み上げる時、明らかに声が上ずっていたよ。君という存在が、彼女の喉を震わせたんだ」
一久はアイスを頬張った。
冷たさが脳に突き刺さり、暴力的なまでの甘さが全身を駆け巡る。
ノーヒットノーラン。その称号がどれほどの重圧になろうとも、今はどうでもよかった。
バニラの甘さと、彼女が呼んでくれた名前の余韻。それだけが、一久にとっての真実だった。
「……次は、完封だけじゃなくて、ホームランも打ちたいです。そうすれば、もっと長く名前を呼ばれるから」
「お前、さっきまで死にかけてたのは演技か!」
河西の怒号を子守唄に、鳳凰大附属の「偽物の怪物」は、静かに、しかし確実な二勝目を噛み締めた。
鳳凰の翼は、まだ折れていない。どころか、恋という名の燃料で、さらに高く舞い上がろうとしていた。




