牙を剥く名門
地区予選三回戦。
アイビースタジアムを揺らす地鳴りのようなブラスバンドの音は、鳳凰大附属という名のプレハブ校舎を、物理的に押し潰さんばかりの重圧となって降り注いでいた。
三塁側スタンドを埋め尽くす日南学園の応援団。その組織化された「強者の熱」を前に、一久はマウンドでかつてないほど、深刻な顔で立ち尽くしていた。
「……一久、ついに名門の威圧感に胃を掴まれたか?」
河西がマウンドへ駆け寄る。だが、一久が震える指で指し示したのは、相手ベンチではなく、バックネット裏の放送席だった。
「いえ……。今日、木佐さんの喉のコンディションが絶好調すぎるんです。あのアナウンス、全盛期のオペラ歌手かと思いました。……聴き入るだけで、僕の魂が天に召されて、スタミナの残量がレッドゾーンです。もう無理、帰って耳掃除をしたい」
「マウンドで聴け! お前にとっては、この世で一番贅沢なBGMだろ!」
プレイボール。日南学園は容赦なかった。
一番打者が初球、一久の無防備な直球を完璧に捉え、弾丸のようなライナーでレフト前へ。名門のプライドが、「昨日の英雄」を力ずくで現実に引き戻す。
続く二番打者の場面。日南ベンチは、一久の「スタミナの薄さ」と「セットポジションの隙」を完全に解析していた。一塁ランナーが、揺さぶりをかけるように大きくリードを取る。
一久は、死んだ魚のような、虚無の瞳でランナーを見据えた。
(……動かないでほしい。あんなにチョロチョロされると、焦点が合わなくて気分が悪くなる。……そうだ。いなくなってもらおう、あの場所から)
セットポジション。一久の体から、一切の予備動作が消えた。
次の瞬間。一久の左腕が、鞭のように、あるいは雷光のようにしなった。
シュパッ。
無造作に放たれた牽制球は、精密機械が弾き出したような軌道で、一塁手のミットに吸い込まれた。ランナーは、戻る動作すら想起できず、土の上に立ち尽くした。
「アウト!」
日南ベンチが凍りつく。
「全くフォームが乱れなかった……。鳳凰大、どんな特殊な反復練習をさせれば、あんな非人間的な牽制ができるんだ!?」
河西は、マスクの下で歪んだ笑みを浮かべた。
(……残念だったな。こいつは、単に『ランナーを見るのが面倒くさい』から、牽制という名の排除行動だけを極限まで進化させちまったんだよ!)
試合は、一久の「不純な排除」と、日南の「泥臭い追撃」が激突する消耗戦となった。
しかし六回裏。一久の顔から、ついに「生気」が完全に消失した。交代のアナウンスが流れ、木佐綾子が放送席を離れるのが見えたからだ。
「キャプテン……。ガソリンが、一滴も残っていません。木佐さんの声が聞こえない世界でマウンドに立つのは、酸素なしで深海を歩くようなものです。代打、石井。……送ってください、バニラアイスの島へ」
「ふざけんな! まだ同点、二死満塁だぞ! ここが地獄の正念場だ!」
打席には日南の主砲。一久の視界がセピア色に染まり、膝がガクガクと笑い始めた、その時だった。
球場の古いスピーカーが、悲鳴のようなノイズと共に、震える声を吐き出した。
『……えー、臨時の、アナウンスです。ピッチャー、石井一久くん。……がんばってください。あ! 間違えました……九番、ピッチャー、石井くん』
木佐綾子が、休憩中にもかかわらずマイクを奪い取り、公共の電波を私物化して叫んだのだ。
その瞬間。一久の三白眼に、凍てつくような「青い炎」が宿った。
「……聴きましたか、キャプテン。僕、今、頑張れって言われました」
「聞こえたよ! 全校生徒と全観客に丸聞こえだ!」
「僕の、二度目のデビュー戦だ」
振りかぶった一久の全身の関節が、爆ぜるような音を立てた。
しなった左腕が、空間を断ち切る。
ドォォォン!
本日最速、一久の限界を超えた一〇五キロ(体感マッハ)の直球が、日南の主砲の、プライドに満ちた懐を真っ向から抉り抜いた。
「ストライク!」
名門・日南学園対、プレハブの鳳凰大。
一人の少女の声に魂を売り渡した、世界で最も不純で、最も純粋な怪物が。
今、真の意味で、夏の王者を絶望へと誘おうとしていた。




