空を仰ぐ鳳凰
六回裏、二死満塁。
アイビースタジアムの空気が、一瞬だけ凝固した。
鳳凰大附属のエース、石井一久の放った本日最速の直球は、皮肉にも彼の「不純な欲望」によって、最悪の軌道を描いた。
(三振を取って、木佐さんに最高にかっこいいところを見せる――!)
その過剰な力みが、繊細なナックルを殺し、指先を狂わせた。ボールが指に掛からず、虚空を滑る。
「あ」
間抜けな声が漏れた。
放たれたのは、力のない、しかし絶好の高さに浮いた「棒球」だった。日南学園の四番打者の目が、獲物を捕らえた猛禽のように見開かれる。
ガギィィィィンッ!
鼓膜を劈く金属音。白球は夏の夕空を裂き、放物線を描いてレフトスタンドの最上段へ突き刺さった。
逆転満塁ホームラン。
日南応援団の狂喜が、火山の噴火のようにスタジアムを飲み込む。対照的に、鳳凰大附属のベンチは、氷河期が訪れたかのような静寂に包まれた。
一久はマウンドで、飛んでいった白球の残像を、首をかしげて眺めていた。
「……飛ぶもんですねぇ、ボールって。あんなに遠くまで。あっちにバニラアイスの店でもあるんでしょうか」
「バカ野郎ッ! 何がアイスだ! 逆転されたんだぞ!」
河西がマウンドに駆け寄り、一久の胸ぐらを掴まんばかりに叫ぶ。
「指が……もう帰りましょうって、反乱を起こしたんです。僕のせいじゃない」
「指のせいにするな! お前の、その慢心のせいだ!」
一久は、放送席を見た。
木佐綾子が、言葉を失ったようにマイクを握りしめ、呆然と立ち尽くしている。その瞳に浮かんでいるのは、驚きではなく、明らかな「失望」だった。
――あ、マズい。
一久の胸に、かつての嘲笑された記憶とは違う、鋭利な痛みが走った。
自分の不甲斐なさが、彼女の声を、あの美しいアナウンスを、悲しみに染めてしまった。
ベンチに下がった一久は、タオルを深く被り、地蔵のように沈黙した。
そこへ、稲尾和久が音もなく現れ、隣に腰を下ろした。
「……一久くん。今のホームラン、ただの失投だと思っているのかい?」
「稲尾さん。僕はもう、アイスを舐める資格もない『お荷物』に戻りました。……彼女を、悲しませた」
「いや。今の球、スッポ抜けた瞬間に、物理学を無視したシュート回転がかかっていた。君が真っ直ぐを投げようとして失敗した時、君の体は、新しい魔球の産声を聞いたんだ」
稲尾はレジ袋から、少し溶けて形の崩れたアイスを一久に差し出した。
「真っ直ぐを、真っ直ぐ投げない。……その『失敗の感覚』こそが、君を本物の怪物へ変える。いいかい、一久。失敗を、最高のハッタリに書き換えろ」
一久は、溶けたアイスを喉に流し込んだ。ぬるい甘さが、敗北の苦みと共に全身に染み渡る。
顔を上げた一久の三白眼に、かつてないほどドロドロとした、執念の炎が灯った。
「……キャプテン。もう一回、マウンドに立たせてください」
「……なんだ。アイス代を稼ぎに行くか?」
「いえ。彼女に……『ごめんね、今から全部やり返すから』って、背中で言いたいので」
河西は一瞬驚き、それからマスクを叩いて立ち上がった。
「……言ってこい、石井一久! お前のその不純な初恋で、名門のプライドを根こそぎ刈り取ってこい!」
鳳凰大附属、二点ビハインド。
絶望の淵で、一人の偽物の死神が、真実の執念を纏って立ち上がった。
放送席の彼女が、もう一度自分の名前を誇らしげに呼んでくれる。その瞬間を奪い返すために。




