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石井一久物語  作者: 水前寺鯉太郎
1年生編

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13/48

牙を剥く名門

 地区予選三回戦。

 アイビースタジアムを揺らす地鳴りのようなブラスバンドの音は、鳳凰大附属という名のプレハブ校舎を、物理的に押し潰さんばかりの重圧となって降り注いでいた。

 三塁側スタンドを埋め尽くす日南学園の応援団。その組織化された「強者の熱」を前に、一久はマウンドでかつてないほど、深刻な顔で立ち尽くしていた。

「……一久、ついに名門の威圧感に胃を掴まれたか?」

 河西がマウンドへ駆け寄る。だが、一久が震える指で指し示したのは、相手ベンチではなく、バックネット裏の放送席だった。

「いえ……。今日、木佐さんの喉のコンディションが絶好調すぎるんです。あのアナウンス、全盛期のオペラ歌手かと思いました。……聴き入るだけで、僕の魂が天に召されて、スタミナの残量がレッドゾーンです。もう無理、帰って耳掃除をしたい」

「マウンドで聴け! お前にとっては、この世で一番贅沢なBGMだろ!」

 プレイボール。日南学園は容赦なかった。

 一番打者が初球、一久の無防備な直球を完璧に捉え、弾丸のようなライナーでレフト前へ。名門のプライドが、「昨日の英雄」を力ずくで現実に引き戻す。

 続く二番打者の場面。日南ベンチは、一久の「スタミナの薄さ」と「セットポジションの隙」を完全に解析していた。一塁ランナーが、揺さぶりをかけるように大きくリードを取る。

 一久は、死んだ魚のような、虚無の瞳でランナーを見据えた。

(……動かないでほしい。あんなにチョロチョロされると、焦点が合わなくて気分が悪くなる。……そうだ。いなくなってもらおう、あの場所から)

 セットポジション。一久の体から、一切の予備動作が消えた。

 次の瞬間。一久の左腕が、鞭のように、あるいは雷光のようにしなった。

 シュパッ。

 無造作に放たれた牽制球は、精密機械が弾き出したような軌道で、一塁手のミットに吸い込まれた。ランナーは、戻る動作すら想起できず、土の上に立ち尽くした。

「アウト!」

 日南ベンチが凍りつく。

「全くフォームが乱れなかった……。鳳凰大、どんな特殊な反復練習をさせれば、あんな非人間的な牽制ができるんだ!?」

 河西は、マスクの下で歪んだ笑みを浮かべた。

(……残念だったな。こいつは、単に『ランナーを見るのが面倒くさい』から、牽制という名の排除行動だけを極限まで進化させちまったんだよ!)

 試合は、一久の「不純な排除」と、日南の「泥臭い追撃」が激突する消耗戦となった。

 しかし六回裏。一久の顔から、ついに「生気」が完全に消失した。交代のアナウンスが流れ、木佐綾子が放送席を離れるのが見えたからだ。

「キャプテン……。ガソリンが、一滴も残っていません。木佐さんの声が聞こえない世界でマウンドに立つのは、酸素なしで深海を歩くようなものです。代打、石井。……送ってください、バニラアイスの島へ」

「ふざけんな! まだ同点、二死満塁だぞ! ここが地獄の正念場だ!」

 打席には日南の主砲。一久の視界がセピア色に染まり、膝がガクガクと笑い始めた、その時だった。

 球場の古いスピーカーが、悲鳴のようなノイズと共に、震える声を吐き出した。

『……えー、臨時の、アナウンスです。ピッチャー、石井一久くん。……がんばってください。あ! 間違えました……九番、ピッチャー、石井くん』

 木佐綾子が、休憩中にもかかわらずマイクを奪い取り、公共の電波を私物化して叫んだのだ。

 その瞬間。一久の三白眼に、凍てつくような「青い炎」が宿った。

「……聴きましたか、キャプテン。僕、今、頑張れって言われました」

「聞こえたよ! 全校生徒と全観客に丸聞こえだ!」

「僕の、二度目のデビュー戦だ」

 振りかぶった一久の全身の関節が、爆ぜるような音を立てた。

 しなった左腕が、空間を断ち切る。

 ドォォォン!

 本日最速、一久の限界を超えた一〇五キロ(体感マッハ)の直球が、日南の主砲の、プライドに満ちた懐を真っ向から抉り抜いた。

「ストライク!」

 名門・日南学園対、プレハブの鳳凰大。

 一人の少女の声に魂を売り渡した、世界で最も不純で、最も純粋な怪物が。

 今、真の意味で、夏の王者を絶望へと誘おうとしていた。

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