鳳凰の落とし子
翌朝。校門をくぐった一久は、世界が自分を置き去りにして変質したことを悟った。
すれ違う生徒が足を止め、三度見し、呼吸を忘れる。中には、校舎の隅で一久に向かって真剣に手を合わせ、その左腕を拝む下級生までいた。
「……キャプテン。僕の背中に何か付いていますか。呪いの御札とか、カマキリの卵とか」
「後光だよ、後光! お前は今日から、このプレハブ校舎の守護神なんだよ!」
隣を歩く河西が、鼻の下を限界まで伸ばして叫ぶ。だが一久には、その「英雄」という響きが、バニラアイスの賞味期限よりも脆いものにしか感じられなかった。
教室の引き戸をガラリと開けた瞬間、音の暴力が一久を襲った。
「キターーー! 歴史の目撃者、石井一久!」
「お前、鳳凰大の秘密兵器だったんだろ? どこの研究所から脱走してきたんだ!」
拍手と口笛、そして女子生徒たちの熱を帯びた視線。一久の机の周りは、数秒で満員電車の連結部のような混沌と化した。
一久は、ひどく場違いな場所に迷い込んだ顔で、ゆっくりと席に着いた。
「……皆さん、今日は創立記念日か何かですか。ケーキの配給があるなら、一番に並びたいのですが」
狂騒が、一瞬だけ凪になった。
「ケーキじゃねえよ! お前の、昨日の、ノーヒットノーランだよ!」
「あ、あれですか」
一久は窓の外、緩やかに流れる雲を眺め、他人事のように呟いた。
「ヒットが一本も出なかったので、野球という競技がバグを起こしたのかと思っていました。審判が『終わり』と言ってくれて、一番に帰れて助かったな、と」
「……無自覚かよ!」
「その余裕、マジで死神だろ!」
クラス中が、一久の「底知れない大物感(という名の天然)」に戦慄し、さらにそのカリスマ性を勝手に巨大化させていく。
そこへ、新聞部がインクの匂いも鮮やかな号外を抱えて飛び込んできた。
『鳳凰大附属、奇跡の快進撃! 先発・石井、無安打無得点達成!』
壁に貼られた紙面には、昨日の放送席で、潤んだ瞳でマイクを握る木佐綾子の姿が、確かに写っていた。
一久の目が、今日初めて、獲物を狙う肉食獣のように鋭く光った。
「……新聞部の皆さん。その号外、三枚ほど頂けますか。代金は、将来の僕のサインでどうでしょう」
「おお! 自分の伝説を保管する気になったか! 意外と熱いな、お前!」
「いえ。放送部の木佐さんの写りが神がかっているので、額縁に入れて床の間に飾ろうと思いまして」
「野球をしろ! 一ミリでも野球に意識を向けろ!」
狂騒の渦の中、教室の入り口に稲尾和久がふらりと姿を見せた。
彼は喧騒の中には入らず、扉の影から、一久の「平穏なフリをした」横顔をじっと見つめていた。目が合うと、稲尾は自分の左腕を親指で軽く叩き、不敵な、そして少しだけ悲しげな笑みを浮かべて去っていった。
(次はもっと重くなるよ。名前も、腕も、期待も)
その背中が、饒舌にそう語っていた。
鳳凰大附属高校、二回戦突破。
石井一久という「静かなる怪物」は、クラスメイトの熱狂を耳鳴りのように聞き流しながら、静かに一時間目の数学のノートを開いた。
指先には、まだあの一球の、空気を噛みちぎった時の奇妙な感触が残っている。
一久は深く息を吐き、机に顔を伏せた。
地獄のような筋肉痛と、甘すぎる賞賛の嵐。
それらをすべて遮断するように、彼は開始五分で、深い、深い眠りの底へと沈んでいった。
木佐綾子の声で、自分の名前が呼ばれる夢を見ながら。




